「雨を待つ」③ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ
文字数 1,458文字
野球部を引退した今も、才藤は律儀 にボウズ頭を保っている。こいつの実家は寺なのだが、それが理由ではないだろう。プロ入りを前に、体をなまらせないため、今も部の練習に参加しているからかもしれない。
一方、俺の髪は夏の甲子園から二ヵ月がたち、中途半端なかたちで伸びきっている。ずっとバリカンで刈ってきたから、美容院に行くのもなんだか億劫 () だ。
「俺もな、実感がないねん、全然」才藤の仕草がうつって、無意識のうちに襟足 () の部分をなでていた。
頭上の小さな窓から、薄ぼんやりと光が漏 () れてくる。北向きなので、とても頼りない明るさだ。
「自分の体が、自分の体のような気がせぇへん。この世界で生きてるって感覚が、まったくないねん」
母親に同じことを言ったら、「お前は詩人か」と、一蹴された。大学に行くか、働きに出るかせぇへんのやったら、家、たたき出すで、ホンマ──そう厳しく言われている。
「ナイトやったら、大学野球でも引く手あまたやろ。しばらく休んだら、ちゃんと腕、治して……」
「いや……、あかんねん。腕の前に、自分の体と世界を取り戻さなあかんねん。でもな、もちろんチームをうらんでるわけやなくて、だからこそどうしてええのか……」
自分でも、何を言っているのか、だんだんわからなくなってきた。結局、言葉がつづかず、尻切れとんぼになった。
「わざわざ呼びだしたんやけど、正直、俺はお前に何を言うべきかわからん」寝不足なのか、才藤の目は赤く充血していた。
あらゆる知り合いから送られてくる祝福メッセージに深夜まで対応していたのかもしれない。プロ野球選手になると、ほとんど交流がなかった「友人」や「親戚」が一気に増えるという。
「なぐさめたり、熱い言葉で励ましたりっていうのは、したくないねん。余計、ナイトを傷つけるだけやからな」
「ああ」
「だからって、このままでええと思ってるわけやないねんで。お前もつらいやろうけど、みんなもつらい。みんな、気にかけてんねん。お前のおかげで甲子園、優勝できたわけやからな」
それは、痛いほどわかっている。けれど、この二年半、厳しい練習をともにしてきた仲間の目を、今は指名手配犯のようにこそこそとさけて、学校生活を送っている。
顔をあわせたら、嫌でも野球のことを思い出してしまう。才藤の言うように、ありきたりな言葉でいくら励まされたところで、逆に憤 () りが増すだけだと思った。かつてのチームメートに、憎悪の感情だけは絶対に向けたくない。
下りの階段に足をかけたところで、才藤の低い声が狭い空間に反響した。
「ただ、俺は一つ、聞きたいねん」
才藤の目が、細く、鋭くなった。打席に入り、相手ピッチャーを見すえたときの眼光だ。
「ナイト、お前、野球で泣いたことあるか?」
予想外の問いかけに、体を凍 () らせた。才藤は、なおも追い打ちをかけるように質問をつづけた。
「小さいときはあるかもしれへんけど、たとえば十歳過ぎて、小学校高学年になってから、野球で泣いたことあるか? うれし涙でも、悔し涙でも、どっちでもええけど、野球に関することで、泣いたことあったか?」
そう矢継 () ぎ早 () に問われて、自身の野球人生をかえりみた。何も思い出せなかった。空白が広がっていた。
「わからん。記憶がない」
「じっくり、思い出してみ。たっぷり時間はあるやろ」
つぶやくように言って、才藤は階段を下りていった。
→④に続く
一方、俺の髪は夏の甲子園から二ヵ月がたち、中途半端なかたちで伸びきっている。ずっとバリカンで刈ってきたから、美容院に行くのもなんだか
「俺もな、実感がないねん、全然」才藤の仕草がうつって、無意識のうちに
頭上の小さな窓から、薄ぼんやりと光が
「自分の体が、自分の体のような気がせぇへん。この世界で生きてるって感覚が、まったくないねん」
母親に同じことを言ったら、「お前は詩人か」と、一蹴された。大学に行くか、働きに出るかせぇへんのやったら、家、たたき出すで、ホンマ──そう厳しく言われている。
「ナイトやったら、大学野球でも引く手あまたやろ。しばらく休んだら、ちゃんと腕、治して……」
「いや……、あかんねん。腕の前に、自分の体と世界を取り戻さなあかんねん。でもな、もちろんチームをうらんでるわけやなくて、だからこそどうしてええのか……」
自分でも、何を言っているのか、だんだんわからなくなってきた。結局、言葉がつづかず、尻切れとんぼになった。
「わざわざ呼びだしたんやけど、正直、俺はお前に何を言うべきかわからん」寝不足なのか、才藤の目は赤く充血していた。
あらゆる知り合いから送られてくる祝福メッセージに深夜まで対応していたのかもしれない。プロ野球選手になると、ほとんど交流がなかった「友人」や「親戚」が一気に増えるという。
「なぐさめたり、熱い言葉で励ましたりっていうのは、したくないねん。余計、ナイトを傷つけるだけやからな」
「ああ」
「だからって、このままでええと思ってるわけやないねんで。お前もつらいやろうけど、みんなもつらい。みんな、気にかけてんねん。お前のおかげで甲子園、優勝できたわけやからな」
それは、痛いほどわかっている。けれど、この二年半、厳しい練習をともにしてきた仲間の目を、今は指名手配犯のようにこそこそとさけて、学校生活を送っている。
顔をあわせたら、嫌でも野球のことを思い出してしまう。才藤の言うように、ありきたりな言葉でいくら励まされたところで、逆に
下りの階段に足をかけたところで、才藤の低い声が狭い空間に反響した。
「ただ、俺は一つ、聞きたいねん」
才藤の目が、細く、鋭くなった。打席に入り、相手ピッチャーを見すえたときの眼光だ。
「ナイト、お前、野球で泣いたことあるか?」
予想外の問いかけに、体を
「小さいときはあるかもしれへんけど、たとえば十歳過ぎて、小学校高学年になってから、野球で泣いたことあるか? うれし涙でも、悔し涙でも、どっちでもええけど、野球に関することで、泣いたことあったか?」
そう
「わからん。記憶がない」
「じっくり、思い出してみ。たっぷり時間はあるやろ」
つぶやくように言って、才藤は階段を下りていった。
→④に続く