第9話

文字数 10,464文字

 12 付き添い(承前)

「東京で?」
 と、亜矢子(あやこ)は言った。「じゃ、お母さん、東京で殺されたの?」
「うん」
 と(うなず)きながら、定食をせっせと食べているのは、十六歳の落合(おちあい)今日子(きょうこ)である。
 亜矢子は、よっぽど撮影所の食堂でカレーを食べれば、と思ったのだが、そこは多少見栄を張る気持もあって――といっても、近くの定食屋だが――この店で夕食をとることにした。
「新聞記事で、〈真木村(まきむら)相沢(あいざわ)邦子(くにこ)さん〉としか出てなかったんで……」
 (かのう)連之介(れんのすけ)が言いわけめいた口調で言った。
「そうならそうと、ちゃんと書いといてくれなきゃね」
「そうよ! 連ちゃんは悪くない。新聞がいけないのよ」
 と、恋人のひとみは当然叶をかばっている。
「じゃ、改めて調べないとね」
 と、亜矢子はラーメンを食べながら言った。
 ちなみに、叶とひとみはしっかり定食を頼んでいた。支払いは亜矢子だからだ。
「じゃ、あなたのお母さん――相沢邦子さんは、東京へ出て来てたのね?」
「詳しいことは(おぼ)えてないけど」
 と、今日子は言った。
「小学生じゃね」
「おじいちゃんの話だと、東京で、お父さんの行方が分るかもしれないってお母さんが言ってたって」
「行方不明になってたお父さんの? 相沢……(つとむ)さんだっけ」
「うん。でも、お母さん、私には何も言わなかったし、おじいちゃんにもそれ以上詳しい話はしてなかったみたい」
 と、今日子は言って、お店の人に、「すみません! お茶下さい!」
「お母さんが殺されたのは、東京へ出て行ってすぐだったの?」
 と、亜矢子は訊いた。
「すぐじゃなかったと思う」
 と、今日子は考えながら、「でも、どれくらいたってからなのか、よく分らないわ。お母さんが殺されたって連絡が入って、でもおじいちゃんが一人で東京へ行ったの。そしてお母さんのお骨を抱えて帰って来た」
「そういうことか……」
 と、亜矢子は肯いて、「もう食べちゃったの? 早いわね」
「ごちそうさま!」
 今日子は少しホッとしたように言ったが、
「――ラーメンも食べていい?」
 と、亜矢子の手元を見つめて訊いた。
「ええ、もちろん」
 若いとはいえ、大した食欲だ。――ラーメンはすぐに出て来て、今日子は食べ始めた。
 前の定食よりは、多少ゆっくり食べているのは、お腹が落ちついたせいだろう。
「――今日子ちゃん」
 と、亜矢子は少し間を置いて言った。「犯人として今刑務所に入ってる、三崎(みさき)(おさむ)って人のことは知ってる?」
 今日子はすぐに、
「知らない」
 と答えた。「お母さんが殺されたって聞いても、私とおじいちゃんはあの村で暮すしかなかったから……。で、半年ぐらいしてからかな。電話がかかって来て、『犯人を逮捕しました』って」
「それで――」
「おじいちゃんは一応裁判のときに一度だけ東京に出てったけど、私はまだ子供だし、ってことで、村に残ってたの」
「じゃ、三崎って人とは会ってないの?」
「見たこともない。写真で見たけど、それだけ」
「おじいちゃんは?」
「裁判のとき、見ただけじゃない? その内、三崎が有罪になった、って知らせが来た」
 亜矢子はすっかり面食らって、
「それじゃ、どうしてお母さんが殺されたのか、詳しいことは……」
「知らないわ。おじいちゃんに訊いても、『死んだ者は生き返らんよ』って言われて。――三崎治って、刑務所なんでしょ?」
「あと十年くらい刑期があるらしいわ」
「じゃ、私、二十六になってるのか」
 ――亜矢子は、殺人に至った事情も、三崎が逮捕された理由も、今日子が知らされていないということにびっくりした。
 しかし、祖父と孫、二人で田舎(いなか)の村で生活していたのでは、そう度々上京する余裕はなかっただろうし、日々の暮しの方が大切だと考えて当然かもしれない。
「ね、亜矢子」
 と、ひとみが言った。「事件のこと、一から調べないと」
「うん。――そうね」
「早速調べてみますよ」
 と、叶が言った。
 五十嵐(いがらし)真愛(まな)にも話を聞いた方がいい。亜矢子はそう思った。
「――今日子ちゃん」
 と、亜矢子は言った。「今夜、どこに泊るか、決めてあるの?」
「ううん」
 と、今日子は首を振って、「どこか、公園のベンチででも寝ればいいかと思って。そういう人、沢山いるんでしょ、東京って」
「でも……」
 むろん、そんなわけにはいかない。
「誰かいないの? おじさんとか親戚の人」
「いない」
「そう。――おじいちゃん、何か言ってなかった? あなた一人で東京へ来させて……」
「私、おじいちゃんに言わないで出て来ちゃったんだもん」
「え? 叶君――」
「僕は……てっきりあのおじいさんも分ってるとばっかり……」
 と、叶も目を丸くしている。「君、そう言ったじゃないか! おじいちゃんにも言ってあるよ、って」
「手紙、置いて来たもの」
 と、今日子は当り前という顔で、「大丈夫。私、もう十六の大人だから」
「あのね……」
 と、亜矢子はため息をついて、「普通、十六は大人って言わないのよ」
「へえ。東京の子って、大人になるのが遅いの? 村じゃ、十八にはお嫁に行くよ」
 どこの話? ――仕方ない。
「ね、ひとみ――」
 と、亜矢子が言いかけると、ひとみはあわてて、
「だめ! 私の所はだめよ! 私と連ちゃんで一杯!」
「分ってるわよ。じゃあ……私の所に泊ってちょうだい」
 と、亜矢子が言うと、
「いいの?」
 と、今日子は亜矢子を探るように見て、「恋人、いないの?」
「大きなお世話っていうのよ、そういうのを」
 と、亜矢子は言った。「ベッドは一つしかないから、あなたは布団で寝てね」
「うん。――一泊いくら?」
 と、今日子は訊いた……。

 13 渋めの日

 恋はヒロインだけでは成り立たない。
 もちろん恋の

が必要である。
「どうかな……」
 と、正木(まさき)がコーヒーを飲みながら言った。
「俺のイメージとしては……」
 亜矢子はコーヒーにうんと砂糖を入れながら、
橋田(はしだ)浩吉《こうきち》でしょ」
 と言った。
 正木がホッとした顔になって、
「お前もそう思うか。いや――地味に過ぎるかもしれんがな」
「でも、五十嵐真愛さんと組合せてもぴったりですよ」
「そうか? うん、そうかもしれん。お前がそう言うなら、当ってみるか」
 ――全く! 面倒なんだから!
 いつもは他人の言うことなど耳を貸さない正木だが、自分の判断に自信が持てないときは、遠回しに亜矢子に言わせるべく、話を持っていく。
 五十嵐真愛と恋に落ちる、渋い中年男。――誰にしたって地味に決っているのだ。
 亜矢子は、正木がパソコンで橋田浩吉の画像をチラチラ見ていることに気付いていた。というより、わざと亜矢子の目に入るようにしていたのかもしれない。
 それで、亜矢子の口からその名を出させて、
「まあいいだろう」
 などと言ってのけるのである。
「橋田は舞台の仕事が多いだろ?」
 と、正木は言った。「スケジュールは……」
「空いてます」
 ちゃんと調べている。
「うん、そうか。じゃ、連絡を――」
「今、メールしました」
 二人で、撮影所の近くのレストランに入ってランチをしているところだ。
「橋田は今いくつだったかな」
「ちょうど五十ですよ」
「五十か……。うん、いい年齢だ」
「返事が来ました」
 と、亜矢子はケータイを見て、「OKだそうです」
「早いな」
「正木監督の映画ですから」
「まあ、それもそうだな……」
 と、ついニヤニヤしている。
 実は亜矢子が前日に橋田と会って話してあるのだ。
 橋田浩吉は新劇畑の役者で、TVや映画でも脇で出ている。舞台で実力を発揮するので、亜矢子も、いつか正木の映画に出てほしいと思っていた。
「明日、スタッフルームに来てもらいましょうか」
「ああ、そうしてくれ」
 と言ってから、正木は、「――おい、亜矢子」
「はあ」
「いくら地味でも、橋田は今回主演男優だぞ」
「ええ」
「それなりの敬意を払わなくては。スタッフルームへ呼びつける前に……。もし今夜、体が空いているようなら、食事でもしよう」
「分りました。でも、監督、今夜はどこかの市長さんと会うんじゃなかったですか?」
「ああ、あれか! 会うったって、ちょっと握手でもすりゃ終りだ。少し遅めの都合を――」
「今、訊きます」
 亜矢子は手早くメールを送った。すぐに、「空いています」と返事が来る。
「よし。じゃ、八時にどこか予約しとけ」
「もし、都合がつけば五十嵐さんも呼びますか」
「ああ、いいな。主役二人の顔合せは必要だ」
「訊いておきます」
 亜矢子は、どうせ五十嵐真愛を訪ねて話を聞くつもりだった。
 相沢邦子が殺された事件について、真愛も何を知っているのか。――叶が調べているはずだが、ひとみが叶と一緒にいたがるので、どうも調査が進んでいない様子なのだ。
 場合によっては、戸畑(とばた)弥生(やよい)のシナリオにも係ってくる。
「――やあ」
 と、レストランへ入って来たのは、チーフ助監督の葛西(かさい)とカメラマンの市原(いちはら)
「何だ、昼飯か?」
 と、正木が言った。
「いや、もう済ませました」
 と、市原が言った。
 スタッフルームじゃないのだ。何も頼まないわけにはいかない。
「デザートでも頼みましょ」
 と、亜矢子はウェイトレスを呼んだ。
 映画のスタッフといえば「酒飲み」というイメージがあって、それは間違いではない。しかし、一方で、「体力勝負」の映画の仕事、甘いものを好むのも事実である。
 ウェイトレスがケーキのサンプルを盆にのせてくると、
「おっ、旨そうだな」
 と、市原が真先に、「これとこれ!」
 と、普通は一つ選ぶところを二つ選んで、
「アイスクリームをつけてくれ」
 亜矢子は聞いているだけで胸やけして来た。
「――監督に見てもらおうと思って」
 と、市原がスマホを取り出す。
 正木に比べると、その手のものに強いのはやはりカメラがデジタル化して、いやでも覚えなければならないからだろう。
「何か問題か?」
「いや、ともかく見て下さい」
 と、市原が動画を出して見せた。
「これは――あの子か」
「監督、名前憶えて下さいよ。戸畑佳世子(かよこ)さんです」
 佳世子がごく普通の女子大生という感じで、どこかの大学のキャンパスを歩いている。
「どこだ、ここ?」
「手近な大学で。――いい雰囲気じゃないですか?」
「うん……」
 正木は、七、八分のその動画を、くり返し見た。
 亜矢子にも、市原たちの気持が分った。
 新人としてデビューさせるとはいえ、全くの素人だ。しかし、こうして映像になると、ふしぎなオーラをまとって見える。
「――いいでしょう!」
 市原はそう言いながら、二つめのケーキを食べていた。
「話題になりますよ」
 と、葛西が言った。
「うん……」
 正木が肯く。
 もちろん、映画にとって、話題が増えるのはいいことだ。ことに今度のように全体が地味な作りの作品の場合、公開に当ってTVや雑誌で取り上げられる機会は少ないだろうから、「新人」の佳世子のフレッシュな魅力は効果があるかもしれない。
 しかし――正木はちょっと難しい顔で黙ってしまった。
 亜矢子には正木の考えていることが分っていた。
「でも、監督、今度の映画は青春物じゃないんですから」
 と、亜矢子は言った。「あんまり佳世子さんが前面に出過ぎると――」
「分っとる!」
 と、正木は言った。「お前は俺が新人に振り回されるとでも言うのか?」
「そうじゃありませんけど……」
「ちゃんとこの子の個性は活かして使う。しかし、主役はあくまで大人の二人だ」
「それならいいですけど」
 亜矢子の言い方で、市原たちもピンと来たらしい。
「もちろん、芝居ができるかどうかは別ですがね」
 と、市原は言った。
「おい、亜矢子」
「はい」
「この子――佳世子だったか? コーチをつけて、セリフを言わせてみろ。どの程度使えるか、試してみる」
「分りました。それと……」
「何だ?」
「佳世子さんを本間(ほんま)ルミさんに会わせておいた方がいいと思いますが」
 亜矢子は本間ルミが叶に色気を見せていたということを思い出していた。
 自分に黙って、正木が若い女の子を、それも「素人」の子を起用すると聞いたら、面白くないだろうと思ったのだ。
「彼女に? うん、そうか」
 正木には亜矢子の提案がピンと来ないようだった。
 実際の準備に入った正木にとっては、もう本間ルミのことが単なる「出資者」に見えてしまっているのだ。しかし、本間ルミは自分も「出演者」の一人のつもりでいるだろうし、正木がどういう役を振ってくれるか楽しみにしているだろう。
「同じ素人同士ですし」
 と、亜矢子は言った。「監督自身が佳世子さんを連れて行った方がいいですよ」
「俺が? そんな時間は……」
 と、正木は言いかけたが、亜矢子は遮って、「出資してくれるんですから、進行状況をまめに報告するべきですよ」
「ああ。――もちろんそうだな。よし、明日にでも――」
「まず本間さんのご都合を訊きます。きっと凄く忙しいでしょうから」
「分った。お前に任せる」
 そう言って、正木はホッとした表情になった。何でも任される亜矢子の方はたまったものではないが、一旦こじれた後に苦労するよりはましかもしれない。
 その場で本間ルミに連絡、翌日のお昼にルミの会社を訪ねることになった。
「――おい、亜矢子、これからどこかへ行くのか?」
 食事を終えて、レストランを出ると、正木が訊いた。
「シナリオライターを訪ねます。それから、ヒロインの所を」
「そうか。よろしく言ってくれ」
 正木はもうすっかり何もかも片付いていると思っているようだ。
 とんでもない! 問題は山ほどある。
 しかし、正木には、できるだけ映画のことだけ考えておいてほしい。
「スクリプターはつらいよ、って映画でも企画しようかな……」
 と、亜矢子は呟いていた。
 しかし、その前に――。

「やあ! 元気かい?」
 明るい声で手を振ったのは、この前の事件のとき、散々世話になった刑事――倉田(くらた)亮一(りょういち)である。
「どうも」
 亜矢子は日射しの入るフルーツパーラーの席につくと、「いかがですか、新婚生活は?」
 倉田は満面の笑みで、
「うん! 楽しい!」
 と言った。
 幸せ一杯、ってとこか。――こんな幸せそうな顔で、よく刑事やってられるわね、と思う亜矢子だったが……。
「フルーツパフェ?」
 亜矢子は、倉田の前にデンと置かれた巨大なパフェに目を丸くして、「倉田さん、そんなに甘党だっけ?」
「いや、そうじゃないよ。ただ、うちの奥さんが甘いものが好きでね。付合ってる内に、なかなか悪くない、って気がして来て」
「はあ……」
 そういうことですか。要するにのろけているのだ。――好きにしてくれ、と心の中で言って、
厄介(やっかい)なことお願いしてごめんなさい」
 と、亜矢子はコーヒーを頼んで言った。
「いや、担当じゃなかったしね。しかし、もう解決済の事件だから、あまりうるさいことは言われなかったよ」
 と、倉田はショルダーバッグから分厚いファイルを取り出して、テーブルに置いた。
「これ、捜査資料? 借りていい?」
「まあ、本当はいけないんだけど、亜矢子君のことだ、目をつぶることにするよ」
 と、フルーツパフェを食べ始める。
「ありがとう。でも――これ全部読むの、大変だね、簡単に説明してくれない?」
「うん。まあ――僕も新聞記事ぐらいのことしか知らないけどね」
 と、倉田は言った。「殺された相沢邦子は当時三十五歳だった。夫が東京に出稼ぎに行ったまま行方不明になっていた……」
 その辺の事情は、落合今日子から聞いていた通りだった。
「それで、殺人犯として捕まった人は――」
「うん。三崎治は今四十二歳になる。三崎は工事現場の臨時雇いの手配を仕事にしていたんだ」
「じゃ、それで相沢努のことを……」
「行方不明になったのは、もう十二年も前なんだが、そのとき、妻の邦子が東京へ捜しに来ている。話を聞いたのが三崎だった」
「でも、そのときは何も分らなかったのね」
「そういうことだ。雇うといっても、ほとんど日雇いみたいなもので、いちいち身許なんか調べないんだな。で、相沢努のことも、結局何の手掛りもなく、妻の邦子は帰って行った」
「それが五年前に、どうして……」
「記録だと、邦子の実家、落合喜作(きさく)のところに、三崎治から、相沢努らしい男を見た、という連絡があった」
「それは事実なの?」
「三崎は否定している。相沢努を見てもいないし、見たという連絡もしていない、と言ってるんだ」
「それで?」
「相沢邦子は急いで東京へやって来た。早速三崎に会いに行ったが、三崎は全く覚えがないと答えた」
「それじゃ、他の誰かが……」
「そうかもしれない。しかし、どうしてそんなことをしたのか、動機が分らない」
「それもそうね」
「しかし、三崎はずっと前に上京して来た邦子を憶えていて、ともかく一緒に都内の建設現場を何ヵ所か見て回ってくれたそうだよ」
「それで、何日か泊ったのね」
「もちろん、安い宿を捜したが、そう何日も泊っていられない。それで、家へ帰ることにして、三崎に挨拶に行った」
「それで?」
「三崎は、それなら晩飯を一緒に、と言って、邦子を誘った」
 と、倉田は言った。「その話をしていたのは、事務所の人間が聞いていた。――その日、仕事が終ってから、三崎は邦子と待ち合せた」
「二人で食事を?」
「三崎はそう言っている。そして――翌日、相沢邦子の死体が発見された」
「どんな状況で?」
「邦子が泊っていた旅館の部屋だ。もともと下宿屋だった古い日本家屋で、ともかく安いので泊っていたらしい」
「その部屋で殺されたの?」
「そうらしい。詳しいことは知らないがね。二人で食事した後、三崎はタクシーで邦子をその旅館まで送って行ったらしい。――そして彼女の部屋へ上り込み、乱暴しようとして、抵抗されたので、首を絞めて殺した……」
 亜矢子は肯いて、
「それ、三崎は認めてるの?」
「いや、本人は無実だと主張していたようだ。でも、その旅館の部屋に三崎の指紋が残っていたというし、三崎はかなり酔っていたということだしね」
「で、有罪になったのね」
「控訴したけど、やっぱり有罪になって、刑が確定したんだ。十三年だったかな。まだ十年くらい刑期が残ってるはずだよ」
「ありがとう。後は、この資料で詳しいことを調べるわ」
「だけど、亜矢子君、どうしてこの事件のことを?」
「ああ……、ちょっとね」
 と、亜矢子は言葉を濁した。「次の映画に必要で」
「へえ。でも、君、この前の事件でも、結構危い目にあってるじゃないか。気を付けてくれよ」
「ありがとう、心配してくれて。私は大丈夫。めったなことじゃ死なないわ」
「それは僕もよく知ってるよ」
 と、倉田は笑った。「今度は崖からぶら下らないの?」
「もう! みんなそのことばっかり言って! よっぽど他に取り柄がないみたいじゃないの」
 と、亜矢子は文句を言って、「――まあ、あんまりないけど」
 と、付け加えた。
 ――倉田が、
「うちの嫁さんの料理は旨いんだよ」
 と、自慢しながら別れて行くと、
「お幸せに」
 と呟いた亜矢子。
 しかし、倉田の話を聞いていて気になった。
 三崎が、相沢邦子に親切にしてやったとして、前に会ってから何年もたっているのだ。一晩、食事したぐらいで殺すようなことになるだろうか?
 いかにもTVドラマとかでありそうなシチュエーションだが、亜矢子にはいかにも誰でも思い付きそうな、安っぽい筋書に見える。
 亜矢子も、出来の悪いシナリオを山ほど読んでいるので、あまりにパターンにはまっているのは気に入らないのだ。
 もちろん、シナリオと現実とは別だ。でも……。
 分厚くても、このファイルを読まなくてはいけないか、とため息をつく亜矢子だった……。

 14 ヒロインの座
 
 あんまり高くなくて、でもそこそこおいしくて、比較的静かで話ができる。――そんな難しい条件でも、何とか見付けるのがスクリプター。
 古くからある洋食屋で、最近改装してモダンになった店。
 個室というわけじゃないが、一応、仕切られた席で、正木と橋田浩吉の顔合せが行われていた。
 他には亜矢子とカメラの市原。
 五十嵐真愛は仕事があって来られなかったが、正木が彼女について橋田に説明した。
「――なるほど」
 と、橋田は肯いて、「みんな知らないけど、実力のある役者というのはいるものですね」
「確かに」
 と、正木は肯いて、「彼女の演技力については保証する。ここにいる市原と亜矢子の二人もちゃんと見ている」
「分りました。楽しみです」
 と、橋田は静かに言って、ゆっくりとビールを飲んでいた。
 一見したところ、役者らしいところはどこにもない。服装も地味だし、顔立ちもごく普通。
 TVドラマや映画をよく見る人なら、必ずどこかでこの顔を見ているはずだが、おそらく記憶に残っていないだろう。
 それでいて、作品の中で、「その役がしっかり()れていなかったら、ドラマが成り立たない」ような大切な役をこなしているのだ。
 もともと舞台が中心なので、そちらでは主役もこなす。
「しかしね」
 と、正木が言った。「五十嵐真愛は映像の仕事に慣れていない。だから、その点では君が気を付けてやってほしいんだ」
「僕だって、こんな大きな役は経験ありませんよ、映像では」
 と、橋田は言った。「もちろん、映画特有の注意点とかは教えられますが」
「頼みますよ」
 と、市原が言った。「慣れてない人は、テストの度に立ち位置が変っちゃうんでね。ライトが困るんですよ」
 カメラで構図を決めても、役者が定位置にいてくれないと、照明も変えなければならない。それにはやはり経験がものを言うのである。
「準備稿です」
 と、亜矢子がシナリオを橋田に渡す。
 橋田はパラパラとめくって、
「じっくり読ませていただきます」
 と言った。
「ともかく、撮影のスケジュールがはっきりしたら、亜矢子からすぐに知らせるようにする」
 と、正木は言って、ワイングラスを手にしたが、「――空か。おい、グラスで赤ワインを頼んでくれ」
「はい」
 仕切られているので、店の人間の目に止りにくい。亜矢子は立って、仕切りから出ると、ウェイターにワインを注文した。すると、
「あら、亜矢子さんじゃない」
 という声。
「あ……。本間さん! どうも」
 本間ルミがビジネスマンらしい男性三人とテーブルを囲んでいたのだ。
「あなたも仕事?」
 と、ルミが訊く。
「はい。正木監督も一緒で」
「まあ、偶然ね。じゃ、ちょっとご挨拶だけ」
「どうぞ。――監督」
 亜矢子はテーブルに戻って、「本間さんが偶然そこに」
 本間ルミは仕切りの中へ入ると、
「どうも」
 と、微笑んで、「お打ち合せ?」
「そうなんだ。――こちらは本間ルミさん。今度の映画に出資してくれる」
「これはどうも」
 と、橋田が立ち上って、「橋田といいます」
 ルミがちょっと目を見開いて、
「役者さんですよね? TVで拝見したことが」
「今度の映画で、ヒロインの相手役を演ってもらうんだ」
 と、正木は言った。
「まあ、そうなの」
 と、ルミは手を出して、橋田と握手すると、
「私、あなたと恋を語るわけね? どうぞよろしく」
 と言った。
 橋田が、ちょっと戸惑った表情を見せたが、
「いや、こちらこそ」
 と、笑顔になった。
 亜矢子と正木は、素早く互いを見かわした。
「本間さん」
 と、亜矢子が言った。「明日伺うことに――」
「ああ、そうだったわね」
 と、ルミは肯いて、橋田の前に置かれたシナリオに目をとめると、「もしかして、今度のシナリオ? まあ!」
 と、手に取って開いた。
「明日お届けしようと……」
「読みたいわ、すぐ! これ、いただいてもいいでしょ?」
「――もちろん、どうぞ」
 と、橋田が言った。
「楽しみだわ! 私、一度恋に悩むヒロインをやってみたかったの。恋愛映画のヒロインがやれるのなら、お金を出すかいがあるってものだわ。――ごめんなさい。お客と一緒なので、じゃ、明日ね」
 本間ルミは自分のテーブルに戻って行った。
 ――しばらく、誰も口をきかなかった。
「お待たせしました」
 と、正木の前に赤ワインのグラスが置かれた。
「――亜矢子」
 と、正木が言った。
「私、知りませんよ」
「しかし、お前がちゃんと説明しないからだろ」
 亜矢子も頭に来て、
「そういうこと言うんですか? 監督のお友達じゃないですか、はっきり言ってあげて下さいよ」
「しかし、まさか……。いくら演劇をやってたといっても、学生のときだ。今は素人だぞ。まさかヒロインをやるつもりでいるとは……」
「しかし、出資者なんでしょう?」
 と、橋田が言った。「話が違うとなったら、お金が……」
 亜矢子たちのテーブルは、まるで時が止ったかのように、誰もが固まって動かなかった……。

(つづく)

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