『見習医ワトソンの追究』大ボリューム試し読み②

文字数 6,040文字



 家入陽太郎は、大阪市生野区鶴橋と天王寺区上本町の中間地点にある三品病院で、他の医師たちが書いた外来患者の診療所見をまとめて、電子カルテに入力していた。長時間入力画面を見ているせいで文字の輪郭がぼけ始めたとき、院内ケータイに院長の三品元彦から連絡が入った。

 午後九時四九分、いつもの癖で腕時計を見ながら陽太郎は電話に出る。

「入力にいつまでかかってる。個人的見解を差し挟むから遅いんだ」

 三品はいつものように高圧的だ。「いいえ、先生方の診断をそのまま入力しています」

「そのまま?」

「はい、僕ごときが見解を差し挟むなんてできませんし」

「なら、何も考えず打ち込んでいるのか」

「……そんなこともないですけど」答えようがない。

「すべての症例について、自分ならどうするか、常に頭を働かせなきゃいかん」

「いったい、どうすれば」

「簡単だ。手も頭もフル稼働させろ。脳は常に一〇パーセントしか稼働していないってのは真っ赤な噓だが、いまのお前ならそれに毛が生えた程度かもしれん」受話器越しでも鼻で笑ったのが分かった。「その作業から解放してやろう。いますぐ初療室へ向かえ」

「ERですね」陽太郎はパソコンの画面を閉じて席を立つと、ケータイを首に挟んで小さな洗面所で手を洗う。ペーパータオルで水滴を丹念に拭って消毒液を手にすり込んだ。

「ああ、重傷の外傷患者だ。すぐに救急集中治療室に移動する」

 腹部を鋭利な刃物で刺された三〇代の女性だという。

「僕は内科医ですが」ことさら深刻そうな重い口調で言った。

 今夜は外科部長の志原がいるはずだ。彼の下には何人も優秀な外科医が揃っている。いや、ほとんどの処置は、田代英太がいればなんとかなるだろう。彼は救急センターで三次救急に対応してきた経験を持つER専門医だ。新米内科医の出る幕はないはずだ。下手にERを手伝って三品の小言をもらいたくない。

「命令だ」と三品は電話を切った。

 三品の指示には時として首をかしげることがある。明らかにパワハラだと思うことさえあった。

 陽太郎はため息をつくと、サージカルマスクをつけ直して部屋を出た。

 救急搬入口への長い廊下を急ぎ足で歩く。

 陽太郎は研修医ではない。すでに医師として東京信濃町にある父が経営するクリニックで内科医として働いていた。しかし三〇歳を前に、来院した高齢患者の命を危うく奪いかけるミスをしでかした。その精神的な打撃で自信を喪失し、しばらく患者を診ることができなくなっていた。そんな息子に、父は旧知の三品の元で医師としてのリハビリを勧めた。しかし三品の指導はリハビリというにはあまりに過酷で、まるで修行、いや苦行をしているようだ。

 三品病院は病床数約二〇〇規模としては異例の、充実した診療科を設けている。内科系が総合、脳神経、消化器、呼吸器、腫瘍、感染症、アレルギー、精神と新設の老年の九つ、外科系は脳神経、心臓血管、消化器、整形、乳腺、形成の六つ、さらに眼科と歯科、耳鼻咽喉科を合わせて一八科。そのすべての科の担当医師を陽太郎と一四人の研修医でフォローしていた。

 その上、今年のはじめ、三品病院に勤務して二年しか経っていない陽太郎に研修医の束ねとして、指導者役も担えと三品から告げられた。三一歳の陽太郎に、さほど年の変わらない研修医の指導など無理だと断った。この病院で独裁者の三品に逆らうことは、クビを意味する。そうなれば医学界では生きづらくなるだろうが、親父の元に戻ればいい。

「どんな気持ちで彼に頭を下げたと思うんだ。医者を続けたいのなら彼がいいというまで、踏ん張ってくれ。でないとここにお前の居場所はない」

 そのときの親父の懇願するような電話の声に負けた陽太郎は、いまだ誤診の過去を引きずる頼りない指導医として研修医の冷たい視線を感じながら、徐々に外来診療を始め、その他の雑務も率先して行っている。

 三品の医者としての力量は、親父の話を聞くまでもなく、学生時代も研修先の病院でも噂されていた通りだと思う。個性が強く人間的には大いに問題があると感じるけれど、彼の元で勉強したいという医師が多く、競争率が高いことを考えると、親友の息子だったことは幸運なのかもしれない。そう思うように努めた。

 救急搬入口はすでに全開されて、救急車が開口部を向けてバックしてきていた。その後ろの救急専用駐車場にパトカーが停車し、救急車の赤色灯とシンクロするように賑やかに明滅している。

 ちらつく赤い光を見ると、陽太郎の鼓動は速くなり、深呼吸しないと空気が肺に入ってこない気がする。家入クリニックから、自分のせいで重篤となった高齢者を転院させたときの光景と重なるのだ。横隔膜の上下を意識し体に空気を取り込み、何度もかむりを振る。嫌なイメージを振り払いたかった。

 そこに田代医師と看護師長の室田君枝がERから出てきた。陽太郎は、ストレッチャーを搬送する救急隊員の元へ田代医師と君枝とともに駆け寄り、患者を目視した。

「田代です」

「オンラインメディカルコントロール、感謝します」救急隊員が敬礼すると続ける。「先生の指示通り応急止血と気道確保、リザーバーバッグを装着し、ショック体位をとらせています。患者の名前は五十嵐夏帆、年齢は三二歳、女性。左腹部に鋭的外傷、血圧測定不能、心拍数一二〇で呼吸数毎分八回。大量出血で呼び掛けに発語なし、痛み刺激にも反応しません。家族からの事前情報あり、血液型はA+です」

「分かりました。ここからはこっちで」

 田代の背後に目をやると、二人の研修医が院内のストレッチャーを用意していた。陽太郎も加わり患者を移し替え、素早くERに運ぶ。

 通常の救急病院は、ERで救急隊員の説明を受けるが、この病院は外部の人間をそこまで入れない。雑菌の持ち込みを遮断するためだ。さらに通路には除菌型エアシャワーが設置されていて、院内の人間の衣服に付着している細菌類もシャットアウトする念の入れようだ。

 ERの前までくると、自動で扉が開いた。ER内ももちろん外科手術室なみに衛生管理されていた。

 ERというところは、患者やその関係者、院内スタッフの出入りが激しいこともあって通常それほど神経を使わない。これらの配慮はすべて、院長である三品が、感染症専門医だからだ。

「家入先生、あとは私たちでやります。先生は警察官の対応をよろしく。待つなら、救急集中治療室の前で待機してもらってください」田代がエコー検査をはじめながら、陽太郎に告げた。

「院長がERに行けと」

「いいの、いまは田代先生の指示に従って」田代の代わりに君枝が言い放ち、患者の着衣をハサミで切り裂くと素早く滅菌タオルケットで覆った。

「分かりました」陽太郎は頭を下げるとERから出て、今来た廊下を歩いて戻る。首を左右にストレッチしながら、大きく息を吐いた。

 内心ホッとしていた。搬送されてきた患者は美しい女性で、顔面の蒼白状態や意識レベルからみてかなりのショック状態にあることが分かった。止血に開腹手術が行われるだろうし、臓器の損傷の程度によっては助からない。

 医師としてこれまで幾度も患者の死に直面してきた。持てる知識と技術を駆使しても、助からないことがあるのは百も承知だ。しかし、そのたび医学の無力さを突きつけられるのが苦痛だった。自分の学んできたこと、これから学ぶことが無意味に思えてしまうからだ。そうはなりたくなかった。

 生死を分ける確率の高いERには近寄らないほうがいい。ただ、そんな陽太郎の気持ちを三品が知っているとも思えない。いや知っていたとして、容認するような命令を出すことはない。何か裏があるのかもしれない。

 扉越しに、嫌な赤色灯が見えている。

 搬入口の扉を開き外に出ると、大粒の雨が落ちてきていた。梅雨入りしてから高温が続いている。とくに今日は昼間からやけに蒸し暑く、いつ降り出してもおかしくなかった。雨で湿度が上がるのは嫌だけれど、気温が下がってくれれば、暑さが苦手な陽太郎は過ごしやすくなるはずだ。

「先生、五十嵐さんの容態は?」数人の制服警官たちの後ろから、スーツ姿でショートカットの女性が陽太郎の前にやってきた。「私は大阪府警天王寺署の成山と言います」とバッジを提示する。スーツの袖に水滴が光っていた。

 陽太郎は彼女が庇に入れるように後じさりして言った。「患者さんに関して、まだお話しできるようなことはない、と思います」

「思います?」成山は、値踏みするような視線を向けてきた。

「いま処置を開始したばかりだということです。待たれるのなら、院内で」

 点滅する赤い光の中に、数名の報道陣らしき人間の姿が見える。さらに向こうにワゴン車が止まった。おそらくテレビ局のものだろう。

「被害者は助かりますか。それだけでも教えてください」

「助けるべく、懸命に手を施しています」それ以上の情報は何もなく、陽太郎にはそう言うしかなかった。

「それはそうですね。すみません」成山は名刺を差し出した。「現場に戻りますので、容態について分かったら、連絡してください」

「分かりました」名刺には成山有佳子とあった。

 有佳子はお辞儀をすると、制服警察官たちと何やら話し、一緒にパトカーに乗り込んでいった。

 次の瞬間、記者たちが押し寄せてきた。その背後にテレビカメラを担いだ男性もいる。

「被害者は美容研究家の五十嵐夏帆さんですね」

「重傷なんですか」

「凶器はなんです?」

 一斉に質問を浴びせ、ICレコーダーやスマホを顔面にむけて突き出してくる。

「いまは何も言えません」陽太郎は顔をそむけながら言い放つと、逃げるようにきびすを返した。中に入って扉を閉め、入り口に設置してある電話で、警備員に報道陣をブロックするよう頼んだ。

 陽太郎が息をつき歩き出したとたん、院内ケータイの呼び出し音が鳴った。君枝からだ。やはり暇など与えてくれるはずはない。

「家入です。いま警察官が現場に戻りました。報道陣も増えてきて大変です」言い訳がましい台詞を口にした。

「そうなの?」

「状況が分かれば知らせてほしいと。連絡先は聞いてます」陽太郎は、胸ポケットから有佳子の名刺を取り出した。「助かるかどうかだけでも教えてほしいって刑事が言ってました」

「いまは何とも言えないけれど、創傷が脾臓にまで達してたんです」出血が酷く、大量の輸液と輸血をしながら、いまからオペに入ると君枝が言った。

「そんなに深くまで」

「ええ、Ⅲa型、単純深在性損傷みたいです」外傷性脾損傷の重症度は五段階に分けられ、君枝は四番目の重症度を口にした。

「じゃあ摘出ですね」創傷が脾臓の深部にまで達している状態だ。出血性ショック状態だったことから動脈を傷つけているのだろう。そんな場合、緊急手術で脾臓を摘出したほうが遅発性破裂の心配をしなくて済む。損傷した脾臓は時間の経過と共に肥大化していくため、切除した上で止血する。むろん敗血症などのリスクは伴うが、志原の腕なら何ら問題はないはずだ。

「いえ、何とか温存しようとされてます。開腹せず、カテーテルを使うとおっしゃってます。意識レベルは変わらないけど、バイタルは安定傾向やからって」

「そうなんですか」おそらく血管塞栓法で止血するのだろう。場合によってはコラーゲンシートによる組織修復をするつもりなのかもしれない。「しかし温存とは……」身体の負担を軽くするために低侵襲性の優先は分からないでもないが、疑問が残る選択だった。

「何か?」

「いえ……で、僕はどうすれば?」

「時間が空いたんなら、オペを手伝う気はないかと志原先生がおっしゃってます」

「院長に電話してから伺います、と伝えてください」陽太郎は三品に電話して、警察官たちが現場に戻ったことを報告すると、志原の手術に立ち会うためにERへ急いだ。

 ERに入ると、X線防護衣を着て、志原の背後に立つ。ERには、田代の要請によりIVR‐CT(画像下治療‐コンピュータ断層診断装置)が設置してあった。この装置のお陰でリアルタイムに透視、撮影しながらカテーテル診断、治療ができる。記録スイッチを入れれば映像データが保存され、術後の検証にも役立つ。患者はすでに中尊寺の麻酔によって眠っていた。中尊寺は、三品に請われて新しくやってきた麻酔医だ。

 脾外側の切創によって周囲に液体が貯留、脾臓からの出血だと判断した。血管造影により、脾動脈の分枝に損傷部分を特定。

 志原は流れるような所作で、右大腿動脈からマイクロカテーテルを挿入したかと思うと、躊躇なくヒストアクリルを注入していった。破れた血管にアクリルがどんどん注入されていく様子がモニターにズームアップされる。完全に止血されたことを映像で確認し、刺創部にごく小さな切り込みを入れて、傷口から直接脾臓の裂傷部分にコラーゲンシートを貼り付けた。その後刺創を縫合し、志原はオペの終了をスタッフに告げた。

 陽太郎は大きく息を吐き志原を見た。彼の手際の良さとカテーテル操作の正確さは、陽太郎がこれまで見てきた外科医の中でも群を抜いていると思った。脾臓損傷による出血性ショック状態で臓器摘出ではなく、TAEを選択したのもうなずける。

 患者の体は大量の全血輸血に反応し、バイタルサインも安定を見せた。それを確認してから、志原の指示でERと内部でつながっているECUに移動させた。


 患者をECUに移し終えると、ECUのベッドサイドモニターを確認し、人工呼吸器が付けられた顔を脱脂綿で丁寧に拭いてやりながら、君枝が聞いてきた。「どうでしたか、志原先生の処置は?」

「正確さはもちろんですが、圧倒的な速さに驚きです。準備を含めても小一時間でしたよね」脾臓までのカテーテル処置は、熟練者でも二時間はかかるはずだ。

「それをERでやってしまうんやからね。見学しても損はなかったでしょう? 先生に感謝しないとあきませんよ」君枝は、他に人がいなくなると関西訛りが顔を出すようだ。

「そうですね、志原先生にきちんと礼を言ってなかったな」陽太郎は首筋を押さえ宙を仰ぐ。

「院長にもね」

「院長に?」

「院長がこれは言うなとおっしゃったんやけど。さっきERにみえて、さっと患者さんを診ながら田代先生から状況をお聞きになると、院長直々志原先生に『家入先生に見せてやってくれ』と頼まはったんです」と君枝は、患者の長い髪をサッと手櫛でとき、肌掛け布団を整えて作業を終えた。

「院長が……」

「言わはらへんだけで、期待されてるんやと思いますよ」

「僕に期待なんか」そんなはずない、と自分に言い聞かせた。何か意図があるはずだ。

「私が言うたって、バラさんといてね」君枝は、五十嵐夏帆と記された小さなホワイトボードをベッドに取り付け、陽太郎の横をすり抜けてECUを出ていった。

 陽太郎も後に続き、ERの片付けをする前に廊下に出た。スマホを手にし、胸ポケットから成山刑事の名刺を取り出した。

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