逆算の発想を排した意欲作/細谷正光
文字数 959文字
一般社団法人文人墨客が主催している、「細谷正充賞」をご存じだろうか。1年の間に出版された新刊のエンターテインメント・ノベルの中から、私が本当に面白いと思った五作品を選んでいる文学賞だ。そして今年(2021)の第4回細谷正充賞に選んだ作品のひとつが、矢野隆の『戦百景 長篠の戦い』であった。本書は、それに続く「戦百景」シリーズの第2弾だ。こちらは桶狭間の戦いを題材にしている。
ところで第4回細谷正充賞の受賞式を行ったとき、作者に本書のことを聞くことができた。そのとき強く印象に残ったのが「逆算で話を作らないようにしました」という言葉である。どういうことか。桶狭間の戦いにおける織田信長の描き方だ。
私たちは信長の奇襲により、海道一の弓取りといわれた今川義元が殺されたことを知っている。この戦を足掛かりに、信長が天下に向かって飛躍したことを知っている。織田と今川の戦力差を考えれば、まさに奇跡の勝利だ。そのため信長には最初から勝算があったとか、何らかの計略があったと思いがちである。
だが、それこそが結果から過程を導き出す、逆算の発想だ。作者はこれを排した。今川の軍が迫ることを知った信長は、策もないまま飛び出し、どうしようかと迷っているうちに、ある情報を掴んで一条の光を得る。その光に向かっていった結果が、桶狭間での勝利になったとしているのだ。なんて斬新な戦の真相かと驚いてしまった。
しかし同時に納得もした。作者は信長と義元の人物像と、桶狭間に至る軌跡を交互に描くことで、ふたりの人生の交錯を運命にまで高めたのである。また、信長側に服部小平太、義元側に松平元康(後の徳川家康)の視点を入れ、ストーリーに膨らみを与えている点も見逃せない。作者の優れた人間観により、いままでにない桶狭間の戦いを堪能できるのである。
なお作者は今後も本シリーズを執筆するとのこと。次はどの戦に新たな命を与えるのか。楽しみでならない。
特別に、あがりたてほやほやのカバーイラストをチラ見せ!