『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み⑪

文字数 12,627文字

最強の花魁×異形の鬼!

人気シリーズ「Cocoon」の第1巻『Cocoon 修羅の目覚め』をどどーんと太っ腹に1巻まるまる試し読み! 


毎日1章ずつ公開していく「毎日コクーン」、第11回めです!

十一


 八朔(はっさく)。徳川家康(いえやす)公が江戸入りをした際、諸大名が白帷子(しろかたびら)で記念の儀式を執り行ったことを祝い、吉原で白無垢(しろむく)道中が行われる大紋日である。


 大見世である黒羽屋、扇屋(おうぎや)、玉屋(たまや)、中見世の中でも格式高い丁字屋(ちょうじや)、松葉屋(まつばや)からそれぞれ花魁が一人ずつ選ばれ、白無垢に見立てた特別な衣裳を着て、仲之町を突っきるように、長い長い道中を行うのだ。この五人はいずれも細見で最高級遊女と評される、選ばれた花魁であった。


 肌にまとわりつくような湿った風が、野分(のわき)の訪れを知らせる。行事の中止も懸念されたが、天候が収まりつつあることから、予定通りの開催が決まっていた。


 特別な道中を一目見ようと、江戸中から老若男女が集まってくる。仲之町の両側はすでに多くの人で埋め尽くされていた。人々は胸を躍らせて、道中が始まるのを今や遅しと待ち望んでいる。


 白無垢道中の始まりの場所。大門のほど近くにある引手茶屋、山口巴(やまぐちどもえ)の一室では、瑠璃が身支度をしていた。


 錠吉が結った横兵庫に白珊瑚の簪が差され、漆黒の髪を引き立たせる。見世が仕立てた白無垢の仕掛には、腰から裾にかけて籠目(かごめ)と毘沙門亀甲(びしゃもんきっこう)の金刺繡が浮き上がり、黒地の前帯にはこれまた金糸の天平雲(てんぴょうぐも)と、一体の見事な龍が色鮮やかに施されていた。


 いつもとは趣の異なる瑠璃の出で立ちを見て、廊下を通りがかる茶屋の者たちは、ほうっと熱い吐息をこぼした。


「まるで真の天女じゃないか。雲行きが怪しいのが心配だったが、今日の道中は何やらご利益がありそうだな」


 控え部屋にやってきた黒羽屋の楼主、幸兵衛が会心の笑みを浮かべて言った。


「お喜久がどうしてもと言うから仕掛を仕立てなおしたが、間にあって何よりだ。針女(おはり)たちにも礼を言わねば」


 お勢以に龍の意匠が浮き上がった前帯を締めてもらいながら、瑠璃は道中を待ちかねて騒がしくなっている外の声を聞いていた。瞳は心ここにあらず、という風に畳の一点を見つめている。


 浮かない顔を見て、お勢以は大きな手でぱん、と瑠璃の背中を叩いた。


「まったくこの妓(こ)は。こんな晴れの日に、そんな死人みたいな顔でどうすんだい」


 傍らで簪の差し具合を微調整していた錠吉も、ちらと瑠璃の横顔をうかがった。


 純白の衣裳と髪飾りをつけた瑠璃の肌は、いつも以上に白く透き通っているように見えた。紅を差した口元の赤が際立ち、憂いを帯びた目が妖艶な雰囲気を醸し出している。ぞっとするような美しさだった。


 津笠の失踪から、すでに十日が過ぎていた。居所は杳(よう)として知れないまま、何の手掛かりも、どうやって自室を出たのかすら依然つかめず、幸兵衛も最早お手上げ状態であった。


 ──もうすぐ、佐一郎さまと一緒になるはずだったのに。


 古傷の疼きはもう治まっていたが、瑠璃の気持ちは晴れないままだった。


 黒羽屋は佐一郎に何度も話を聞きに行ったが、佐一郎も津笠の失踪に驚き、何も知らないといった様子だった。


 佐一郎は相対死を否定した。ただ、相対死には同じ場所で一緒に自死するだけでなく、時刻を決め、離れた場所で同時に命を絶つというやり方もある。


 黒羽屋は念のため丸旗屋の見張りを続けていたが、佐一郎からは普段と変わった様子も見受けられず、忙しそうに店の仕事に追われているようだった。


 ──もうすぐなんだ。ほんの、あと少しで、津笠は自由に……。


「花魁」


 錠吉に呼ばれて瑠璃は顔を上げた。お勢以と幸兵衛が、厳しい顔つきで瑠璃を見ていた。


 八朔の白無垢道中は五人の花魁を抱える見世だけでなく、吉原全体の繁栄のため、五丁町が一丸となって準備をしてきた一大行事である。会合が開かれた結果、今年は瑠璃が道中の一番手に選ばれていた。


「瑠璃、しっかりしておくれ。仲のよかった朋輩が理由もわからずいなくなれば、そりゃ気落ちするのはわからんでもないがね。今日は江戸中の注目を浴びる、誉(ほまれ)ある日なんだよ」


 幸兵衛はたしなめるように言った。


「楼主さまのおっしゃるとおり。白無垢道中に出られるのは、三千の遊女の中で選ばれた五人だけだ。なのに先頭のお前がそんなひどい顔してたら、吉原全体の恥になるんだからね」


 お勢以にきつい発破(はっぱ)をかけられて、瑠璃は軽くため息をついた。


 そして、腹をくくったように二人に向きなおった。


「わかっていんす。わっちが、吉原の歴史で一番の白無垢道中を、ご覧に入れてみせんしょう」


 ようやく花魁の顔になった瑠璃を見て、幸兵衛は愁眉(しゅうび)を開いた。お勢以もやれやれと胸を撫で下ろしている。錠吉だけはいつもどおりの落ち着いた様子だったが、その表情は少し心配そうでもあった。


「錠吉や。今日は長い道中になるから、くれぐれも頼んだよ」


 幸兵衛が錠吉にも声をかける。


 この日の道中でも、錠吉が瑠璃に肩を貸すこととなっていた。


「承知しました」


 錠吉が自分の支度をし始めていると、突然、廊下から騒がしい足音が響いてきた。


 何事かとお勢以が廊下に出ようとした時、少年の影が転がるように部屋へと飛びこんできた。


 栄二郎であった。


「大変ですっ。楼主さま、丸旗屋が」


 栄二郎は肩で息をしていた。額には大粒の汗が浮き、走り通しで喉がカラカラなのか、声がひどく掠れている。


 普段はのんびりしている栄二郎のただならぬ様子に、幸兵衛は素早く人払いをして部屋の襖を閉めた。


 お勢以が水差しを手に、水を飲むよう勧める。しかし栄二郎はそれも目に入らないようで、息も途切れ途切れに続けた。


「丸旗屋の若旦那が、今日、死んでるのが見つかったんです」

「何だって」


 部屋には一瞬で緊迫した空気が張り詰めた。


 黒羽屋の若い衆は交代で丸旗屋を張っており、昨日は豊二郎が見張り役を任されていた。ところが朝になっても見世に戻ってこなかったため、代わりに弟の栄二郎が丸旗屋に向かった。


 丸旗屋から絹を引き裂くような悲鳴が上がり、栄二郎が急いで中を見に行くと、寝室と思しき場所で佐一郎が事切れていた。


 佐一郎の顔は恐怖に引きつり、自らの手で搔きむしったのか、首筋には爪でえぐった跡が無数に残っていた。両目は無残にもつぶされ、おびただしい量の血が目の窪みから流れ出ていた。


「なんで急に……」

「丸旗屋の番頭さんをつかまえて問い質(ただ)したんです。今日なかなか起きてこない若旦那の様子を奉公人が見に行ったら、そんな状態で冷たくなってたらしくて」


 栄二郎は顔面蒼白になっている。


「津笠は、津笠はそこにいたのか?」


 瑠璃は突き動かされるように栄二郎の肩をつかんでいた。


 しかし栄二郎は、力なく首を振った。


「津笠さんとのことも聞いたら、若旦那はあの日、津笠さんに切れ状(きれじょう)を渡したって言ってたそうなんだ」

「切れ状って、なんでだよっ。そんな様子は少しも……」


 食ってかかるように怒鳴る。錠吉が瑠璃を押さえ、栄二郎から引き離した。


 格式の高い見世で特定の遊女と馴染みになれば、他の妓楼に通うことは許されない。遊女と馴染みになることは夫婦の契りを交わすことと同義であり、離縁したければ切れ状と呼ばれる、正式な文書を敵娼(あいかた)に渡さねばならないのだ。


 瑠璃の動揺を見て、栄二郎は口ごもった。


「その、若旦那、尾張町にある呉服問屋のお嬢さんとの、縁談が進んでたそうなんだ。もう結納(ゆいのう)も済ませて、祝言(しゅうげん)の日取りも決まってたって」

「噓……」


 思いもよらぬ事実だった。瑠璃の体から力が抜けていく。


「他に何か変わったことは」


 錠吉が聞くと、栄二郎はうなだれた。


「若旦那の部屋にあった、家宝の隠し刀がなくなってたらしいんだけど、それくらいしか。昨日の夜は兄さんが見張り役だったから何か知ってるかもしれないと思ったのに、まだ見世にも戻ってないみたいで」

「津笠の行方はわからないままなんだな?」


 幸兵衛が瑠璃を見ながら尋ねる。


「はい」


 栄二郎も、おずおずと瑠璃を上目遣いで見る。瑠璃は愕然とした面持ちで、虚空を見つめていた。


「黒羽屋さん、そろそろお時間ですよ」


 襖の向こうから声がして、一同は顔を見あわせた。


「瑠璃。津笠のことは気になるだろうが、今は若い衆に任せて、お前さんは道中だけに専念なさい。いいね」


 幸兵衛の口調には有無を言わさぬものがあった。


 腑(はらわた)に沈みこむような重みを抱いたまま、瑠璃はただ頷くことしかできなかった。



 白無垢道中は始まりの時を迎えた。


 黒羽屋の箱提灯を持った若い衆、禿二人を前にして、錠吉が立つ。錠吉の肩に右手を置き、左で張肘をした瑠璃が表に姿を見せるや、仲之町は揺れるような歓声に包まれた。


 白無垢の仕掛をまとい、黒々とした髪に白の簪を差した瑠璃は、花魁としての気高さと貫禄を堂々と見せつけていた。白以外の色は襦袢と帯、高下駄だけで、それが独特の色っぽさを滲ませている。白無垢が夜闇と行灯の光に浮き上がり、妖しい美しさを放つ。涼やかな目元は三歩先を恍惚として見据え、口角の上がった口元に控えめに差された紅が、ほのめく灯りを受けて輝きをふりまく。


 人々は神々しさに当てられたかのように、瑠璃を畏敬の念にも近い眼差しで矯めつ眇(すが)めつ眺め、感嘆のため息を漏らした。


 後方では、白無垢の衣裳に身を包んだ、目も綾(あや)な四人の花魁たちが、めいめいの行列を従えている。


 先頭に立つ花魁としての意気と張りを体現するように、瑠璃は厳かに外八文字を踏んだ。行列はそれにあわせるように、ゆっくり、ゆっくりと、仲之町の長い道のりを進んでいく。


 浮世離れした華やかさと艶(あで)やかさに、誰もが熱に浮かされたように見惚れていた。


 瑠璃はひたすらまっすぐに、粛々と歩みを進める。吉原をあげての特別な道中であることも念頭にあるが、今日ばかりは得意の流し目をする気になれなかった。


 背後から差される特注の白い長柄傘が、瑠璃の透き通る真珠のごとき肌をさらに際立たせる。


 白無垢道中は、それは見事なものであった。


 四方八方から浴びせられる熱のこもった視線を受けながら、瑠璃は婉然たる表情を崩さず、等間隔に高下駄を転がす。四人の花魁たちも誇らしげに視線に応えていた。


 どこまでも続くかと思われた道中は、次第に大きくなる歓声を浴びながら、終わりの場所である秋葉常灯明(あきばじょうとうみょう)を間近に捉えた。

 仲之町の端にある秋葉常灯明は、火伏せの神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀る神聖なもので、岩を築いてまわりに木を植え、銅製の灯籠が配されている。後ろには火の見櫓(みやぐら)が控え、灯籠は行列を迎えるかのように、煌々とともっていた。


 瑠璃たち一行が、秋葉常灯明まであと少しというところまで行きついた時だった。まわりの歓声は、途端にどよめきに変わった。


 辺りの空気が変化したのを感じ取り、瑠璃は伏せ気味にしていた視線を前方に向ける。


 秋葉常灯明を背に、津笠が立っていた。


 瑠璃は我知らず立ち止まった。前を歩いていた若い衆も、禿も歩みを止めていた。錠吉も驚いたように津笠を見つめている。


 津笠は仕掛を羽織ってはいなかったが、いつもの美しい袷(あわせ)姿に前帯を締め、髪も綺麗に結い上げられていた。簪や櫛もそこに整って収まっている。白い素足を地面につけ、顔は高下駄を履いた瑠璃を見上げていた。


 いつしか道中行列は完全に止まり、群衆はざわざわとしながら、事の成り行きを息をひそめて眺めている。


 黒羽屋の一行は、瑠璃を含め、思考が停止したように棒立ちになった。


 瑠璃を見る津笠は、能面のように表情がない。目は虚ろに瑠璃を見ているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。


「津笠」


 瑠璃は絞り出すように朋輩の名を呼んだ。


 姿を現した津笠を目の前に、景色がまわる。夢を見ているような、地に足がついていないような、奇妙な感覚だった。


 津笠は見上げていた視線を下ろし、ゆっくりと瑠璃に向かって歩きだした。ふらふらしているようで、しかし着実に、歩みを進めてくる。


 錠吉も、時が止まったかのように立ちすくんだままだ。


 観衆が呆然と見守る中、箱提灯を持った若い衆の横を過ぎ、禿たちを通り過ぎた津笠は、瑠璃の正面に立った。顔は瑠璃の腰辺りを見つめ、一言も声を発さない。


 やがて、瑠璃の胸に倒れこむように、一歩を踏み出した。


 刹那、瑠璃の体を激痛が走った。


 鋭い刃が、瑠璃の腹から背中を貫いていた。


 一同はただそれを見ているばかりで、何が起こったのか理解もできず、蠟人形のごとくその場で固まっている。


 津笠は預けていた体をぬらりと起こし、刀を瑠璃の腹から引き抜いた。後ずさりしていく口元には、夜闇よりも暗く深い、不気味な笑みが浮かんでいた。


 瑠璃の腹から赤い鮮血が噴き出す。ごぼ、と血を吐いて、瑠璃は前方によろめいた。華奢な右手が錠吉の肩から離れていく。


「瑠璃っ」


 錠吉は封を解かれたように我に返り、地面へと倒れこむ瑠璃の体をすんでのところで支えた。


 瞬間、静まり返っていた群衆のあちらこちらから、堰(せき)を切ったように怒号に似た悲鳴が響き渡った。


 津笠は血が滴り落ちる刀を手に、悲鳴を聞いてニタニタと笑い続けている。


 我先にと大門へ駆けだし逃げ惑う者、腰が抜けてへたりこむ者。恐怖が連鎖して染み渡り、瞬く間に吉原中が無秩序な混乱に陥った。道中の前にいた黒羽屋の若い衆や禿も、異常事態の恐怖に勝てず逃げだしていた。


「なん、で……」


 飛び交う悲鳴を耳にしながら、瑠璃は地面に向かってつぶやいた。


 高下駄は脱げ、地面についた手足から冷たさが伝わってくる。反対に、生温かい血が体の外に流れていくのを感じた。美しい白無垢が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。しっかりしろ、と錠吉が叫ぶ声が、ひどく遠い。


 雑音を払いのけるように、甲高い声が瑠璃の鼓膜を貫いた。


 地面から顔を上げて見ると、津笠は血に濡れた刀を放り投げ、闇夜を仰いで笑っていた。目が次第に落ち窪んでいき、口は耳元に向かって裂け始める。額からは音を立てて、角がせり上がってくる。


「なんで、津笠。どうして」


 何か言いたくとも、言葉が出てこない。


 瑠璃の肩を支えながら、喋るな、と錠吉が声を張る。


「どうして、あんたが……」


 津笠は途端に笑うのをやめ、歪んだ笑みを瑠璃に向けた。


 ──オマエノセイ。


「え……」


 ──黙って受け取りゃいずれ妾奉公くらいさせてやったってのに、調子づきやがって。瑠璃花魁くらいの女ならいざ知らず、お前みたいな小物を娶(めと)る義理があるかよ。娑婆の夢を見させてもらっただけでもありがたく思え。


「嫌ああっ」


 その時、瑠璃の白無垢に施された籠目の金刺繡が、光を放った。


 金色の光は輪になり瑠璃と錠吉を囲ったかと思うと、瞬時に巨大化して空に浮かび、一町を包むほどの大きさに広がった。


「注連縄、なのか」


 錠吉が、夜空に浮かぶ金色の輪を見てつぶやく。瑠璃は首を押さえて震えていた。


 津笠に視線を走らせると、空洞の瞳はまだ瑠璃を見ている。何かしらの幻覚を瑠璃に見せているのだと、錠吉は悟った。


 次の瞬間、津笠はその細い体つきからは予想もつかぬ力で地を蹴り、躍りかかってきた。


 錠吉が咄嗟に瑠璃を抱き寄せる。


 津笠の影が、二人の間近に迫った時。


 権三が間一髪で割って入ってきた。伸ばしかけの金剛杵を手に、津笠が振り上げた腕を受け止める。重みに耐えかねるように、体が小刻みに震える。


 権三はかざされた腕を睨みつけ、腹の底から声を絞り出すと、津笠に蹴りをくらわせた。


「津笠っ」

 瑠璃が上ずった声で叫ぶ。


「権さん、やめて、津笠を」


 錠吉の腕の中でもがく。錠吉はその肩をつかみ、激しく揺さぶった。


「瑠璃っ。わかってるだろう、あれは鬼だ。もうあなたの知ってる津笠さんじゃないんだ」


 錠吉の瞳に、泳いだ目で自分を見上げる瑠璃の顔が映った。さまよう視線には絶望の影が差している。


 胸に刺すような痛みを覚え、錠吉は奥歯を強く嚙みしめた。


「あなたにしか、退治できない」


 それ以上は、瑠璃を直視できなかった。


「花魁、錠さんっ」


 錠吉が振り返ると、栄二郎が息を切らしながら駆け寄ってきていた。手には、見世から急いで取ってきた錫杖が握られている。


「あの輪っか、お前の結界か?」


「ううん、違う。おいらは兄さんと一緒じゃなきゃ結界を張れない。でもあれ、色は違うけどやっぱり注連縄だ。一体、誰が……」


 栄二郎は不安な顔で上空を見上げた。


 一方、権三に蹴り飛ばされた津笠は身を屈めて地を滑り、秋葉常灯明の手前で止まっていた。


 ゆらりと立ち上がり、小首を傾げて権三を見る。腕と素足が黒く変色し始めていた。


 貼りついたような笑みを深めたかと思いきや、津笠は先ほどよりも強い力で地を蹴った。


「栄、俺と権の法具を強化できないか?」

「ごめん、それもおいらだけじゃ……」

「わかった。瑠璃を見てろ」


 栄二郎が錫杖を渡すと、錠吉は権三の横に立ち並び、構えの姿勢を取った。


 津笠の攻撃を二人で受け止めている間に、栄二郎は瑠璃に駆け寄り、地面にうずくまる体を支えた。


「嫌だ……できないよ……」

「花魁、花魁っ」


 並より再生能力が優れている瑠璃でも、刀で腹を貫かれていれば追いつかない。血が止まらず、再び吐血する。


 栄二郎の声を聞きながら、瑠璃はふと、自分の中で何かが激しく疼いていることに気がついた。


 鬼と対峙する際、瑠璃はいつも高揚感のようなものを感じていた。


 しかし、今は明らかに違う。


 体内で別の生き物が目を覚まし、蠢(うごめ)き、這いずりまわっているようだった。息は荒くなり、目の焦点があわなくなっていく。全身が総毛立ち、冷や汗が噴き出した。


 と、瑠璃の首を見た栄二郎は息を吞んだ。


 瑠璃の胸元から、黒い雲のような痣が這い上がってきていた。古傷のまわりにあった三点の痣が肥大化して数を増し、瑠璃の体を徐々に覆わんとしているかのようだ。痣はじわじわと意思を持つように、紅を差した口元まで広がってきていた。


「花魁……」


 栄二郎が困惑していると、秋葉常灯明の方から派手な金属音が響いてきた。


 津笠は絶え間なく攻撃を仕かけていた。手練れであるはずの錠吉と権三は、経文による武器の強化ができないこともあり防戦一方だ。


 津笠の左腕が勢いよく振り下ろされる。何とか頭上で受け止めた権三はうめき声を漏らした。どれほどの膂力がのしかかっているのか、権三の体軀はきしみ、重みで脚が地面にめりこんでいる。


「錠、今だっ」


 権三が声を振り絞るが早いか、錠吉は素早い動きで津笠の後方にまわりこんだ。錫杖を死角から振りかざす。


 錫杖がうなじに直撃するかと思われた時、津笠の肩から漆黒の腕が一本、着物を破って生えてきた。


「な……」


 錠吉の渾身の一撃を生えた腕で受け止めると、津笠は空洞の目をニイイ、と細めてみせた。


 肩から伸びた黒光りする腕は、まるで蠅(はえ)でも払うかのように、錠吉を通りの屋根まで弾き飛ばした。


 瓦屋根に身を強く打ちつけた錠吉は、衝撃で大量の血を吐いた。


「錠っ」


 いつの間にか津笠の背中からもう一本、黒い腕が急速に生えてきていた。その腕が、両手が塞がったままの権三の首を捉える。


「ぐっ」


 反撃に蹴りをくらわせようとする間も与えず、黒い腕は権三の首を絞めあげる。


 地面から足を浮かせた権三の姿を見て、瑠璃が金切り声を上げた。


 それと同時に黒い腕はぶん、と風を切る音をさせた。権三の体は宙を滑り、錠吉が投げられたのとは反対方向の壁面に叩きつけられた。


 屋根や壁の欠片が、ぱらぱらと乾いた音を立てて落ちる。束の間の静寂が仲之町を包んだ。


 錠吉も権三も、動いていなかった。


 黒く染まった手足、背中に二本の黒い腕を生やした津笠の輪郭は、今や疑いようもなく異形と化していた。津笠は再び天を振り仰ぎ、快感に浸るように高笑いをした。


「錠、さん。権さ……」


 栄二郎はうわ言のようにつぶやきながら、震えている。


 人ならざる津笠の笑い声は、瑠璃の中の何かを強く刺激した。これまでとは比べ物にならない疼きの波に耐えかね、瑠璃は頭を抱えて叫んだ。


 体中の血が沸騰しているかのように、全身が焼けただれていく感覚がする。心が、内側から破裂してしまいそうだった。黒い雲のような痣はさらに数を増し、いつしか目元までせり上がってきていた。


「花魁、立って。離れなきゃ」

 栄二郎が泣きそうな顔で必死に瑠璃に呼びかける。しかし、その声はもう瑠璃の耳には届いていなかった。


 津笠は高笑いをやめた。


 ゆっくりと、笑顔を瑠璃と栄二郎に向ける。


「花魁、守らなくちゃ、おいらが、守らなくちゃ」


 栄二郎は震える己の膝を殴りつけ、瑠璃を背にして津笠と向きあった。


 瑠璃は疼きに為す術もなくいたぶられながら、離れていく栄二郎の背中を見て、強烈な焦燥感に駆られた。


「駄目、お、願い……」


 血が喉に絡まって、うまく声が出ない。


 津笠はさも不思議そうに首を小刻みに傾げながら、徐々に二人の方へと歩みを進めてくる。


 栄二郎は丸腰のまま、津笠に突進していった。


「よせ、栄……」


 津笠の笑みが濃くなった。背中から生えた黒い腕が振り下ろされる。


「やめろおおっ」


 悲痛な叫びを嘲るように、瑠璃の目の前で栄二郎の体は鋭い爪の餌食となり、ゆっくりと、地面に倒れこんだ。


「……楢紅っ」


 瑠璃は無意識に叫んでいた。


 瑠璃の血が散らされた地面が泥の渦を描き、楢紅が姿を現した。


 陶器のようなまばゆい肌に、菩薩(ぼさつ)を思わせるたおやかな微笑み。「封」の字が際立つ白布の端が、笑みに呼応するようにゆらゆらと波打っている。


 瑠璃は傷の痛みと内側の疼きを、持ちうる気力のすべてで抑えこんだ。血を吐きつつ裸足で立ち上がり、倒れるように楢紅へと歩み寄る。その仕掛を乱暴につかむと、いきなりはぎ取った。そして、津笠の前に倒れている栄二郎に向かい、楢紅の仕掛を投げた。


 美しい楓樹の仕掛がふわりと全身を覆うや否や、栄二郎の姿は仕掛ごと見えなくなった。


「もういい、下がれ」


 押し殺すような言葉を聞いて、楢紅は主を振り返った。白布の向こう側から、瑠璃の心を見透かしているかのようだ。


 楢紅はしばしの間そこに立っていたが、やがて微笑を残すように、姿を消した。


 消えた栄二郎を、津笠はきょろきょろと探している。


「津笠、なんでだ。どうして、こんな……」


 疼きと闘いながら、瑠璃は津笠と正面から向きあった。


 異形の姿を改めて目の当たりにして、心が切り裂かれる感覚を覚え、体をぐらつかせる。


「ル、リ」


 苦しげな声が聞こえて、瑠璃は瞠目した。


 津笠の声ではなかった。


 霞がかった意識を奮い立たせ、津笠に目を凝らす。津笠の胸元は錠吉と権三との戦闘によってはだけている。青白い肌に、何かが盛り上がっているのが見えた。


 まるで、顔のようだった。


「豊……?」


 それは紛れもなく豊二郎の顔だった。恐怖と絶望に歪んだ口が、微かに声を漏らす。


「ル、リ……」


 ──まさか、豊を取りこんだのか?


 瞬間、最大の疼きが瑠璃を襲った。


 何かが体内で猛烈に暴れ狂い、笑っている。呼吸すらままならなくなり、喉からは引きつるような音しか出てこない。瑠璃は胸を搔きむしった。


 体が自分のものでなくなっていくかのように、感覚が薄れていく。頭は無数の鋭い針で何度も貫かれ、滅茶苦茶に搔きまわされているようだ。悦楽に似た狂気が吹きすさび、瑠璃の心を容赦なくえぐり取っていく。


 貫かれた腹からは血が止まらない。その上楢紅を召喚したことで、瑠璃の体はとうに限界を超えていた。

 ──もう、やめて。わっちには無理だ。もう……。


 いっそ、疼きに身を委ねてしまおうかと思った。その考えはすべての痛みを忘れさせてくれるような、甘美な響きを持って瑠璃の心に染み渡っていった。


「瑠璃っ」


 空から一つ、咆哮(ほうこう)が轟(とどろ)いた。


 瑠璃は濁った瞳で上空を見上げる。巨大な赤獅子(あかじし)が、宙に降り立つところだった。


「炎」


 生気を欠いた声でつぶやく。


 なぜそれを炎と言ったのか、自分でもわからなかった。思考が働かない。赤獅子の豊かな毛並みが地獄の炎に見えて、綺麗だな、とぼんやり思った。


 赤獅子は低い声で吼(ほ)えた。


「瑠璃、蒼流の力を使え。お前が飛雷の鞘になるんだ」


 ──そうりゅう……?


 唐突に、津笠が耳をつんざく鬼哭を発した。


 朦朧(もうろう)とする中で津笠を見やる。黒い鬼の皮膚は顔を覆い尽くし、胸にまで達しようとしている。胸元に目を転じると、豊二郎の顔は苦しみに悶え、目から赤い血を流していた。徐々に黒く染まり、津笠の中へと埋まり始める。


「タスケ、テ……」


 その瞬間、瑠璃の中でなにかが爆(は)ぜた。


 胸の古傷に手を当てる。心の臓が大きく揺れる。


「我に応えろ、従え」


 瑠璃の立つ場所から、突如として青の旋風が巻き起こった。粉塵(ふんじん)が舞い、血で赤く染まった白無垢の仕掛が、風に激しくはためく。


 瑠璃の胸元が刀傷を中心に、ずず、と螺旋(らせん)を描き出した。そして、中からゆっくりと、飛雷の柄が出現した。


 瑠璃は柄を握ると、胸から飛雷の刀身を引き抜いた。


 旋風が激しさを増す。瑠璃は青い衣をまとっているかのようだ。飛雷は黒く、妖しげに光っている。


 逆巻く旋風の中心に立って、瑠璃の顔は何かを悟ったかのように、穏やかに、哀しみを帯びていた。涙が一筋、頰を伝った。


 胸の螺旋は元に戻っていき、同時に旋風も収まっていく。


 奇妙なほどの静寂が流れた。


 完全なる鬼と化した津笠の顔から、笑みが消えた。瑠璃の姿を見て呻吟(しんぎん)の声を漏らす。やがて、錯乱したように瑠璃めがけ向かってきた。


 瑠璃は内から全身に力が漲(みなぎ)り、感覚が研ぎ澄まされていくのを感じていた。傷の痛みはもう感じない。内側の疼きも消え、先ほどまで暴れ狂っていた力がすべて、体になじんだかのようだった。


 視線を津笠へと向ける。目前まで迫ってきた津笠は、四本になった腕を振って瑠璃を裂かんとする。


 すると、右手に提げていた飛雷が何の前触れもなく四つ叉(よつまた)に裂け、津笠の腕をすべて受け止めた。刀そのものの魂が呼び起こされ、瑠璃を守ったかのようだった。握る力を強めると、切っ先が勢いよくしなり、津笠は後方に吹き飛んだ。裂けた刃は元の姿に収束していく。


 瑠璃は飛雷を前にかまえた。


 対する津笠は起き上がり、獣のような声を上げながら再び向かってくる。瑠璃はそれを眼光鋭く迎える。

 黒い腕と黒い刃が衝突し、激しい火花を散らした。


 瑠璃は目にも留まらぬ速さで、四本の腕から繰り出される攻撃を刀一つで捌いた。胸元から這い上がる痣はすでに額を覆い、腕や脚をまだらに染めている。覆いが深くなるほどに、膂力が湧き上がってくるのを感じていた。


 津笠は簪が抜け落ちた長い髪を振り乱し、奇声を上げながら次々と攻撃を仕かけてくる。


 突然、津笠の髪がぐんと伸びた。不意を突かれた瑠璃の四肢を縛り上げる。


「……っ」


 動きが止まったのを見るや、鋭い爪が振り上げられる。


 瑠璃は中空を睨み、飛雷を握る右手に力をこめた。


 今度は飛雷が八つに裂けた。体を縛り上げる髪を断ち、黒い腕を受け止め、さらに津笠の右肩を斬りつける。


 黒い血が肩から噴き出し、津笠は絶叫した。


 津笠の腕がひるんだ一瞬をついて、瑠璃は反撃に打って出た。


 舞うように腕を、脚を斬りつける。飛雷を頭上にかまえると、鋭い声とともに勢いよく振り下ろした。


 肩から生えていた黒い腕が一本、ごっ、と鈍い音を立てて地面に落ちた。


 津笠はこの世の終わりのような鬼哭を発して後ずさった。


 重い一撃を繰り出して片膝をついていた瑠璃は、津笠の胸元へと視線を走らせる。豊二郎の顔は津笠の苦痛に呼応するように歪み、ほとんどが黒い皮膚に埋まりかけていた。


 体中からこみ上げてくる衝動に、瑠璃は渾身の力を振り絞った。


「豊を、返せ」


 爆発のごとき旋風が生まれる。鮮血に染まった仕掛の裾がめくれ上がる。


 津笠は慟哭しながらもう一度、乱れた髪を伸ばしてきた。


 立ち上がり防御しようとした瑠璃だったが、四方から伸びてきた髪は防ぎきれない。髪は全身に巻きつき、細い首を絞めあげた。


 骨がみしみしと嫌な音を立てる。瑠璃の体は宙に浮かんだ。


 飛ばされそうになる意識を必死に押し留め、右腕へと集中させる。


 すると、体中を覆っていた黒い痣が引いていき、すべてが右腕に集まってきた。飛雷を持つ右腕に、これまで感じたことのないほどの膂力が宿った。


 ──お前さんは、お前さんのままでいいんだよ。


「ああああっ」


 瑠璃は空に向かって右腕を振り上げた。絡みつく髪が、音を立てて切れていく。


 ──わっちは瑠璃のこと、大事な友達だと思ってるから。


 全身で叫び声を上げながら、あらん限りの力をこめて飛雷を横一線に振りぬいた。


 飛雷は津笠の喉を斬り裂いた。


 どす黒い血が噴き出して、瑠璃の体を染めあげる。


 津笠は動きを止めた。喉からは黒い血を滝のように流している。体を縛っていた髪が力をなくしたように垂れ下がり、瑠璃は地面に落とされた。


 津笠は血を流しながら、声もなく瑠璃の前でよろめいていた。貼りついた笑顔は崩れ、目と口に空いた穴が、次第に闇をひそめていく。


 なぜ、鬼は笑うのか。瑠璃は唐突に理解した。


 ──ああ、鬼は哀しいから笑うんだ。優しい奴ほど傷つけられ、裏切られ、恨みを抱いて死んでいく。鬼の力でやっと自分の気持ちをぶつけられるようになっても、世間はそれを許さない。誰かを呪うことでしか存在できない、誰にも受け入れてもらえない、もう戻れないのが哀しくて、笑っているんだ。きっと、人並みに幸せになりたかっただけなのに……。


 津笠の角が額から落ち、地に突き刺さった。砂のようにほどけ、風に流されていく。


 瑠璃は地面に倒れたまま、その様子を覇気を失った目で見ていた。視界から色が消えていく。力はもう微塵も残ってはいなかった。


 薄れゆく意識の中で、瑠璃は美しい津笠の顔を見た気がした。


 そして、すべては暗闇に包まれた。

★この続きは、明日5月31日(火)17時公開! お楽しみに!

夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)

1991年千葉県生まれ。上智大学法学部卒業。石川県在住。2017年に第13回小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した『Cocoon-修羅の目覚め-』でいきなりシリーズ化が決定。その後、『Cocoon2-蠱惑の焔-』『Cocoon3-幽世の祈り-』『Cocoon4-宿縁の大樹-』『Cocoon5-瑠璃の浄土-』と次々に刊行し、人気を博している。コミカライズもされている。2022年5月には最新刊『Cocoon 京都・不死篇-蠢-』が刊行予定。

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