美妃の背中も傷だらけ! スパルタ教育→鞭打ちマニアの暴君に。

文字数 2,198文字

このシステムで皇太子を上手に育てるのは無理ゲー説。

《北周》 宣帝(559~580)

南北朝は暴君が続出した時代。その暴力の作法もいろいろで、バリエーションに富んでいた。


・人を馬蹄にかけるのが趣味で、街に出ては馬に人を踏ませて悦に入る皇帝。

・囚人に蓆を一枚持たせて(パラシュート替わり?)約八十メートルの高台から飛び降りさせ、その様子をつまみに酒を飲む皇帝。

強盗がしてみたくて、富豪の家に部下とともに切り込んで一家皆殺しのうえ、家財を奪って楽しむ皇帝。


彼らの非道ぶりはすさまじく、その心理は時に庶民の理解を超える。その点、北周の第四代皇帝、宣帝(宇文贇・うぶんいん)の嗜好は比較的、わかりやすい方ではなかろうか。側聞するに、現代でもそういう趣味の人がいるそうである。


閑話休題。

宣帝は鞭打ちマニアであった。鞭打ちと言ってもそこは中世の中国。革の紐ではなく、木の杖で叩くのだ死ぬまで叩き続けることもあったし、そうでなくても無惨な傷痕を残す


宣帝はとにかくこの鞭打ちが大好きであった。120回叩くのを決まりとして、これを「天杖」と称し、周囲の人物をやたらと鞭打ちした。


罪人や無礼があった家臣を叩くなら普通の暴君だが、宣帝は寵愛している皇后や妃までも鞭打つのである。寵愛が深い妃の背中には無惨な鞭の痕が残っていたという。倒錯している


宣帝がこんな鞭打ちマニアになった理由の一端は推測できる。宣帝もまた、父の武帝に鞭打たれて育ったのだ。


父の武帝は、名君だったとされる。専横を極めていた叔父を誅殺し親政を開始すると、北斉を倒して華北を統一。その後も北斉の遺臣や皇族も取り込んで宥和を図った。


武帝は仏教の弾圧者としても知られるが、当時の仏教寺院には、特権をいいことに信徒から搾取して不当な蓄財を行うものも多かったから、これは必要な処置でもあった。武帝は同時に道教も弾圧している。


仏教寺院の財産を国庫に入れたこともあり、北周の国力は充実した。残るは南朝のみ。約300年ぶりに中華を統一しそうな勢いであった。


しかし、こんな名君も、子育てには手こずった。


息子の宣帝はもともと享楽的な性格であったようで、廃嫡を勧める家臣もいた。しかし、悲しいことに宣帝の弟・宇文賛も兄に輪をかけて出来が悪かったし、他の子は幼かった。


だからこそ、父の武帝も宣帝を厳しく育てなければならないと思ったのだろう。


武帝は、宣帝に夏には薄着を、冬には厚着をすることを禁じた。また、宣帝は酒好きで、酒を飲んで問題を起こすことがあったので飲酒を禁じた。宣帝に酒を献じたものは罰せられたという。


そして、宦官に宣帝を監視させ、その行動を報告させた。宣帝が勉学を怠ったり、問題行動が見られると、武帝は容赦なく鞭打ち、こう言ったという。


「昔から廃嫡された皇太子は多かったぞ。どうして他の子を皇太子にしないことがあろうか(いやない)」


廃嫡と鞭打ちを恐れた宣帝は、ひたすら父に怯える日々を送っていた。


19歳の時、その父が急死。その遺体に対面した宣帝は、自らの足に残った鞭の痕を撫でながら「やっと死にやがったか!」と遺体に罵声を浴びせた。


そして、通夜の終わらぬうちに後宮に入り込んで父の妃たちを犯した


南朝宋の前廃帝・劉子業も、父を恨むあまりその墓に糞尿をかけたという。皇帝ともなると、死後、息子にこれくらいのことをされるのは致し方ないのかもしれない。


宣帝は皇帝に即位すると、武帝の「一族の者をみだりに粛清してはいけない」という遺言を早速破り、北斉征伐で多大な功績のあった叔父を殺す。


名将の王軌も殺した。かつて皇太子時代の宣帝は王軌とともに出征したが、出征先で不祥事を起こした。このことを王軌が武帝に伝えたため、武帝は怒って宣帝を鞭打った。さらに王軌は宣帝を廃嫡するように進言したから、宣帝は王軌を恨んでいたのだ。その他、宣帝は武帝時代の功臣を次々に粛清する。


宣帝は、質素を旨とした父を嘲笑うかのように贅沢な暮らしをするようになる。まず宮殿を五色の土で派手に塗り替えた。また、常時4万の民を動員して洛陽に豪壮な宮殿を造営させた。


また父の宗教抑圧策を緩和し、玉座の左右に仏像と道教の神像である天尊像を置いた。もちろん、宣帝が信心深かったわけではなく、遊びであり、父への当てつけであろう


宣帝は宗廟の神器を自らの飲食に使用した。日本人にはあまりピンとこないが、当時の中国では、これはかなり罰当たりなことだったらしい。皇太子時代の宣帝に身を慎むことを強いた儒教の教えをこんなことで貶めたつもりだったのだろう。


「案外、皇帝もめんどくさいことが多いな」と思ったのだろうか。宣帝はわずか在位1年ほどでまだ7歳の息子・静帝に皇帝の位を譲り、自らは「天元皇帝」と称して酒色に溺れる生活を送った。そして、22歳で死んだ。


宣帝は、皇后の父である楊堅に政務を一任したため、これが楊堅の専横を許すことになった。楊堅は後に静帝に譲位を迫り(静帝はその後、殺された)自らが皇帝となった。これが隋の文帝で、有名な暴君・煬帝(煬帝の回を参照)の父である。


宣帝が即位してからわずか4年後、中華統一を目前にしていたはずの北周はこうして自滅した。

『魏晋南北朝』川勝義雄/著(講談社学術文庫)

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