『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み①

文字数 6,543文字

最強の花魁×異形の鬼!

人気シリーズ「Cocoon」の第1巻『Cocoon 修羅の目覚め』をどどーんと太っ腹に1巻まるまる試し読み! 


第1回めの今回は「序」と「一」をお届け。

これから毎日1章ずつ公開していく、「毎日コクーン」の始まりです!


 キィン、キィンと拍子木の音が、冬の冷えた空気に響き渡る。


 真夜中の引け四ツ、もう大門が閉まる時刻だというのに、辺り一帯の灯りは不夜城たる吉原を妖しく、赤黒く染めあげていた。


 この日は稲荷神社の例祭であり、商売繁盛を願う妓楼や茶屋にとっては大切な紋日だ。見世の軒下には抱えの遊女の名を記した大提灯が吊るされて煌々とした灯りを放ち、油揚げが供えられている。連れ立って九郎助稲荷に詣でていたのだろうか、客の手を取る妓たちの艶っぽい声がする。そこかしこの見世から、いまだ終わらない宴に興じる笑い声や、三味線のさんざめきが聞こえていた。


 喧噪に包まれた赤い夜を、妓楼の二階から一人の女が見つめていた。部屋の中では客と見られる男が窓に背を向け、ぬる燗を手酌であおっている。


「ねえ、やっぱりわっちらも行けばようござんしたな、九郎助さん参り」


 白い吐息を漏らしながら、女は男に話しかけた。


 京町二丁目の隅にある九郎助稲荷には、商売繁盛だけでなく恋が成就するとの言い伝えもある。小さい社ながら、廓の妓たちにとっては大切な存在だった。


「初午の祝いなら自分の店で嫌ってくらい丁重にやらされたんだ、わざわざ吉原に来てまでもう一回やりたかないってんだよ」


 男は女に背を向けたままぶっきらぼうに答えた。外の賑やかさが鬱陶しいとでも言いたげに、猪口をぐっと傾ける。


 女は華やかな外の様子から目を離し、男の方を振り返った。男は変わらず黙って酒を手酌している。


「お前さま、そろそろ終わりにしなんし。今夜はちと、飲みすぎでござんすよ」


 男の隣に膝を進めて、猪口を持つ手を、冷えた手でそっと包んだ。


 突然、黙ってろっ、と怒鳴り、男は女を突き飛ばした。猪口に注がれた酒が、弾みで部屋の畳に飛び散る。女は小さな悲鳴を上げて畳の上に横倒しになった。


 男は倒れた女を見て手を伸ばしかける。だが、すぐに元の不機嫌な顔に戻り、舌打ちをして酒を注ぎなおした。


「そういやあ、今日来る途中でお前んとこの花魁の道中を見たぜ」


 女には目もくれず、抑揚の欠けた声で話す。


 女は黙って体を起こし、ほつれた髪をゆっくりと整えた。


「ありゃあ、いい女だよ。なんとも言えない艶と色気がある」


 男は見事な道中の様子を一人、ぼうっと思い出している。心はここでないどこかにあるかのようだった。


 外には季節外れの淡い雪が降り始めていた。無数の提灯や行灯に照らされて薄赤く、ふわふわと宙を舞っている。


「大見世の花魁ともなれば、落籍すのに千両いるといいんすよ」


 女は突き飛ばされたことなどなかったように、つとめて明るく冗談めかした。


「千両ねえ……」


 男はさらに遠い目をした。女はその表情を見て、些かほっとした面持ちになる。


 第十代将軍、徳川家治の治世。吉原は江戸唯一の幕府公認遊廓として、確固たる存在感と華を誇っていた。三千もの遊女が毎夜客を引き、大小様々な見世が五丁町に立ち並ぶこの地では、大見世といわれる最高級の妓楼はたった三軒しかない。


 見世の一番人気は花魁と呼ばれ、類稀なる美貌と多方面にわたる見識、意気と張りを武器に、江戸中の男を虜にしていた。花魁とたった一夜をともにするために、諸々の費用をあわせて五十両もの大金が飛んでいくことは、ざらにある話だ。まさにお大尽しか客に取らない、高嶺の花である。まして見世から落籍す、つまり身請けするともなれば、千両という目も眩むような金額が必要といわれているのだ。


「まあ、何とかならなくもない額だな」


 女はほっとしたのも束の間、驚きの目を男に向けた。部屋につけられた丸行灯の灯りが、ちろりと揺れる。


 男は女に一瞥もくれずに、考えこむような顔をしてにやりと笑った。


「俺の仕事がこのまま波に乗れば、いずれ千両くらい都合できるようになるだろう。そしたら江戸一と謳われる女を落籍すのだって、まったくの夢物語ってわけでもないさ。あんな最上玉を自分だけのものにするってのは、さぞいい気分だろう。ははっ、そうなったらもう吉原に来る必要もなくなっちまうなあ」


 ひとしきり愉快そうに笑ってから、何だか冷えちまったぜ、と部屋に敷かれた布団にもぞもぞ潜りこむ。酒がだいぶまわっていたのか、すぐに寝息が聞こえてきた。


 女はしばしの間ぼんやりとしていた。目は虚ろになり、どこともない一点を身じろぎもせず見つめている。ふいに、涙がつつっと頰を伝った。


「……っ」


 高鼾をかいて寝ている男に聞こえぬよう、声を殺して、涙を流す。女は襟元を搔きあわせ、ぎゅっと握りしめた。胸が締めつけられる。涙は止めようと思えば思うほどに流れてきた。


 その時、女の額に激痛が走った。


 唐突な痛みに、女は思わず額を押さえた。額の中心がどくどくと疼く。間もなくして体中が熱くなっていった。血が全身を、猛烈な勢いで巡っている。女の意思とは異なる何かが、体の中を這いずりまわるような感覚がする。涙はもう止まっていた。女は目を強く閉じて冷静になろうと念じるが、体の異変に混乱するばかりだ。呼吸が次第に荒くなっていき、痛みを増し続ける額を押さえてうずくまった。


「うるせえなあ」


 女は目を見開いた。


 見ると、布団の中で男は背を向けていた。掛布団が男の寝息にあわせて安らかに上下している。ただの寝言だったようだ。


 女は気が抜けたようにその背を見つめた。全身にびっしょりと汗をかいてはいたが、額の痛みも、体の違和感もいつしか消えていた。涙が新たに一筋、冷たくなった頰を伝う。


 淡雪が、吉原の地面をまだらに濡らしていく。


 女の瞳と涙は揺らめく灯りに照らされて、血の色を帯びているかのようだった。




 夜見世の始まりを告げる、三味線の清搔が鳴り響く。夜の娯楽へ誘う音色が、春の空気を揺らしていた。

 唯一の出入り口である大門から江戸中の男がひっきりなしに入ってきては、贔屓にしている引手茶屋に顔を出したり、妓楼の格子越しに遊女たちの張見世を素見したりしている。あからさまに金のなさそうな者はさておき、少しでも気のありそうな姿を見るや、すぐに客引きである妓夫が声をかけに行く。


 吉原の手引書「吉原細見」を手に、仲間同士でいそいそと今夜の首尾を練る者。武家の者か生臭坊主か、編み笠を目深に被って道を急ぐ者。まるで花の香に引き寄せられる鳥のように、男たちは次々と大門の中へ吸いこまれていく。


「ここはいつ来ても景気がいいモンだ。江戸の外では大変だと聞くが、それを少しも感じさせない」

「北のほうじゃあ、飢え死にが後を絶たないってのにな。しかも最近、津軽で噴火が起きたそうじゃないか」


 時は天明。各地で冷害や洪水が頻発し、深刻な大凶作が起こっていた頃である。作物が実らず、農村は死肉を食らわねば生きられないほどの困窮を極めた。


 さらに津軽の岩木山では噴火が発生。日の光は遮られ、灰が大地に降り注いだ。人々は山の神の怒りと恐怖し、さらなる混乱に陥っていた。


「大勢が死んでるってのに、幕府はいまだ大した動きを見せないらしいぜ。帝がそれを憂えているとか」

「そりゃ噂だろ。憂えてもらえるのはありがてえ話だが、いくら天子さまでも、将軍さまにゃ盾突けねえからな」


 この時、飢饉の対策を講じない幕府に対し、朝廷がなにかしらの要請をするのでは、という噂が、京から江戸に伝わってきていた。


 しかし、朝廷に偉大な権力があったのは過去の話。政の主権が幕府に移ってからは、朝廷が幕府に指示を出すことは禁じられていた。その上、時の現人神、兼仁(ともひと)天皇はまだ十三歳である。


 現実味のない噂話は、幕府の緩慢な動きを不満に思う、民の心情から生まれたのかもしれなかった。


「ああ、ほら見ろよ。桜吹雪だ」

「この美しさ……俺たちは、あの世にでも来ちまったのか」

「いいや、浮世だとも。吉原は〝浮世の極楽〟さ」


 時節は弥生。大門から吉原をまっすぐに貫く仲之町には満開の桜の木々が植えられ、雪洞の灯りで妖艶に照らされていた。軒を連ねる引手茶屋の内からは、早くも酒宴の灯りが漏れている。


 通りに沿って配置された誰哉行灯に、突き当たりに見える秋葉権現ゆかりの常夜灯。江戸の町々が灯りを弱めるのとは反対に、夜こそが吉原の輝く時である。すっかり日が落ちた暮れ六ツ、夜闇に浮かび上がる吉原の赤は、男たちの胸をざわざわと騒がせていた。


 大門から仲之町を少し進んで右に曲がると、「江戸町一丁目」と書かれた木戸がある。夜見世に五丁町が賑わう中、江戸町一丁目にある大見世「黒羽屋(くろばや)」の入り口には、特に目を引く人だかりができていた。見世の若い衆が声を張り上げ、群衆を牽制している。


 黒羽屋は間口が十三間、奥行き二十二間と、大見世の名にふさわしい立派な造りをしていた。店先には蒸籠を積み重ねた上に白木の台が載り、馴染みの客から遊女に宛てて贈られた三ツ布団や縮緬、緞子などの高価な品がずらりと並んでいる。


 抱えの遊女たちが張見世をする部屋には、通りに面して上から下までを細かい格子で覆う惣籬が施されていた。この惣籬は、見世が最高級妓楼であることを示す。


 格子の内では遊女たちが豪奢に着飾って毛氈の上に座り、互いにお喋りをしたり、馴染みの旦那に宛てた文をしたためていたり、思い思いの時間を過ごしている。そこには若さと美しさが眩しいほどにあふれていた。店先に集まっていた者の何人かは、この格子内のきらびやかな様子にうっとりしている。妓たちは時々視線を感じてそちらを見やるが、にこ、と意味深に微笑むだけで、また自分たちの世界に戻ってしまう。対する男たちは心の中で身悶えするばかりだ。


 黒羽屋の前の人だかり、入り口近くに陣取っていた者たちが突如、おお、とどよめき声を上げた。暖簾をくぐって、見世の定紋入りの箱提灯を持った若い衆が現れたのだ。その後ろに前髪を切りそろえた、年の頃は七歳ほどの禿が二名。そろいの熨斗模様の衣裳を着て、広袖に大角豆と呼ばれる五色の紐飾りをつけている。


 群衆は、誰がそうしろと言うでもなく道の真ん中をさっと空けた。視線は暖簾の向こう、一点のみに集中している。


 禿たちの後ろから、背の高い、端正な顔つきをした若い衆が一人。そして、その若い衆の肩に白く華奢な右手を置き、黒塗りの高下駄を鳴らしながら、一人の遊女が現れた。


 花車に松竹梅、牡丹、杜若、八橋、柴垣、霊芝雲を配した御所解文様の仕掛に、流水に花筏と尾長鳥の前帯。襟はぐっと後ろへ出したぬき衣紋で、ほっそりとしたうなじが白く輝いている。仕掛の裾は厚いふきかえしになっており、足首には赤い長襦袢がたおやかに揺れているのが見えた。黒々とした艶髪は羽を広げた蝶のような横兵庫に結われ、筓に鼈甲の櫛が二枚、金色の前差しが四本、赤瑪瑙の玉簪が二本、松葉簪が二本。後ろには大きな金糸の飾り結びが施されていた。


 その肌は真珠のように白くきめ細やかで、通り沿いの誰哉行灯に照らされた頰は、ほんのり赤く見える。小さな顔には利発そうに整った眉に鼻筋が通り、形のよい口には紅が控えめに艶めいている。長い睫毛に、凜として哀愁を帯びたような涼やかな瞳。目尻にも少しだけ赤が差してあった。


 先ほどの喧噪はどこへやら、男たちはこの世のものとは思われぬ美しさに気圧され、ただ呆然と遊女に目を奪われて立ち尽くした。


「天女……」


 誰かがつぶやく声がした。


 遊女は憂いをたたえたような目を数歩先に落としたまま、左手を懐に入れ、張肘をする。絢爛豪華な衣裳の上からもわかる柳腰を少し落として、半円を描くように右脚を滑らせた。八寸もある高下駄の三枚歯がカラコロロと鳴る。大きく開けた裾から白い脚が緋縮緬の蹴出しを割ってちらと見え、すぐそばにいた男たちはぐっと生唾をのんだ。前方まで右脚を滑らせ、腰を上げて手前に引き寄せる。再び腰を落とし、今度は左脚で半円を描く。


 背後には巨大な長柄傘を遊女に差しかける若い衆が控え、その後ろに引手茶屋のお内儀、黒羽屋の遣手、宴を盛り上げる幇間や芸者衆が続いた。


 息をひそめるようにして道の端で見つめる観衆の視線を浴びながら、一行は遊女のゆったりとした外八文字の歩みにあわせ、一歩、また一歩と通りを進んでいく。


「よっ、瑠璃(るり)花魁、日本一」


 観衆の中から一つ、威勢のよい掛け声が響いた。


 瑠璃は小さな顔をわずかに傾け、声のした方につっと視線を向ける。


 匂い立つような色香に当てられて、声をかけた男はその場で固まってしまった。まわりの者たちも一斉に息を吞み、呼吸を忘れてしまったかのごとく棒立ちになる。


 瑠璃はその様子を見て、ゆっくりと口元に微笑を浮かべ、満足したように前方へと視線を戻した。


 瞬間、わあっと大きな歓声が上がった。瑠璃花魁こっちも、見たか、あれが噂の流し目だ、とあちらこちらで騒ぐ声がする。流し目を向けられた場所では、花魁は俺を見た、馬鹿を言うんじゃねえ俺だ、と小競り合いが始まっていた。


 清搔と高下駄の音が鳴り響く中、道の両側にひしめきあう群衆の、熱い羨望の眼差しを受けながら、花魁道中は桜の花びらが舞う仲之町へとやってきた。


 仲之町を通りがかった者、引手茶屋の二階、あちらこちらから感嘆の声がさらに上がり、桜が降る大通りを道中はゆっくり、ゆっくりと進む。


 舞い散る桜を黒塗りの長柄傘に受け止められながら、瑠璃は落とし気味にしていた涼やかな視線を、前に向けた。


「ます屋」の掛提灯がともる引手茶屋の前で、一人の男が床几に腰かけていた。年の頃は四十代、目尻には細かな皺が刻まれているが、風格のある柔和な雰囲気をまとっている。


 男は瑠璃と目があうと、床几から立ち上がり、道中一行に歩み寄った。


「やあ花魁、よく来てくれたね。こんなに美しい道中を自分が呼んだのかと思うと、何だか恐れ多くなってしまうよ」

 男は目を細めて優しく笑った。


「藤十郎(とうじゅうろう)さま」


 瑠璃が答える。低めで霞がかっているが、胸に直に響くような、心地よい重みがある声だ。


「ご存知のとおり、吉原の桜は満開の時に植えられて、あと十日もすれば見頃が終わったからと引き抜かれてしまいんす。粋を大切にするためとはいえ、人は勝手でござんすな」


 残りわずかの運命を儚むように、桜の木々を見上げる。花びらは緩やかな風に流され、空を舞い、地に落ちていく。


 やがて瑠璃は、静かに首を振った。


「わっちはこの桜を見るたび、春なのに秋のような、物悲しい気分になりいすよ。どうかこの桜が大門の外に出ていってしまっても、主さまはわっちに会いに来てくださんし」


 藤十郎は少し驚いたように目を瞠った。


「こりゃあ参ったな。この分では桜の後に植える菖蒲の時も、見事な道中を見なくてはいけなくなった。おちおち気が引けるなどと言ってはおれんなあ」


 そう言って大らかに笑う藤十郎を見て、瑠璃もしっとりとした微笑みを返した。


 道中の後方にいた引手茶屋のお内儀が前に出てくる。


「さあさあ、唐松屋さま、瑠璃花魁、花見酒の支度ができていますよ。二階の一番いいお座敷をお取りしてあります。どうぞお上がりくださいまし」


 まわりの熱視線に囲まれながら、藤十郎と瑠璃は互いに手を取りあって、茶屋の中へと姿を消した。

★この続きは、明日5月21日(土)17時公開! お楽しみに!

夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)

1991年千葉県生まれ。上智大学法学部卒業。石川県在住。2017年に第13回小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した『Cocoon-修羅の目覚め-』でいきなりシリーズ化が決定。その後、『Cocoon2-蠱惑の焔-』『Cocoon3-幽世の祈り-』『Cocoon4-宿縁の大樹-』『Cocoon5-瑠璃の浄土-』と次々に刊行し、人気を博している。コミカライズもされている。2022年5月には最新刊『Cocoon 京都・不死篇-蠢-』が刊行予定。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色