巻ノ二 御前試合異聞(二)、(三)

文字数 4,738文字

宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――

人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!

「小説現代」の人気連載、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」が待望の再開!

最強の漢はだれか――ぜひご一読ください!


イラスト:遠藤拓人

(二)


 徳川義直という人物がいる。

 徳川家康の九男として、慶長五年(一六〇〇)大坂で生を受けた。

 幼名、千々世丸、のちに五郎太丸といった。

 慶長八年、四歳の時、甲斐国二十五万石を拝領。慶長九年、五歳で正五位下に叙せられ、慶長十一年、七歳で元服。従四位下右兵衛督に叙任された。

 同じく慶長の十二年に、兄である松平忠吉の遺領を継いで、甲斐国から尾張国清洲藩に転封した。

 慶長十六年三月二十日、従三位参議兼右近衛権中将となり、このおりに義直に改名した。

 慶長十九年、十五歳の時大坂冬の陣で初陣、翌二十年の大坂夏の陣では後詰を担った。

 徳川御三家──尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家のうち、筆頭である尾張徳川家の初代藩主となり、名古屋城を居城とした。

 元和三年(一六一七)権中納言、寛永三年(一六二六)には、二十七歳で従二位権大納言の官位を与えられている。

 特筆すべきこととしては、将軍家光のことが大嫌いであった。

 勤皇の志はなはだ高く、江戸の将軍家よりも、京の朝廷を愛した。

 元和九年、家光が、父である二代将軍秀忠の後を継ぎ、二十歳で三代将軍となった時には、あからさまにその不快さを口にした。

「おれは、家康の実子であるのに、家光は孫ではないか。あんな青白い顔をした小僧が将軍では、徳川もしまいじゃ」

 近くに侍る者たちがはらはらするようなことを、平気で言い放った。

 家光よりも、四歳齢が上。

 武の人であった。

 寛永八年、家光の父であり、義直の兄である秀忠が、病を得て臨終の床にあるという噂を耳にして、家臣を引き連れて尾張を出、大磯まで至った。もうすぐ江戸というところで、慌てた秀忠が書状を送り、義直をねぎらい、尾張へ帰らせた。

 もっとも、この翌年に秀忠は亡くなっているので、臨終とまではいかなくても、病気であったというのは、事実だったのだろう。

 これより七年前、寛永元年にも、義直は同様の事件をおこしている。

 その年、家光が病を患い、明日をも知れぬ命であるとの噂が尾張に届いた。

 この時も、義直は、尾張から江戸へ向かって出立した。しかも、大軍を率いての行軍であった。

 軍事行動と言っていい。

 おもてむきは、家光が死んだ時、外様大名たちが不穏な動きを見せたり、不安になった民衆が暴動をおこしたりしたおり、これを武をもって鎮圧するためというものであったのだが、次の四代将軍を決める際、江戸の思うようにさせてたまるか、という義直の示威行動だったというのが真相であろう。

 この当時、家光にはまだ世継がいなかったのである。

「尾張徳川家は、幕府の家臣にあらず」

 義直の背骨を貫いていたのは、強いこの思いであった。

 幕府が驚いたのは言うまでもない。

 しかし、義直が小田原に着いた時には、もう、家光の病は癒えていた。

 その知らせはもちろん届いたのだが、義直は大軍を引き連れたまま、悠々として東海道を行進して江戸に向かい、自身の江戸屋敷に逗留した。

 もともと、徳川御三家という家の役目のひとつには、将軍家に跡継がいない場合、この三家の中からたれかを養子に迎え、将軍として立てるというものがあった。

 誇り高き義直としては、ぜひとも尾張の家から、将軍を出したかったのである。この思いは、代々尾張に受け継がれてゆく。しかし、この尻から煙が出てきそうなほどの義直の思いとは裏腹に、紀伊、水戸からは、吉宗、慶喜などの将軍が出たが、御三家筆頭の尾張からは、幕府滅亡まで、ひとりの将軍も輩出されることはなかった。

 この物語の時よりは、少し後の話になるが、寛永十九年、家光の嫡男竹千代が初詣をするおり、徳川御三家の当主に、参加するよう通達があったのだが、義直はこれを無視して参加しなかった。

「竹千代はまだ無位無官ではないか。このおれは、権大納言である。官位ある者が、なき者に礼をするというのは、典礼に反することである」

 これが、義直の言い分である。

 まことにごもっとも──というよりは、義直、よほど家光のことが嫌いであったのだろう。



(三)

 

もうひとり、この物語にとって、重要な人物をここに紹介しておきたい。

 その名は、

 柳生利厳──

 柳生宗厳こと石舟斎の孫にあたる。

 父は、石舟斎の嫡男柳生厳勝である。

 利厳、通称は兵庫助。

 この物語では、兵庫助で通したい。

 天正七年(一五七九)、大和国柳生庄において、厳勝の次男として誕生した。

 将軍家兵法指南役の柳生宗矩は、兵庫助の父厳勝の弟である。つまり、宗矩は、叔父にあたることになる。

 幼少期は、すでに隠居していた石舟斎から、宗矩や兄の久三郎たちと共に、直接剣を学んだ。

 性格は、剛健。

 太刀筋は、重く、強い。

 十歳のおりには、太さ一尺もある松の幹を剣で突けば、その切先が向こう側に出たという。

 話し合う──言葉や、理をもって語るということが、苦手であった。

 話し合いや、相手を説得するという行為は、女々しいことだと考えていた。

 そういうことに話が及んだ時には、

「では斬り合おう」

 剣を握って立ちあがる。

 勝った方が正しい──

 それでよいではないか。

 そう口にした。

 そして、おそろしく強かった。

 精妙──ということでは、宗矩の太刀筋が勝っていたが、兵庫助の豪剣は、生半可な剣の術理を打ち砕いてしまう。

 宗矩の方が、八歳齢が上であった。

 習いたての頃は、互いに稽古で木剣を交えることもあったが、数年後──

「ぬしらは、稽古であっても、剣を交えてはならぬ」

 石舟斎がそう言って、木剣であれ、竹刀であれ、両者に打ち合う稽古を禁じたと言われている。

 この兵庫助が、加藤清正という武将に愛された。

「ぜひとも我が臣下に──」

 清正から直々に請われて、五百石をもって熊本藩に仕官したのが、慶長八年、兵庫助二十四歳の時である。

 この仕官、石舟斎は、はじめ、頑なに断った。

 しかし、再三清正から請われ、ついに石舟斎も折れた。

 そのおり、石舟斎が言ったのが、このような言葉であった。

「兵助儀は殊のほかなる一徹の短慮者にござれば、たとえ、いかようの儀を仕出かし候とも、三度まで死罪の儀は堅く御宥し願いたい」

 これに対して、

「わかった」

 清正がうなずいて、この猛獣が、世に放たれたのである。

 しかし、兵庫助が熊本藩にいた時期は、一年に満たなかった。

 言い争いになった同僚を、額から首まで両断して藩を飛び出し、浪人となってしまったのである。

 何が原因であったか。

 尾張柳生家に、口伝として、次のような話が伝わっている。

 当時、熊本領内で百姓一揆があり、藩はこの鎮圧にあたっては伊藤長門守光兼をその任にあてていたのだが、長門守は、これに手間どっていた。そこで、長門守の後任として、兵庫助が派遣されたのである。

 この時、前任者長門守と、後任者兵庫助とが言い争いをした。

 一揆鎮圧のやり方で、考えが分かれたのである。

「総がかりでひと息に攻めて、首謀者全員、向かってくる者全てを斬ってすてればよい」

 兵庫助の言は、わかりやすい。

 しかし、長門守の考えは違っている。

「それでは、領内の百姓との間に、大きな遺恨を残すことになる。一時、一揆はおさまるかもしれないが、後々のことを考えたら、それは我が藩のためにならぬ」

「そんなことを言うておるから、何もおさまらず、事が大きくなってしまったのではないか──」

「今は、これから、ようやくおさまろうとしておる時じゃ」

「我らの役目は、一揆の鎮圧ぞ。たたき潰せばよい」

「だが、それでは──」

 と長門守が言いかけたところへ、

「面倒!」

 兵庫助が刃を鞘から滑らせて、長門守を、一撃で斬り伏せてしまったのである。

 兵庫助、そのまま、一揆に対して総攻撃をかけ、これをあっという間に鎮圧してしまった。

 清正に仔細を報告した後、兵庫助は即日致仕して姿を消してしまったのである。

 その後の、兵庫助の動向は定かではない。

 諸国を遍歴しながら、廻国修行をしていたという説や、柳生庄にもどり、石舟斎と修行に励んでいたという説もあり、いずれかは定かではない。

 どちらにしろ、石舟斎から、兵庫助が、皆伝の印可を授かり、『没茲味手段口伝書』、大太刀一振り、流祖上泉信綱から石舟斎に与えられた印可状、目録などの一切を授与されたという話も伝えられているので、兵庫助、石舟斎からよほど愛されていたのであろう。

 この兵庫助を愛した人物が、もうひとりいる。

 それが、前述した尾張藩主である徳川義直であったのである。

 元和元年、兵庫助は、尾張藩附家老、成瀬隼人正の推挙を受け、義直の兵法師範として、五百石で仕えることとなった。

 この時、まだ家康は生きていて、兵庫助が推挙されたおり、兵庫助を駿府に呼びよせ、この推挙を受けるよう、直々に説得したという。

 というのも、兵庫助、加藤清正の旧恩に感じて、致仕した後は、どの藩からの仕官の要請にも、首を縦に振らなかったからだ。ちなみに、福島正則から二千石で誘われたおりにも、兵庫助はこれを断っている。

 徳川義直は、兵庫助の様々な逸話を耳にするにつけ、ますますこの漢のことが気に入ったのだが、直に対面してくどいた時にも、

「清正公に旧恩ござりますれば」

 あっさり断られた。

 これで、さらに義直は、兵庫助を気に入って、父である家康に泣きついたのである。

 それで、兵庫助は、尾張に仕官して、ここに尾張柳生が生まれることになったのである。

 そして──

 江戸の徳川と尾張の徳川との対立の図式が、そのまま、江戸柳生と尾張柳生との対立の図式として持ち込まれてしまったのだ。

 このことがやがて、寛永十五年の御前試合開催の原因となってゆくのである。

 江戸柳生と尾張柳生の対立についても、単に家光と義直の不仲という以上の事情があるのだが、それについてはいずれ明らかにしたい。

 まずは、廻国修行中の宮本武蔵と、この兵庫助の逸話を次に紹介して、この稿を閉じたい。

 十八世紀に著された、『兵術要訓』に、このことが、記されている。

 宮本武蔵が、ある時、尾張を訪れた。

 この時、城下で武蔵はある武士とすれ違った。

 すれ違ってから、武蔵とその武士、両名が足を止め、振り返った。

 武蔵が言う。

「久々に活きた人物に出会うた。もしや、あなたの名は、柳生兵庫助というのではないか──」

 問われた武士は、いかにもとうなずいてから──

「かく言う貴殿は、宮本武蔵殿ではござらぬか──」

 このように問うたというのである。

 このふたりが出会うたら、さもありなんという、筆者の好きな逸話である。


(つづく)

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