桃源郷はここ/瀬尾まなほ

文字数 1,784文字

瀬戸内寂聴氏の、66歳年の離れた秘書として日々奮闘している瀬尾まなほさんが、いちばん近くからの眼差しで「寂庵」と「寂聴先生」について語ります!

 コロナ禍の生活が二年目を迎えた。すぐに感染は収束出来るだろうと思っていたら、まさか緊急事態宣言が解除された今も日本の感染者数は右肩上がりだ。

 外出や人と会うことさえ制限され続け、暗い雰囲気が日本中を漂っていた。

 私が秘書と務めている瀬戸内寂聴先生の寺院、寂庵。先生が40年以上前に出家して、その2年後に京都・嵯峨野に結んだ庵は500坪の敷地に建ち、広い庭に囲まれている。先生はそこに起居し、写経の会や法話の会を毎月開催していた。そんな寂庵でも行事はすべて中止、あんなににぎわっていた寂庵が静寂に包まれている。

 人が好きでおしゃべりな先生は、人が訪れてこないことがつまらない様子だった。しかし二年目となると、来客がない日々にもなれ、賑やかだった頃が遠い昔のように思える。

 そんな中でも、広大な寂庵の庭は季節ごとに色を変える。コロナだろうがなんだろうが関係なく、季節はめぐり、花は咲く。


 98歳の先生は外出がめっきり減った。自力で長距離が歩けないこと、体力的に自信がないこと、それらの理由から寂庵で過ごすことが多くなった。寂庵の庭は先生にとって季節を教えてくれる貴重な存在だった。

 寒い冬が終わりを告げるころには梅が咲き始める。その次に万作が咲き、「もうすぐ春が来ますよ!」と教えてくれる。

 真っ先に先生の故郷の徳島産の蜂須賀桜が門前に咲く。その次に、寂庵を包み込むように空高くからしだれ桜が咲く。雪柳や山茱萸も続く。こうして、先生にとっては代り映えしない日々でも、庭の花木が時の移ろいを感じさせてくれる。

 台所に座って庭を眺めるのが先生は好きだ。

「こんないいところはないと思う。私はここで死にたい」と先生はいつも言う。

 ニュースではああだこうだ、様々な問題が起き騒がしい。一歩外に出れば、その喧噪に巻き込まれてしまうだろう。けれど、静かな寂庵にいれば、世相からかけ離れているような気がしてほっとする。私が不安で仕方のない未来も、コロナの収束はいつになるのか、と心配する先生をよそに、花々は、今与えられている自分の役目をただまっすぐに全うしている。その可憐さの中にある生命力の強さに私は勇気をもらう。

 

 哲学者の今は亡き梅原猛氏が書いた書が寂庵のお堂に飾ってある。


「桃源郷はここ」まさに寂庵のことだ。


瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)

1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒。’57年「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞、’61年『田村俊子』で田村俊子賞、’63年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。’73年に平泉・中尊寺で得度、法名・寂聴となる(旧名・晴美)。’92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、’96年『白道』で芸術選奨文部大臣賞、2001年『場所』で野間文芸賞、’11年『風景』で泉鏡花文学賞を受賞。1998年『源氏物語』現代語訳を完訳。2006年、文化勲章受章。また、95歳で書き上げた長篇小説『いのち』(本作)が大きな話題になった。近著に『花のいのち』『愛することば あなたへ』『命あれば』『97歳の悩み相談 17歳の特別教室』『寂聴 九十七歳の遺言』『はい、さようなら。』『悔いなく生きよう』『笑って生ききる』など。

瀬尾まなほ(せお・まなほ)

瀬戸内寂聴秘書。1988年2月22日兵庫県神戸市出身。京都外国語大学英米語学専攻。大学卒業と同時に寂庵に就職。3年目の2013年3月、長年勤めていたスタッフ4名が退職(寂庵春の革命)し、66歳年の離れた瀬戸内寂聴の秘書として奮闘の日々が始まる。瀬戸内宛に送った手紙を褒めてもらったことにより、書く楽しさを知る。瀬戸内について書く機会も恵まれ、2017年6月より『まなほの寂庵日記』(共同通信社)連載スタート。15社以上の地方紙にて掲載されている。2019年、クロワッサンにて連載「口福の思い出」も始める。著作「おちゃめに100歳!寂聴さん」、「寂聴先生、ありがとう」。瀬戸内寂聴との共著「命の限り笑って生きたい」、「寂聴専先生、コロナ時代の『私たちの生き方』教えてください」。困難を抱えた若い女性や少女たちを支援する「若草プロジェクト」理事も務める。

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