「雨を待つ」⑬ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,744文字

 才藤の着ているタイガースの縦縞のユニフォームが、どうにも見慣れない。俺をとりまく世界は、違和感だらけだ。歯がゆくて、ネットの金属の枠を強く握りしめた。
「みんな言うねん。もったいないって。なんで、野球やめてまうねん。ホンマにもったいない、って」
 そう言ったのは、オカンだけではなかった。野球をきっぱりやめて、就職すると知ったチームメートも友人も、教師も──近所のおっちゃんでさえ「もったいない」と、決まって嘆息した。
「知ってるか?」才藤が問いかけた。「もったいないの『もったい』っていうのは、仏教の言葉で、物事の本質や、あるべき本当の姿のことなんやて」
「なんで……」お前がそんなこと知ってんねんと言いかけたが、才藤は寺の次男坊だったことを思い出した。才藤英心(えいしん)という名前が、俺にとってはカッコよくて、ずっとあこがれだった。
「本来の姿が失われるから、もったいない。日本人の心のなかには、その語源がしっかり浸透してんねん。だから、お前の今の姿を見て、もったいないってもどかしく思うのは当たり前やわ」
 俺の本質。失われた俺の本来の姿……。本人はとっくに見失っているのに、周囲の人間には、それがしっかり見えている。なんともおかしな話だと思った。
「お前のオトン、住職やろ? お前がドラフト指名受けて、うれし泣きしたんか?」
「オカンは泣いたけどな、オヤジは実に淡々としたもんやったな。おめでとうって言って、それっきりや」
 案外、父親はそんなものなのかもしれないと思った。
「オヤジは、親しい人間が死んでも、泣かへん。でも、心がないっていうわけやないねんで。むしろ、慈悲深い。だから、泣かへん」
 意味がわからなかった。つづきの言葉を待った。
「俺、思うんやけどな、いい年した人間が泣くって、何かが終わったときとか、一区切りついたときなんやろなぁって……」
 裏手にネットをしまい終え、ふたたびグラウンドに出た。
 シートノックがはじまる前に、グラウンド整備をしなければならない。トンボを取りに向かおうとしたとき、才藤が静かな声音で言った。
「うれし涙でも、悲しい涙でも、全部そうやろ。勝ったときと、負けたとき。誰かが生まれたとき、死んだとき。結婚したとき、別れたとき。夢がかなったとき、破れたとき。でもな、必死こいて、何かに集中してる最中は、誰も泣かへんやろ?」
 言われてみれば、たしかにそうだった。俺は少し顔を上げた。
「誰か親しい人が死んでも、オヤジが泣かへんのは、死が終わりやないって思ってるからちゃうやろか? 肉体を失ったとしても、魂はまだ修行してる最中なんやって、な」
 ふだんスポーツ用のサングラスをしているせいか、才藤の顔は目の周り以外が赤黒く焼けていた。
「だから、お前が野球で泣いてへんっていうことは、まだ途中なんやろ? 自分でも、うすうすわかってんねやろ? こうしてグラウンドキーパーになった今も、お前、まだまだ必死こいて、野球やってる最中なんや。一区切りついてへんねん」
 俺が……? 野球をしている最中? 何かものすごく大事なことを指摘されているような気がするが、なかなか理解が追いつかない。
「俺がたぶん次に泣くのは、引退するときやろな。もちろん、満足な引退を迎えられたら……、やけどな」
 戦力外通告を受けたプロ野球選手をテレビでよく見た。
 クビになった選手は、ほとんどみんな「俺はまだやれる」と思っている。しかし、現実は厳しい。道半ばであきらめざるを得ない。だから、泣かない。泣けないのだ。
 才藤の引退が、いったい何年後になるかわからないが、本人が満足いくかたちで、とことんやりきったと思えるようになったらいい。心の底からそう思った。
 ありがとなと、自分としては意外なほど素直にお礼の言葉が出かかったのだが、グラウンドに同時に響いた怒声にさえぎられた。
「おい、長谷! 何をサボってんねん! 整備やぞ!」現場のリーダーがトンボを手に立っていた。
「才藤、油売っとる場合か!」コーチも肩をいからせて、才藤に手招きを繰り返す。「はよ、来い!」
 すみません! と、互いの上司に返事をし、俺たちは別々の方向へ走っていった。


→⑭に続く

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