乱世で「神の愛」を信じた武将たち。戦国キリシタン大名三傑。

文字数 2,670文字

異能の戦国武将

野蛮、強欲、残虐……。末法末世の戦国を、己の力の限りを尽くして生きた武将たち。その野太い雄姿を史実・通説織り交ぜて活写する、戦国徒然連載です。
最強キリシタン大名が見た、キリスト教王国の夢。 

大友宗麟1530~1587)

1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を出した時、日本には約20万人のキリシタンがいたという。特に九州に信徒が多かった。


大友家は、元々豊後(大分県)の守護大名。政略に優れた大友宗麟(名は義鎮。出家して宗麟と号す)は、衰退した大内氏の旧領を手に入れるなどして、九州北部に君臨する大大名となった。


宗麟は若い頃、豊後に布教に来た宣教師・フランシスコ・ザビエルと会見し、布教を許している。信徒はすぐに増え、家族や家臣にもキリシタンは増えたが、宗麟自身がすぐに洗礼を受けることはなかった


おそらく、キリスト教そのものではなく、それに伴う貿易の利益や、西洋の医学や武器に興味があったのだろう。宗麟は外交や政略に優れた大名であり、立花道雪など知勇に優れた家臣を多く抱えていた。いち早く大砲を使用したり、宣教師に病院を開かせるなど、開明的な人物でもあった。


反面、家臣を殺してその妻を奪った、という逸話も伝えられており、好色だったとされている。同じキリシタン大名でも、高潔で知られた高山右近などと比べると、一筋縄ではいかない人物だったようだ。


そんな宗麟が受洗したのは、息子の義統に家督を譲った後の47歳の時。キリシタン嫌いの妻と離縁してから洗礼を受けている。洗礼名はドン・フランシスコ。


1577年、島津氏による日向(宮崎県)への侵攻を受け、大友氏は日向に出兵。宗麟自身も出陣した。


その日向で宗麟は、神社仏閣を徹底的に破壊している。宗麟はそのころには深くキリスト教に傾倒しており、日向にキリスト教王国を作ろうと考えていたとも言われる。


しかし、耳川の戦いで島津に大敗し、多くの将兵を失って豊後に撤退することになる。家臣に改宗を強要するなど、宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団の不和を生んでおり、宗教対立によって士気が低下していたことも敗因の一つと言われる。


この後、大友は島津に圧迫され、国人の離反も続いて、衰退を余儀なくされた。

戦国メモ

宗麟の正室の奈多夫人は九州一の美女といわれたが、宮司の娘であり、キリシタンを嫌っていた。宗麟には他に7人ほどの側室がいたが、ついには奈多夫人の侍女に手を付けて側室にし、夫人と一方的に離縁している。

法王も悲しんだ⁉ 切腹拒否して晒し首の信念。

小西行長1555~1600)

小西行長は、薬種商・貿易商を営む・隆佐の子。父とともに熱心なキリシタンで、洗礼名はアゴスチーニョ。


当初、宇喜多直家に仕えたが、その死後、豊臣秀吉に見いだされ、船奉行となる。人出身の才を活かし、水軍や海上輸送の管理・運営にあたった。


もちろん、単なる官僚的武将だったではない。水軍を率いて九州征伐などで功を挙げ、肥後(熊本県)半国14万石を与えられ、水城として有名な宇土城を造り、根拠とした。


文禄の役(朝鮮出兵・1592年)でも活躍したが、石田三成とともに停戦を画策。その後、朝鮮を支援する明との戦後交渉役を担ったが、無益な出兵を繰り返させないために明の皇帝の勅書内容を偽ろうとする。簡単に言えば、秀吉に「明が日本に降伏してきた」という嘘を信じ込ませようとしたのだ。これが秀吉に露見して怒りをかったが、三成のとりなしで事なきを得た。


結局、慶長の役(1597年)が起こり、再び出征。しかし、この2度の遠征で加藤清正と不和になり、豊臣家の文治派と武断派の分裂の種を蒔くことになる。朝鮮側に清正の上陸日時を漏らし、これを討たせようとしたという話も残る。


関ヶ原では盟友・三成とともに西軍として戦って敗れる。追手が迫る中、周囲は切腹を進めたが「切支丹の法により自害はせず」とこれを拒否したといわれる。


結局、三成らとともに京の六条河原で斬首された。小西行長はキリシタンの保護者として海外で有名で、一説には、その死がローマに伝えられた時、法王は全ローマ市民に行長のための祈祷を命じたという。

戦国メモ

講談などでは加藤清正を陥れる卑劣漢扱いですが、行長も苦しい立場だったと思います。

信仰を貫いて領土を捨て、最後はマニラへ渡った高潔の人。

高山右近1552~1615 

高山家は摂津国三島郡高山庄の国人。13歳の時、洗礼を受けた。洗礼名はジュスト。織田信長の傘下に入り、荒木村重の下で、高槻城主だった。


しかし、その村重が信長に背いたため、右近は苦悩を強いられる。右近がカネや地位で動かないことを知っていた信長は、右近が信長側について村重討伐の軍に加わらなければ、畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにすると脅したのだ。一方、村重のもとには右近の家族が人質となっている――。


熟慮の末、右近は信長に高槻城を返上し、浪人になると伝える。信長との戦争を回避したうえ、村重の討伐にも加わらないことで、人質処刑の口実を与えないための苦肉の策だった。だが、信長はこれを許し、結局、所領は安堵され、人質も無事だった。


本能寺の変後は、秀吉に仕えた。信長の葬式の際は「仏式」での供養を拒否している。高潔な人柄で知られ、普段は下品な会話ばかりしていた秀吉の家臣たちも、右近の前では遠慮したという。


茶人としても高名で、茶を介して多くの武将をキリストの教えに導いた。また、貧しい領民の葬儀で棺を担ぎ、神の前の平等を唱えたという。高槻の領民の七割が信者になったともいわれる。


しかし、秀吉による伴天連追放令に従わず、領地を没収される。小西行長などを頼って各地を転々とするが、1614年、徳川幕府によって国外追放を命じられ、妻子とともにマニラに配流された


現地では「偉大なキリストの騎士」として大歓迎を受けたが、翌年、64歳で病死した。

戦国メモ

高山右近も荒木村重も「利休七哲」に挙げられる茶の名人。恩讐の彼方に、茶の静謐――とはいかなかったようです。

参照:「寝返っても寝返っても皆殺し。裏切って「泣いた」「笑った」四将。」

関連書籍

『まだ見ぬ故郷 高山右近の生涯』長部日出雄/著(新潮文庫)

関連書籍

『鉄の首枷』遠藤周作/著(中公文庫)

関連書籍

『大友二階崩れ』赤神諒/著(講談社文庫)

関連書籍

『高山右近』加賀乙彦(講談社文庫)
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