【法廷遊戯】『弱者の反撃――『法廷遊戯』』

文字数 1,945文字

【2020年8月開催「2000字書評コンテスト:『法廷遊戯』」受賞作】


弱者の反撃――『法廷遊戯』


著・野地 嘉文

 講談社BOOK倶楽部のインターネットサイトに、メフィスト賞にはオリジナルの直球を思い切って投げて欲しいという文芸図書第三出版部の部長Lのメッセージが記されている。しかし言葉とは反対に、歴代の受賞作を眺めると多彩な変化球が並ぶ。中には鬼神が投げたような魔球も交じっている。

 五十嵐律人の第六十二回メフィスト賞受賞作『法廷遊戯』も例外ではない。ストーリーは、卒業生から司法試験合格者を出したことがなく底辺ロースクールと揶揄されている法科大学院を舞台に、学生が行う法廷ゲームで幕を開ける。学生の遊びの延長から事件が起こるという作品は、綾辻行人の『十角館の殺人』をはじめとする新本格ミステリーの有名作が数多く思いつく。法廷ミステリーらしからぬ始まりに導かれ、早くも世界が反転するようなプロットの予感に胸が高鳴る。

 ところが第一部の終わりが近づくにつれ、登場人物が抱えている闇が少しずつ明らかになる。第二部に至って物語は人間の負の部分をさらけだすシリアスな展開を示し、ノワールさながらの様相を呈する。児童養護施設の出身の主人公は過去に傷害事件を起こした経験を持つ。ほかにも親から虐待を受ける子供や痴漢詐欺を生業とする偽女子高生、墓地でお供え物をくすねながら生活しているホームレスなど、現代の日本に棲息している心に傷を持つ社会的弱者が数多く登場する。主人公は彼らとともに、自分たちを虐げた法律という社会規範を逆手にとって、境遇を逆転させるための戦いを挑む。

 その図式はかつての社会派推理小説を想起させる。日本が高度経済成長を迎えようとしていた頃、社会の歯車に組み込まれた者たちはゆがみを感じつつも身を粉にして働いた。社会派推理小説はそうした企業戦士たちに共感をもって迎えられた。当時の大学進学率は一割を超える程度でしかない。大学生はエリートを自覚し、社会が抱えるゆがみを是正しようと安保闘争など大学闘争に身を投じる者も少なくなかった。

 時を経て日本が豊かになると、社会の矛盾に真正面から取り組むような推理小説は主流から滑り落ちる。バブル期には新本格ミステリーが登場し、若者を中心に支持を集めた。ミステリーは遊戯としての色彩を強め、現実離れしたトリックと思考実験のようなロジックを扱う作品もあらわれた。

 しかし、さらに時代は移り変わる。今の日本は過去の繁栄の残滓を感じさせつつも経済は疲弊し、若い世代を中心に負担を強いている。先行きに光明は見えない。

 初期の新本格ミステリーに描かれていた大学生は学業を忘れ、遊興にかまけている者が多かったが、『法廷遊戯』の登場人物は現在の実際の大学生と同様、自分の将来を賭けて必死で学ぶ。第一部で描かれた法廷ゲームも遊興のものではない。


 といっても『法廷遊戯』は単に社会的なテーマを扱ったミステリーというわけではない。

 物語の最後は法廷ものらしく、裁判の場面で決着がつけられる。そこでは虐げられていた弱者がみずからの人生をかけ、法律を武器にどのような反逆を企ててきたのかが明らかになる。同時に司法の限界が突きつけられる。最初に予感したように、ロジックを梃子としてそれまでの登場人物の言動が伏線へと変貌し、目の前には違った光景が広がる。

 リアリズムを重視しながら本格ミステリーとしての衝撃を維持することは難しい。トリックに技巧を凝らすほど現実感が希薄になり、現実感を重視すれば衝撃度が減じる。だが、『法廷遊戯』はこれまで反目し合っていた遊戯性と社会性を違和感なく融合させることに成功している。

 幻惑するような超絶ロジックを愛する若い読者はもちろんこの新たなメフィスト賞作品に魅了されるだろう。それだけでなく、江戸川乱歩賞ならばとりあえず読んでみるものの、メフィスト賞になると縁遠くなる大人たちも本書だけは手にとってほしい。社会が抱える問題を描きながら、本格としての魅力を追及するような作品は江戸川乱歩賞受賞作に多い印象があるが、本書はその最良の作品と肩を並べる。

 『法廷遊戯』はめまいを感じさせるほどのロジック小説であるとともに、社会が抱える問題を提起する小説であり、せつないほど痛快なピカレスクロマンでもある。

 作者から投じられた渾身の一球は、変化球に見えながら、軌道は読者の予想を上回り、読了後はずしりと重いストレートであったことに気づく。次はどんなボールがくるか、次回作が待ち遠しい。

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