『どうぞ愛をお叫びください』/折れ戻りとしての愛を叫ぶということ(曾良秘)

文字数 3,624文字

『響け! ユーフォニアム』の武田綾乃がおくる最新作『愛されなくても別に』が8月26日(水)に発売されます。それを記念し、tree編集部では武田綾乃の全作品レビュー企画を実施しました。書き手は、多くの人気ミステリ作家も在籍していた文芸サークル「京都大学推理小説研究会」の現役会員の皆さんです。全8回、毎日更新でお届けします。

書き手:曾良秘(京都大学推理小説研究会)

1998年生。大学生。写真は対馬・海神神社の豊玉姫。

『どうぞ愛をお叫びください』(新潮社)
折れ戻りとしての愛を叫ぶということ

武田綾乃という作家は多くの人に恐れられている。


……書評の場でこれを言うのもどうかなと思ったが、しょせん学生サークル風情だし、最悪“ウチの村ではそうなんです~”と居直るつもりで、思い切って言ってしまった。


あらゆる人間相関やコミュニティの中に現れる、腫れ物のように扱いづらく言いあらわしがたい領域を、きわめて誠実かつ直截に描き尽くしていこうという信念。


その信念が、感受性の高さゆえに周りが見えすぎてしまう=空気が読めすぎてしまうキャラクターたちを駆動させ、内省に満ちた思考と欺瞞めいた言動をつむぐ。


部活動やスクールカーストなどの主題があったとして、その主題の周縁に渦巻くすべての問題系と問題構成に触れずにはいられないという網羅性の志向、あるいは“容赦のなさ”。


これこそ、多くの人にとって武田綾乃作品がトラウマの呼び水となっているゆえんである。


人々がそれぞれ分け持っている、ほんのひとかけらの痛みの記憶にすら共振と共鳴をもたらし、いくら拒もうともページをめくり続けるかぎり何かを受け取らざるをえない。


読者がじぶん自身の体験と切り離しながら武田綾乃作品を読むというのは、相当な至難の業だ。

むきだしの物語が、むきだしの“私”のすぐそばに、決してひとごとでは済まされない切実性と事実性をともなって現前する。避けがたい恐れと慄き。


ただ、その“容赦のなさ”をたんなる背徳や破戒と責め立ててはいけない。


“容赦のなさ”とは常に両面的で、世界に存在しうるマージナルな悪感情を一切取りこぼしたり無かったことにはしてはならない、という真摯で素朴な配慮のあらわれでもある。


あるいは、“容赦のなさ”を“爽快さ”に読み替えることも可能かもしれない。


簡単には言いあらわせない、瞬時には言いあぐねてしまうようなことを隅々まで詳らかにしてしまおうという言動は、「あえてみんなが言わないことをよく言うなあ」という意味合いで“容赦がない“とも、「みんなが言えないことをよく言ってくれた!」という意味合いで“爽快だ“とも評される。


この“爽快さ”は、推理小説を読むという体験の享楽とも深く通じている。


前置きが長くなった。要するに、ここまで補助線を引いてはじめて、本作『どうぞ愛をお叫びください』の帯に添えられた「爽快度120%の最旬青春小説」というキャッチコピーが、まったく虚偽ではないと万人に証明できるものと思う。


裏を返せば、これを一読して爽快極まりない作品だと判断する人が、果たしてどれくらい存在するのだろうか、という率直な疑問がある。


本作では「ユーチューバーやろうぜ」の一言のもとに集った四人の男子高校生が、標題と同名のゲーム実況グループ「どうぞ愛をお叫びください(略称:愛ダサ)」を結成する。


「愛ダサ」は、現代(作中では2019年)において新規に活動をはじめた男性配信者グループが直面するであろう、ありとあらゆる問題に向き合うことになる。


ありとあらゆる問題というのは、ほんとうにありとあらゆる問題だ。


すべてと断言することはもちろんできないが、多くの人にとってすべてを網羅しているかのように思えるのであれば、それはもうすべてと言っても差し支えないのではないか。


そう思ってしまうほどには、網羅性がある。


あまりにも取材や分析が精緻なので、動画投稿や配信をはじめたい人が本作をハウツー本や虎の巻として読むことができるのではないかとすら思う。


脳裏にはやはり、実在する配信者グループの名前が無数に浮かんでは消えていく。


Web記事上で作者と対談した「ナポリの男たち」はいうなればめちゃくちゃ上手くいっているグループで、このSNS時代、どんな大人気グループでも一度や二度のボヤ騒ぎを経ているものだ。


彼らの背後には、何かをこじらせて表舞台から姿を消したり、はたまた諸事情で解散を余儀なくされたグループの死屍が累々と横たわっている。


配信者になって短期的に収益を得るハードルこそずいぶん低くなったけれど、長期的に金銭的成功と人間関係を維持するというのは、未だ前例の少ない荊棘の道である。


「愛ダサ」の四人でこの手の“ゲーム実況史”に通暁しているのは、語り手でもある松尾直樹ひとりだけで、他三人の文化背景は年相応のものだ。ニコニコ動画の存在すらろくに知らない。


にもかかわらず彼らは、発展すればグループが瓦解しかねないような大小の問題を、すれすれのところで回避し続ける。


薄氷を履むような危なっかしい歩みだが、そこに説得力と必然性を持たせているのがやはり人物配置の妙と、「愛ダサ」が“バズる”という結果の大胆な予告だろう。


これは人間関係の力学としての安定性と配信者グループとしての成功が、強い相関関係にあるということの簡明な示唆でもある。


作中で扱われる印象的なトピックとして、“消費”の問題系を挙げたい。


大きな物語の消費、データベース消費、相関図消費……さまざまな批評シーンの後世を生きるわれわれは、“消費”という語を用いるとき、もはや経済学の範疇には回収できないネガティヴなニュアンスをたぶんに含ませる。


一例を示すと、作り手の意図や尊厳を踏みにじる形でコンテンツを享受する態度を、非難をこめて“消費“と呼ぶことがある。


そういった態度に即応するかたちで作り手側の自意識と倫理が、じつは物語全体を貫くひとつの縦軸なのだが、その軸の通し方と手続きというのも周到極まりないものだ。


身体性や表象のコンセプトを、そのものズバリの術語にさほど頼ることもなく俎上にあげてみせ、議論の視野を担保するのである。


私は、あるいは私のものした作品は、他者においてどのように表象され・加工され・変奏され、私のもとにふたたび帰り来たるのであろうかという難問の、日常言語による実践的探究。


本稿が作家のマス・イメージについての分析から出発したのは、そういった議論状況のもとで、作家本人についてまったく触れずにいるのはかえって不誠実に思えたからである。


さて、以上のような問題群を経たうえで、本作は最終的結論めいた展開を提出する。


詳細は省くが、端的に言えば、都合何度めかのタイトル回収が果たされる。


不変でも普遍でもない、共時態としての“愛“を叫ぶという行為が、ほぼ無条件とも言うべき位相において、どうしようもなく・決定的に・後戻りできない形で肯定されるのだ。


こう書くと爽快感のあるラストである。実際すがすがしくはあるのだが、これをたんに爽快なものとして賛えることには、どうしてもためらいを禁じえない。


なにしろぜんぜん軽々しい結論ではないからだ。


むしろそれまでの語れるものすべてを語り尽くすような透徹した“容赦のない”識見を前提したとき、そのときにはじめて痛切なものとして現れるような、ひりつくほど重々しい逆説的“爽快さ”をここに看取せずにはいられないのである。


この“愛”の肯定は独善主義の肯定とも、刹那主義の肯定とも取れる。


「愛ダサ」が本編以降どうなっていくかという描写は見当たらないが、示唆としては十分すぎるほどだ。

それがどうした、今がすべてだ、と何もかも吹き飛ばす朗らかさは、苦々しい現実を飲み下しおのれを曲げるか否か問う窮極的体験に根拠づけられてこそ、われわれを強い調子で勇気づけ、エンパワーメントする。


かくいう本稿もまた、「愛ダサ」によって勝手に奮い立った一読者が、手近な言葉を寄せ集めて書き殴った、空回り気味でむきだしで独りよがりの“愛“の奔逸である。


(書き手:曾良秘)

★次回は明日正午更新です!
★武田綾乃最新作『愛されなくても別に』(講談社)8月26日(水)発売です!
人気作家・綾辻行人氏や法月綸太郎氏もかつて在籍していた京都大学の文芸サークル。担当者が課題本を決めそれについて発表・討論を行う「読書会」や、担当者が創作した短編ミステリー小説の謎解きを制限時間内に行う「犯人あて」等を主たる活動としている。また大学の文化祭では会員による創作・評論を掲載する同人誌「蒼鴉城」を発行している。最近はSNSでも情報を発信中。

Twitter:@soajo_KUMC

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