遠田潤子の最新作『雨の中の涙のように』第一章立ち読み公開! 1/3

文字数 8,338文字

 前作『銀花の蔵』が直木賞の候補になるなど、創作活動がますます好調な遠田潤子。八月に刊行された期待の最新作『雨の中の涙のように』は、今までにない幾つものこころみをはらんだ注目作です。
 この作品では、各章ごとに過去に縛られて思うように生きていない「主人公」が圧倒的なオーラを放つスター、堀尾葉介と何らかの形ですれ違います。その出会いから、彼らの人生や、心を動かし、変化させるドラマと感動が各章ごとに展開されます。しかし、その葉介も過去に縛られていることが徐々に明かされて行く……。心を動かすことにおびえている人々が過去と向かい合う姿を、丁寧に、繊細に、そしてドラマティックに描く感動作の第一章「垣見伍郎兵衛の握手会」を3回に分けて公開します。
 
(あらすじ)
愛媛県大洲の町でハンコ屋を営む伍郎は、若いころ京都で夢にすがって大部屋俳優の貧乏暮らしをしていた。伍郎の人生に堀尾葉介というスターが舞い込んで──。



 
 第一章 (かき)()()()()()の握手会 
 
 七月に入ったばかりの蒸し暑い日だった。
 夕方、近所に住む姉が小学校六年生の姪
を連れてやってきた。()(ろう)はハンコを彫る手を止め、顔を上げた。
「盆の法事のことやけど」
 そう言いながら、姉が店内を見回す。いつものことだが(なか)(じま)印章店に客の姿はない。印章店と言いながらハンコはほとんど売れず、出るのは学習ノート、絵手紙画材や一筆箋、初心者向け(てん)(こく)セットだ。祖父の跡を継いで、伍郎が細々と店を続けていた。
 姉は作業机の横にある丸椅子に腰を下ろした。姪は勝手にクーラーの温度を下げると、伍郎の机の上にある炭酸煎餅の缶に手を突っ込んだ。しばらく探って、(あめ)を三つほどつかみ出す。姉が叱るが、どこ吹く風だ。一つ口に入れると、店の奥、自宅へ通じる上がり(かまち)に腰を下ろし、ティーン向けのファッション雑誌を広げた。
 伍郎が缶をのぞくと、残りは数個になっている。後で買いに行かなければ、と思いながら、習慣で一つ口に放り込んだ。ダブルベリーチーズケーキ味。とにかく甘いが、この甘さが煙草(たばこ)への欲求を紛らしてくれる。
 法事の打ち合わせが終わると、待ちかねたように姪が近寄ってきた。
「お母さん、今度の誕生日プレゼント、ここの服が欲しいんやけどのぉ」
 開いた雑誌を指さす。ごちゃごちゃした誌面には十数人の女の子がひしめいている。みな(そろ)いのブレザーとチェックのスカートをはいて、大げさに笑っていた。
「こがいな服、ただの制服じゃろ」
 姉はちらと眼を遣ったが、帰り支度の手を止めない。
「ちゃーう。なん言うとん」母親に相手にされないので、伍郎に話しかけてきた。
「叔父さんはどがい思いよる?」
 若い女の子たちは名前も知らないアイドルグループだ。大ブレイクというピンクの文字が躍っている。前列で大きく写っているのは人気のある子だろう。後列へ行くほど不人気になり、写りも小さくなる。
 伍郎は最前列の子と最後列の子の顔を比べてみた。美醜にたいして差があるとは思えない。不思議だ、と思った。大昔のアイドルやスターは明らかに「華」とか「オーラ」があったような気がする。身にまとう空気の質そのものが違っていた。そう、刀を納める者と納められない者がいるように――。
「なあ、叔父さんもかわいいと思うじゃろ?」
 姪に呼びかけられ、伍郎は我に返った。ほやなあ、ともう一度雑誌を眺めて、最後列の端の少女に眼が留まった。
 次の瞬間、心臓が跳ね上がった。少女には()(ざくら)しのぶの面影がある。黒目がちの大きな眼、すこし低い鼻、大きな口。どこかチワワに似ていると言われた顔。よく見れば面影どころかそっくりだ。慌てて名前を確かめると、「(そめ)()わかば」とある。
 伍郎は動揺した。しのぶの本名は染井よし()で、その娘は染井(わか)()だった。では、この少女はあの若葉なのか? それとも、他人の空似か? 伍郎は少女の顔を食い入るように見つめた。いや、顔と名が両方揃うとなれば偶然とは思えない。
「叔父さん、ほがいに必死で見よると気持ち悪いぜぇ」
 姪は雑誌を閉じると、先に帰る、と店を出て行った。姉は困ったものだと言いはしたが、伍郎への()びの言葉はなかった。
 一人になると、伍郎はパソコンに飛びついた。「染井わかば」を検索する。島根県出身の十八歳。好物はスイーツ。家族関係の記述はない。グループのCDは三枚出ていた。四枚目の新譜は予約受付中。初回限定版はイベント参加券――握手券付き。
 若葉は(おく)(いず)()で曽祖父母と暮らしていたはずだ。「染井わかば」が島根県出身ということは、もう間違いない。伍郎はモニターの前で震えた。この子は若葉だ。若葉に違いない。
 それからはなにをしても上の空だった。珍しく客が来たのに釣り銭を間違え、商品段ボール箱につまずいた。仕方ないので早めに店を閉め、残り物で夕食を済ませた。味などすこしもわからない。じっとしていることができず、ふらふらと家を出た。
 中島印章店は愛媛県、(おお)()にある。
 大洲は城と川の町だ。町の外れを(ひじ)(かわ)が流れ、高台には再建された大洲城が立っていた。城下には古い町並みもよく残っている。腰板張りの武家屋敷、なまこ壁の商家の蔵、明治の赤レンガ建築、昭和の木造民家など時代を映す建物が揃っていた。
 また、大洲はドラマの町でもある。その昔には「おはなはん」という人気ドラマの舞台になった。「おはなはん通り」と名づけられた通りは観光客にも人気だ。また、恋愛ドラマのロケが行われたこともある。小さな町だがドラマとの距離は近い。
 伍郎がしのぶと大洲の町を歩いたのは、もう十年も前のことだ。
 ――ほんまにセットみたいな町やね。
 そう言って、しのぶは笑ったのだった。
 角のコンビニでメビウスの1ミリと「ほうじ茶ミルク飴」を買った。こんなスカスカを吸うくらいなら、いっそ禁煙すればいいとわかっているが、やっぱり()められない。今は一日三本、毎食後に一本吸うだけと決めている。電子煙草に切り替えるという手もあるが、なんだか(おつ)(くう)だ。もし、一箱五百円を超えたら完全に禁煙しようと思っている。
 伍郎はぶらぶらと肱川へ足を向けた。ただゆっくり歩いているだけなのに、()()がまとわりついて汗が流れる。大洲は盆地の町だ。夏は暑く、秋冬には「肱川あらし」という強い風が吹いて霧が出る。
 肱川の流れはこの先で大きくカーブして、両岸は高い崖だ。川を見下ろすように()(りゆう)(さん)(そう)が立っている。明治期の意匠を凝らした()()()建築と美しい(こけ)(にわ)があった。
 伍郎は立ち止まって煙草に火をつけた。今日はこれが最後の一本だ。大事に吸わなければ、と肱川に向かって煙を吐く。
 川の音が雨の音に聞こえた。途端に、頭の中に雨が降ってきた。
 十年前、京都でしのぶと暮らしていた。二人は養成所を出て役者として成功することを夢見て、(くるま)(ざき)神社に近いアパートでその当時でもありえないような時代錯誤の貧乏暮らしをしていた。
 伍郎の運命を変えたのは(ほり)()(よう)(すけ)との出会いだった。
       *
 伍郎が時代劇に憧れたのは、祖父の影響だった。
 両親を早くに亡くした伍郎は二つ年上の姉と一緒に、祖父母に育てられた。祖父は愛媛県大洲市で、中島印章店というハンコと文房具を扱う店を営んでいた。祖父は背を丸めてハンコを彫りながら、薄暗い店の片隅にあるテレビで時代劇を観ていた。
 伍郎が十歳のとき、家族で(どう)()温泉に行った。土産物屋には、外国人観光客向けのオモチャの刀やら手裏剣やらがたくさん並んでいた。伍郎は刀を大小二振り買ってもらった。
 以来、伍郎は他の子供たちとは遊ばず一人でひたすらチャンバラごっこをした。寂しくはなかった。祖父が眼を細めて見てくれたからだ。
 伍郎が憧れたのは(のう)(とう)だった。刀を(さや)に納める、ただそれだけのことだが、時代劇では決めの見せ所だ。回転納刀といって、くるくると刀を回してから鞘に納める型もある。伍郎が夢中になったのは、「(ちよう)(しち)(ろう)()()(につ)()」で(さと)()(こう)()(ろう)が披露する二刀流の納刀だった。
 まず、両の刀を左右で大きく振って、血を払う仕草をする。それから、その場でくるっと回転する。正面に向き直った瞬間、両腕を交差させ、同時に大小を鞘に納めるのだ。
 毎日飽きもせず、伍郎はオモチャの刀で納刀の(けい)()を続けた。

 高校を卒業すると、伍郎は祖父母の反対を押し切り京都で俳優養成所に入った。芸名は「(かき)()()(ろう)」とした。『(ちゆう)(しん)(ぐら)』に出てくる垣見()()()()にあやかった名だ。
 (おお)(いし)内蔵助(くらのすけ)()()を討つために秘密裏に江戸へ向かう。道中は身元を偽り「()()家用人 垣見五郎兵衛」と名乗った。だが、とある宿で本物の垣見五郎兵衛と鉢合わせしてしまう。二人が宿の一室で(たい)()するシーンは様々なバリエーションがあるが、忠臣蔵の中でも屈指の見せ場であるのは間違いない。
 本物の垣見は己の名を(かた)る内蔵助を問い詰めるが、内蔵助はもちろん認めるわけにはいかない。本物ならば道中手形を出せと言われた内蔵助は、白紙の手形を堂々と垣見に示す。驚き、怒る垣見。だが、そのとき垣見は内蔵助の持ち物の紋に気付く。丸に違い(たか)の羽。あれは(あさ)()家の紋ではないか。それでは、眼の前にいる男は――。
 すべてを察した垣見は己が偽者だと認めて内蔵助に非礼を詫びると、己が持つ本物の道中手形を与えて去って行く。内蔵助はその後ろ姿に平伏し、万一のために控えていた浪士たちは感謝のあまり男泣きに泣くのだった。
 伍郎は子供の頃からこの場面が大好きだった。だから、役者になると決めたとき、迷わず「垣見伍郎」と名乗った。
『忠臣蔵』の中では垣見五郎兵衛はわずかな出番しかないが、主役と同格の俳優が演じる。古くは、()()()(もん)が内蔵助なら()()(ぞう)が垣見五郎兵衛。(まつ)(もと)(こう)()(ろう)なら(かた)(おか)(たか)()(きた)(おお)()(きん)()なら(ふじ)()まこと、(まつ)(だいら)(けん)なら()(もり)(とおる)、と大物俳優が名を連ねていた。
 ――アホか、そんな大きな名前付けて。
 撮影所では会う人会う人に言われたものだ。だが、伍郎はそのたびに闘志を燃やした。いつかこの名に見合うだけの役者になってやる。今笑ったやつらを見返してやる、と。
 垣見伍郎という名を笑わなかったのが、小桜しのぶだった。あまりに古臭い芸名だったが、本人は気に入っていた。田舎のばあちゃんが付けてくれてん、と。しのぶは彼女を産んですぐに亡くなった母の名で、小桜は祖母がかわいがっていた「コザクラインコ」からだった。
 しのぶは奥出雲の小さな町の出身だった。祖父母は地元の食品工場で働きながら、小さな田んぼで米を作っていた。しのぶには二十歳で産んだ若葉という娘がいた。どうしても女優になりたかったしのぶは若葉を祖母に預け、京都に出てきたのだった。
「早く売れたい。有名女優になって若葉を迎えに行きたい」
 それがしのぶの夢だった。だが、しのぶの役どころは打ち水をする町娘か、川から引き揚げられる女郎の()()()(もん)だ。(むしろ)をめくってもらえたらラッキー。顔がアップになればもっとラッキーだった。
 二人が養成所に入った頃、とっくに時代劇は(すた)れていた。映画はおろか、テレビ時代劇も人気シリーズが軒並み終了し壊滅状態だった。撮影所は閑散とし、時代劇の黄金時代など、映画村に飾られている白黒のパネルの中にしかない。「()()」で食うなど夢のまた夢。養成所の同期もみな京都を離れていった。
 そんな中、京都に残ったのが伍郎としのぶだ。二人とも時代劇では食えないことを知っていた。だが、伍郎もしのぶも祖父母と共に時代劇を観て育った。時代劇を否定することは、親に育ててもらえなかった自分を否定することだ。それはあまりに(つら)かった。
 二人はとうに終わった夢の残り(かす)にしがみつく、似た者同士だった。それでも明日を信じていた。いつかは俺もカメラに向かって納刀を、と伍郎は稽古を欠かさず、毎日毎日、刀を振った。
 二人が付き合いはじめたのは、伍郎が二十八歳、しのぶが二十三歳のときだ。初デートは車折神社だった。太秦(うずまさ)の撮影所から(らん)(でん)で三駅。電車を降りると眼の前がすぐ参道だ。小さな神社だが、創建は平安時代で歴史は古い。桜と紅葉の隠れた名所だ。
 境内には(あめの)()()(めの)(みこと)(まつ)る芸能神社があって、芸能芸術に加護があるという。昔から多くの芸能人が参拝し、玉垣を奉納してきた。現在、神社の周りには二千枚を超える玉垣が並んでいる。
 玉垣とは、朱塗りの板に奉納者の名を書いたものだ。俳優、歌手、アイドル、舞台人など、そこかしこに大物芸能人の名前が見える。だが、大半の玉垣は無名の人が納めたものだった。
 二月の終わり、雪が舞うほど寒い日だった。早咲きで有名な(かわ)()(ざくら)だったが、まださすがにつぼみは堅かった。
「今、俺らが奉納しても、誰やねん、これ? て言われるんやろな」
 撮影所ではみなが関西弁を(しやべ)っている。伍郎もしのぶも関西出身ではないが、いつの間にか関西弁を話すようになっていた。
「うん。そやから、あたし決めてるねん。単発やなくてレギュラーの仕事がもらえたら、クレジットに役名とあたしの名前が大きく出るようになったら、玉垣を奉納しよ、思て」
「名前が売れてから、いうことやな」
「そう。小桜しのぶの玉垣や、て言うてもらえるようになってから」
「じゃ、俺もそうする。小桜しのぶの隣は垣見伍郎か、ていうふうにな」
 二人揃ってお参りをした。その夜、伍郎の汚いアパートで抱き合い、次の週にはしのぶが移ってきた。そして、二人揃って大部屋俳優をしながら、五年が()った。

 堀尾葉介は当時二十二歳で、大人気アイドルグループ「RIDE」の一員だった。時代劇の経験はなかったが、ベストセラー漫画を実写化した時代劇映画の主演が決まった。相当な宣伝費を掛けた大作で、クライマックスはいわゆる「百人斬り」だ。堀尾葉介は三ヶ月間猛特訓をすることになった。
 撮影所にはじめて堀尾葉介が来たとき、伍郎は思わず見とれてしまった。長身で、すらりと手足が長い。整った顔にはまだ少年時代の面影が残っていた。甘くて青い、すこし痛々しくて見る者をせつなくさせる。(いや)(おう)なしに()()欲をかき立てる美だ。
 伍郎の横でしのぶが呟いた。
「やっぱりすごいね、オーラが」
 伍郎は悔しくてうなずくことができなかった。堀尾葉介はただ立っているだけで圧倒的だった。(はかな)さが凶器になるのか、と思うほど胸が締め付けられた。
 撮影がはじまると、監督の発案で堀尾葉介に長い刀が与えられた。かつて、(この)()(じゆう)()(ろう)というスターがいた。通常より長い刀を使い、迫力のある殺陣で有名だったのだ。堀尾葉介の長い刀を見た伍郎は内心では見下していた。素人に()()できるわけがない、と。
 だが、稽古をはじめてみると、堀尾葉介はびっくりするほど勘がよかった。なによりも稽古に臨む態度が真面目だった。殺陣師の無理な注文にも文句一つ言わず、懸命に応えた。撮影所内に漂っていた、幼稚な曲を歌って踊るアイドルという偏見は徐々に消えていった。それでも、伍郎はやっぱり素直に賞賛することができなかった。
 伍郎の出るシーンの撮影が終わってスタジオの裏で一服していると、(いし)(ざき)という四十過ぎの助監督が堀尾葉介を連れて近づいてきた。疲れた顔でへらへら笑いながら言う。
「伍郎ちゃん、悪いけど堀尾くんに納刀、教えたってや。どうせ暇やろ?」
 たしかに暇だ。当分、次の仕事はない。カチンときたが、煙草を消して立ち上がった。
「垣見さん。お休みのところすみません」堀尾葉介はびっくりするほど腰が低かった。「休憩のときとかに、ときどきやっていらっしゃる、刀をくるっと回して納めるやつ、教えていただけませんか?」
 そう言って堀尾葉介はにっこり笑った。伍郎は息を()んだ。その屈託のない笑顔に引き込まれそうになった。
 回転納刀。刀を回して鞘に納める。コツは人差し指と中指で鞘を挟むことだ。伍郎も飽きるほど練習した。だが、カメラの前で披露したことはない。殺陣の後、刀を鞘に納めることができるのは主役だけだ。斬られた者は刀など納めない。(つか)を握り締めたまま、地べたに倒れているからだ。斬られ役には無用の技術だ。
 伍郎は堀尾葉介に回転納刀の手ほどきをした。堀尾葉介は空き時間に黙々と練習をし、何日かすると回転納刀をものにした。
「垣見さん、見てください。ほら、どうですか?」
 堀尾葉介は伍郎と変わらぬ速さで刀を回し、鞘に納めた。すんなり伸びた手足で潔く長い刀を回す様は、これまで伍郎が見てきた誰とも違っていた。
 横で石崎助監督が(つぶや)くのが聞こえた。……こいつはほんまもんや、と。
 これだけの技術を短期間で習得するにはどれだけの努力があったのだろう。これまでだってそうなのだ。堀尾葉介はただちやほやされてきたのではない。時代劇俳優が殺陣に命を懸けるように、アイドル堀尾葉介は歌とダンスに命を懸けてきた。伍郎は己の無知と(ごう)(まん)を恥じた。
「ええ、OKです……」
「やった」
 途端に子供じみた顔で堀尾葉介が笑った。伍郎は見とれた。まぶしかった。美しかった。ただその男がいるだけで、周囲の空気が澄んで輝いていた。
「垣見さん、ありがとうございました」
 堀尾葉介は深々と頭を下げた。ああ、と伍郎は思った。この男はいずれ格の高い役も演じるだろう。忠臣蔵なら内匠(たくみの)(かみ)や。垣見五郎兵衛をやれば、片岡孝夫がやったようなきれいな五郎兵衛になるのだろう。
 その夜、伍郎は痛飲した。酔って部屋に帰り、しのぶに当たり散らした。皿も何枚か割った。最低だとわかっていたが、やめられなかった。挙げ句、惨めに泣きながら、いつの間にか眠ってしまった。
 翌朝、しのぶはなにごともなかったかのように朝飯を作ってくれた。伍郎は(きた)()(てん)(まん)(ぐう)(こつ)(とう)市に出かけ、(くろ)()(ぜん)の平皿を五枚一組、三千円で買った。
「意外とセンスええやん」
 しのぶが笑って、伍郎はほっとした。
(次回更新は9月1日12時です)

※著者略歴
遠田潤子(とおだ・じゅんこ)
1966年大阪府生まれ。2009年『月桃夜』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。12年『アンチェルの蝶』が第15回大藪春彦賞候補に。14年刊行の『雪の鉄樹』が16年に本の雑誌が選ぶ文庫ベストテン第1位に選ばれ、一気にブレイク。さらに17年に『冬雷』が「本の雑誌 2017年上半期エンターテインメント・ベスト10」第2位、第1回未来屋小説大賞 推理作家協会賞長編部門候補、『オブリヴィオン』が「本の雑誌 2017年度ノンジャンルのベスト10」第1位、20年刊行の『銀花の蔵』は第163回直木賞候補となる。他に『カラヴィンカ』『あの日のあなた』『蓮の数式』『ドライブインまほろば』など。

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