巻ノ三 妖人正雪(五)、(六)
文字数 4,782文字
宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――
人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!
「小説現代」の人気連載、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」が待望の再開!
最強の漢はだれか――ぜひご一読ください!
イラスト:遠藤拓人
(五)
大久保彦左衛門、由比正雪のことが気に入らぬ理由は、もうひとつある。
これも、噂だ。
しかし、事実ではなくとも、噂というものは、その人物の人となりについてまわるものだ。その人物がそういう人間であるからこそ、いかにもその人らしい噂が語られるのであり、それが噓であっても、その噓が噓であるが故に、かえってその人物の本質を言いあてているということがよくある。
彦左衛門は、そのことをよく承知している。
次のような噂だ。
正雪、しばらく前に、谷中に道場を開く、軍学者の何某という人物と、軍学上のことで争論となったというのである。
その場所がどこであったか、争論の理由も詳しい内容も、その噂ではさだかではないが、同席した者が数名いたという。
その争論、何某の旗色が悪い。
論破されそうになった何某が、
「では、それがしと勝負いたせ」
このように言い放った。
「勝負?」
「おう。いずれの軍学が優れているかなど、口ではわからぬ。正雪殿とそれがしが勝負すればよい。勝った方が正しく、負けた方が誤りであったとすれば、わかりやすい話ではないか──」
これはもちろん、勢いである。
この勝負について、どのようなたたかいを何某が想定していたかは、噂ではわからない。
激昂して思わず口にしてしまったことではあるが、多少の戦略くらいはあった。
実際の殺し合いなどは、もちろん考えてはいない。
このように言えば、だれかが、
「まあまあ」
と止めてくれるだろうという考えがあっての発言であり、そこで、この論がおさまればよしという、そのくらいの意図はあった。
勝負をすることになったとしても、その前に、代表者を立てての道場試合とするか、川原に互いの陣を張って、石合戦にするかという、勝負の方法についての話し合いとなるはずであり、その話し合いの最中に難癖をつけて、事をうやむやにしてしまえばよい。
しかし、ここで正雪は、
「承知いたしました」
あっさりとうなずいてしまった。
「では、勝負は、ただいまあなたさまと、この正雪が、この家を出、互いに背を向けあって別れた時をもって始まるということですね」
「な、な……」
なんと申された?
このように、何某は問えなかった。
それほどびっくりしてしまったのである。
驚いている何某に、
「では──」
慇懃に頭を下げ、正雪は立ちあがって、背を向けた。
「ま、待たれよ」
何某も、慌てて立ちあがった。
どういう勝負をするかということも、何もまだ決まってはいないではないか、いったい、どういう勝負をしようというのか。
この漢は何を考えているのか。
「何か──」
「い、いや、今、正雪殿が申された勝負というのは、いったいどのような……」
「軍学上の勝負にござりますれば、いかなる手を使われてもかまいませぬよ、と、そういうことにござります」
「な……」
「この正雪が背を向けた時、いきなり背後から切りつけられても、それも勝負なれば、いっこうにかまいませぬ」
「───」
「別れた後、人を雇って、この正雪の寝込みを襲わせるも
「し、しかし、この世には御政道、法というものがござる。法度をないがしろにしての勝負などというものは……」
「全て含めての軍学にござります。法に触れるのがおそろしければ、触れぬように上手にやればいいのです」
「い、いや、それは──」
と、何某が言いかけたところへ、
「ここに同席された方々が見届け人にござります」
正雪、このように冷めた声で言ってのけ、浅く頭を下げると、そのまま帰ってしまった。
何某、ひと月もたなかった。
二十三日目にして、痩せ細り、書状をもって、正雪に詫を入れた。
件の出来事のあった場所に同席した人間たちにも、書状を出し、
〝我、張孔堂正雪殿に百歩もおよばず〟
あっさりと敗北を認めてしまったのである。
正雪が、師である不伝を毒殺したという噂は、もちろん何某の耳にも届いている。
勝負が始まったその日から、何某、ほとんど食事が喉を通らなくなった。
途中、何度となく、人を間に入れたりして正雪と話し合いの場をもとうとしたのだが、その全てに対して、正雪は、返事をしなかった。
いや、ただ一度のみ、やってきた何某の使者に向かって、
「
そう答えている。
城井鎮房は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である。
九州は
城井鎮房──鎌倉時代からこの地に住む、宇都宮氏の当首である。
天正十五年(一五八七)、この城井鎮房に対して豊臣秀吉は、四国の伊予国への転封を命じたのである。
代って城井谷城に入ったのが、黒田官兵衛、長政の親子であった。
城井鎮房は、これを不服として、秀吉の朱印状を返上し、伊予へは行かずに一揆を起こし、黒田親子に抵抗した。すでに天下は秀吉のものになっており、この時期に秀吉に反抗したということは、よほど肚をくくっていたのであろう。
鎮房、城井谷城を襲い、これを奪還し、籠城して、押しよせてきた黒田長政率いる豊臣軍を撃退してしまった。
これに手を焼いた黒田官兵衛、長政の親子は、策をもちいた。鎮房の十三歳になる娘、鶴姫を人質として差し出すことを条件に、本領安堵することを申し入れたのである。
その約条なって、中津城へやってきた鎮房を、酒宴の席で、家臣もろとも皆殺しにしてしまったのである。
そして、長政は、鶴姫やその侍女たちも、広津の千本松河原で磔にしてしまった。さらに、宇都宮氏の血を引く者たちのことごとくを、この地上から消し去ってしまったのだ。
戦国の世は、騙し合いと裏切りの時代であった。
信長も、秀吉も、家康も、その名人であった。
何某も、そのことはよくわかっている。鎮房がどのような目にあったのかは百も承知のことだ。
〝正雪との和睦ならず〟
と、何某も覚悟したのであろう。
それで、尻尾を巻いて、江戸から逃げたのである。たとえ、和睦できたとしても、泣きを入れたという噂は広まり、どうせ江戸で生きてゆく道はないと考えたのであろう。
三十人ほどいた何某の門人のほとんどは、張孔堂の門人となり、江戸を去った何某は、そのまま行方が知れぬようになってしまった。
この噂を語る者や、耳にした者たちは、
「さすがは張孔堂正雪殿」
「この『勝負』、おそらく正雪殿は何もせず、ただ普段通りに過ごしていたのではないか──」
「はじめから、何某の器量を見切ってのことだったのであろうよ」
などと言って、正雪を
「怖じて逃げた何某も何某だが、正雪も
彦左衛門は、このような人物を評価しなかったのである。
(六)
「土井さま、正直なところ、わたしは由比正雪という人物を信用できません」
大久保彦左衛門は、心にあることをそのまま口にした。
彦左衛門は利勝の顔を見やり、
「いや、好きになれませぬ」
そう言いかえた。
「しかし、大久保さま──」
言いかけた利勝の言葉を、左手を上げて制し、
「わかります。
「はい」
「そこで、土井さまにあっては、どうして、張孔堂正雪を推挙なさろうとするのか、そこのところをうかがわせていただけませぬか。それをお聞きしてから、上さままでその人物の名をあげるかどうかを、決めましょう」
「ありがたし。わたしも、大久保さまが、どうして張孔堂を嫌うのか、それくらいはわかります。巷の噂なら、わたしの耳にも入ってまいります故──」
「なれば、どうして張孔堂を推挙なさるるのか。いずれかで会い、その腕のほどを、その眼で確かめられたことでもおありなのでしょうか」
「いいえ、まだ、張孔堂正雪とは、会うたことはござりませぬ」
「では、何故に?」
「
「おう、この正月に、島原で討ち死にしたあの板倉重昌か──」
「左様にござります」
板倉重昌──島原の原城で勃発した、キリシタンの蜂起の鎮圧に向かい、そこで銃弾で倒れ、死んだ人物である。
板倉は、その時、御書院番頭という役職にあったが、この役、小役であり、西国の諸侯を率いるよう命を受けていたのだが、周囲は大名ばかりで、とても、板倉の言うことを聞くものではない。城攻めの時、諸侯の動きはばらばらで、一揆勢の反撃で幕府側があやうくなった。これを助けるため、板倉が自身の兵を率いて前に出、流れ弾に眉間を撃ち抜かれて死んだのである。
それは、合戦好きの彦左衛門、耳にしている。
「その板倉がどうしたのだ」
「板倉重昌、実は、張孔堂の弟子のひとりにござります」
「ほう……」
「しかも、軍学に通じており、弟子の中では、三本の指に入るほどでござりました」
「で?」
「実は、上さまに板倉を、島原征伐の大役に推挙したのは、このわたしで──」
「なんと!?」
「そのようなわけで、板倉、江戸を発つ前の日に、当方に挨拶に参りました。そのおりに、張孔堂の話を聞かされたのでござります」
「どのような」
「島原にゆくことを正雪に告げた時、即座に、それはやめた方がよろしかろう、そう言われたというのです」
「正雪に?」
「はい」
〝おまえは、たいへんに
「このようなことを言われたと──」
〝それでも、おまえは、ゆくであろうから、これが今生の別れということか……〟
「そのようなことまで……」
「はい」
利勝は、彦左衛門に向かって頭を下げた。
(つづく)
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