第24話 日本一の大作家のゲラを真っ赤にする磯川に、上司や同僚は――
文字数 3,543文字
ランキングを見るたびに、トップ3に入っている喜びよりも二人に負けている悔しさのほうが勝ってしまう。
「この調子でいけば、そうなる日も遠くはないと思います。まだデビュー二作目ですから、上々過ぎるスタートですよ」
「満足するとそこで止まってしまいそうなので、一位を取るまで喜べません」
昔から、そういう考えだった。
営業マン時代の日向は、月刊五百万円の売り上げを達成するために一千万円の目標を立て、一千万円の売り上げを達成するために二千万円の目標を立て、トップセールスの座を勝ち取った。
「日向さんは意思が強いですね」
磯川が、サイン本に間紙(あいし)と呼ばれる半紙を挟みながら言った。
乾燥していないインクが、裏に移らないようにするためだ。
「磯川さんには負けますよ。大和田さんの件、トラブルになりませんか?」
「なるでしょうね」
磯川が拍子抜けするほどあっさり認めた。
「磯川さんがクビになったら困りますよ」
口調こそ冗談めかしていたが、日向の本音だった。
「僕は編集者として当然のことをやったまでです。作家さんが大御所だから、売れるから指摘なんかするな。それでクビにするような会社なら、こっちから願い下げです。もしそうなっても、日向さんは大丈夫ですよ。日向ワールドは読者の心を摑(つか)みましたし、これからも力作を書いてゆけば読者は増え続けますから」
磯川が力強く頷いてみせた。
「そんな言いかた、やめてくださいよ。本当に担当から外れるみたいじゃないですか」
「安心してください。僕も好んで無職になりたいわけではありませんから」
磯川が微笑(ほほえ)んだ。
突然、ドアが開いた。
「日向先生、お疲れ様です。わざわざ、サイン本のためにご足労いただきありがとうございます」
編集長の羽田(はた)が半開きのドアから顔を出し、恭(うやうや)しく言いながら頭を下げた。
「いえいえ、売り上げ促進のためですから当然です」
「わざわざきてやったんだ、みたいな顔をする先生が多い中、日向先生はいつも我々を気遣ってくださるので助かります。あの、少しだけ磯川を借りてもいいですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。じゃあ、磯川君、ちょっときてくれ」
羽田が磯川を呼び、ドアを閉めた。
「噂をすれば、ですね。日向さんは休んでいてください。なるべく早く戻ってきますから。では、戦場に行ってきます」
磯川はおどけた口調で言うと、ミーティングルームをあとにした。
日向はパイプ椅子に腰を下ろしたが、すぐに立ち上がった。
羽田が磯川を呼び出したのは、大和田泰造のゲラを指摘で真っ赤にしたことに違いない。
磯川が谷にたいして言ったのと同じことを口にすれば、本当にクビになるかもしれなかった。
しかし磯川は、クビを恐れて長い物に巻かれるような男ではない。
日向はミーティングルームを出て、文芸第三編集部に向かった。
「そんなこと、本気で言ってるのか!?」
編集部の前の廊下にまで、羽田の大声が聞こえた。
日向が危惧(きぐ)したとおり、大和田の件は大事になっているようだった。
編集者たちの視線はデスクの脇で対峙(たいじ)する羽田と磯川に向いており、日向がフロアに足を踏み入れても気づく者はいなかった。
「お言葉ですが、編集長のほうこそ本気でゲラに赤を入れるなと言ってるんですか?」
磯川が冷静な口調で訊ね返した。
「本気に決まっているだろっ。編集者を何年やってる!? 大和田先生の原稿をこんなに汚すなんて、自殺行為だぞ!」
羽田の顏は紅潮していたが、今日にかぎっては酒が原因ではないようだ。
「汚しているのではなくて、それだけ大和田さんの原稿に指摘すべき箇所が多いということです。逆鱗に触れるのが怖いからといって、誤用や誤字に気づかないふりをして書店に並べるほうが自殺行為だと思いますよ。よく考えてみてください。編集長は部下にたいして、欠陥商品を店頭に並べろと言ってるんですよ! 出版社以外に、そんなこと指示するメーカーはありませんよ」
興奮する羽田と対照的に、磯川は顔色ひとつ変えずに冷静な口調で諫(いさ)めた。
「屁理屈を言うな! 大和田先生は、俺が三年がかりで交渉してようやくウチで書いて貰えることになったんだぞ!? 三年だぞ、三年! それをお前の青臭いこだわりでフイにするつもりか!」
このまま羽田の怒りがヒートアップすれば、取り返しのつかないことになる。
「三年もかかったのであれば、なおさら、大和田さんの名声に傷がつかないように作品を完璧な状態にしましょう。それが編集者としての恩返しです」
磯川の言葉がきれいごとに聞こえないのは、すべての物事にたいして媚(こ)びずに己を貫く姿を見てきたからだ。
そんな磯川だからこそ、日向は作家人生を委ねることにしたのだ。
「そんなものは詭弁(きべん)だ! 百歩譲ってお前の言うことが正しいとしても、一冊刊行すれば三、四億の利益を確実に生み出す大和田先生を怒らせるような恩返しなら必要ない! お前は四の五の言わずに、編集長の俺の言うことを聞けばいいんだよ!」
羽田はかなりいら立っていた。
このままでは、結果は見えていた。
「無理です。たとえ社長であっても、欠陥商品を店頭に並べろというような命令には従えません」
予想通り、磯川が長い物に巻かれることはなかった。
「命令に従うか従わないかはお前の勝手だが、従えないなら辞めて貰うまでだ」
日向の恐れていた言葉が、羽田の口から出てしまった。
「わかりました。編集者としての仕事ができない出版社にいても、仕方ありません。僕のほうから、辞表を出しますよ」
日向の恐れていた言葉が、磯川の口からも出てしまった。
「そこまで言うのなら、望み通り辞表を出して……」
「待ってください!」
日向は羽田の言葉を遮り、二人のもとに駆け寄った。
「磯川さんを解雇するなら、俺は今後『日文社』で書きません!」
無意識に、口走っていた。
自分でも驚きを隠せなかったが、噓偽りない本音だった。
「日向先生、そんなこと言わないでください。これは、編集部の問題……」
「磯川さんが、間違ったことを言ってますか!?」
日向はふたたび羽田を遮り、詰め寄った。
「いや、その……間違ったことは言ってませんが……」
「言ってませんよね? だったら、彼を辞めさせる理由はなんですか? こんなことは言いたくありませんが、どうしても磯川さんを解雇するというのならワイドショーに流します。芸能プロをやっているので、テレビ局のプロデューサーの人脈は豊富ですから。磯川さんを解雇してワイドショーのネタになるか、磯川さんを解雇しないか……どうします?」
しどろもどろになる羽田に、日向は二者択一を突きつけた。
「……わかりました。日向さんがそこまでおっしゃるなら」
羽田が苦々しい顔で言うと、フロアをあとにした。
「なんか、僕のためにすみません」
磯川が申し訳なさそうに言った。
「いつも守ってもらっている恩返しです」
日向は微笑んだ。
磯川の解雇を免れ、日向はほっと胸を撫で下ろした。
「日向さんにたいしても、編集者として当然のことをやっているだけですよ。さあ、サイン本の続きをやりましょう」
なにごともなかったように、磯川が日向を促した。
7
「誠の二作目、調子いいね」
ダイニングキッチンの食卓――真樹が日向の持つグラスにビールを注ぎながら言った。
「うん。でも、まだ上に二人いるからね」
日向は、風間玲と東郷真一を思い浮べていた。
『フィクサー貴族』は発売二ヶ月で十万部を突破していたが、二人の先輩作家には倍の差をつけられていた。
「デビュー二作目で十万部も売れたら、十分でしょう?」
真樹はノートパソコンで日向誠をエゴサーチしていた。
「俺の性格、知ってるよね? 一位以外は最下位だから」
日向は真樹に言うのと同時に、己に言い聞かせた。
真樹は『フィクサー貴族』を読んでいなかった。
――『阿鼻叫喚』みたいな小説は、もう書かないで。
デビュー作を超える過激さと評判の二作目から、真樹は目を逸らしていた。
日向も無理に『フィクサー貴族』を勧めずにいた。
真樹との夫婦関係を、これ以上悪化させたくなかった。
「もう、やめれば? 黒日向作品は嫌なんだろう?」
日向はエゴサーチを続ける真樹に言った。
「読みたくはないけど、評価は気になるからさ」
真樹が肩を竦めた。
(次回につづく)
「この調子でいけば、そうなる日も遠くはないと思います。まだデビュー二作目ですから、上々過ぎるスタートですよ」
「満足するとそこで止まってしまいそうなので、一位を取るまで喜べません」
昔から、そういう考えだった。
営業マン時代の日向は、月刊五百万円の売り上げを達成するために一千万円の目標を立て、一千万円の売り上げを達成するために二千万円の目標を立て、トップセールスの座を勝ち取った。
「日向さんは意思が強いですね」
磯川が、サイン本に間紙(あいし)と呼ばれる半紙を挟みながら言った。
乾燥していないインクが、裏に移らないようにするためだ。
「磯川さんには負けますよ。大和田さんの件、トラブルになりませんか?」
「なるでしょうね」
磯川が拍子抜けするほどあっさり認めた。
「磯川さんがクビになったら困りますよ」
口調こそ冗談めかしていたが、日向の本音だった。
「僕は編集者として当然のことをやったまでです。作家さんが大御所だから、売れるから指摘なんかするな。それでクビにするような会社なら、こっちから願い下げです。もしそうなっても、日向さんは大丈夫ですよ。日向ワールドは読者の心を摑(つか)みましたし、これからも力作を書いてゆけば読者は増え続けますから」
磯川が力強く頷いてみせた。
「そんな言いかた、やめてくださいよ。本当に担当から外れるみたいじゃないですか」
「安心してください。僕も好んで無職になりたいわけではありませんから」
磯川が微笑(ほほえ)んだ。
突然、ドアが開いた。
「日向先生、お疲れ様です。わざわざ、サイン本のためにご足労いただきありがとうございます」
編集長の羽田(はた)が半開きのドアから顔を出し、恭(うやうや)しく言いながら頭を下げた。
「いえいえ、売り上げ促進のためですから当然です」
「わざわざきてやったんだ、みたいな顔をする先生が多い中、日向先生はいつも我々を気遣ってくださるので助かります。あの、少しだけ磯川を借りてもいいですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。じゃあ、磯川君、ちょっときてくれ」
羽田が磯川を呼び、ドアを閉めた。
「噂をすれば、ですね。日向さんは休んでいてください。なるべく早く戻ってきますから。では、戦場に行ってきます」
磯川はおどけた口調で言うと、ミーティングルームをあとにした。
日向はパイプ椅子に腰を下ろしたが、すぐに立ち上がった。
羽田が磯川を呼び出したのは、大和田泰造のゲラを指摘で真っ赤にしたことに違いない。
磯川が谷にたいして言ったのと同じことを口にすれば、本当にクビになるかもしれなかった。
しかし磯川は、クビを恐れて長い物に巻かれるような男ではない。
日向はミーティングルームを出て、文芸第三編集部に向かった。
「そんなこと、本気で言ってるのか!?」
編集部の前の廊下にまで、羽田の大声が聞こえた。
日向が危惧(きぐ)したとおり、大和田の件は大事になっているようだった。
編集者たちの視線はデスクの脇で対峙(たいじ)する羽田と磯川に向いており、日向がフロアに足を踏み入れても気づく者はいなかった。
「お言葉ですが、編集長のほうこそ本気でゲラに赤を入れるなと言ってるんですか?」
磯川が冷静な口調で訊ね返した。
「本気に決まっているだろっ。編集者を何年やってる!? 大和田先生の原稿をこんなに汚すなんて、自殺行為だぞ!」
羽田の顏は紅潮していたが、今日にかぎっては酒が原因ではないようだ。
「汚しているのではなくて、それだけ大和田さんの原稿に指摘すべき箇所が多いということです。逆鱗に触れるのが怖いからといって、誤用や誤字に気づかないふりをして書店に並べるほうが自殺行為だと思いますよ。よく考えてみてください。編集長は部下にたいして、欠陥商品を店頭に並べろと言ってるんですよ! 出版社以外に、そんなこと指示するメーカーはありませんよ」
興奮する羽田と対照的に、磯川は顔色ひとつ変えずに冷静な口調で諫(いさ)めた。
「屁理屈を言うな! 大和田先生は、俺が三年がかりで交渉してようやくウチで書いて貰えることになったんだぞ!? 三年だぞ、三年! それをお前の青臭いこだわりでフイにするつもりか!」
このまま羽田の怒りがヒートアップすれば、取り返しのつかないことになる。
「三年もかかったのであれば、なおさら、大和田さんの名声に傷がつかないように作品を完璧な状態にしましょう。それが編集者としての恩返しです」
磯川の言葉がきれいごとに聞こえないのは、すべての物事にたいして媚(こ)びずに己を貫く姿を見てきたからだ。
そんな磯川だからこそ、日向は作家人生を委ねることにしたのだ。
「そんなものは詭弁(きべん)だ! 百歩譲ってお前の言うことが正しいとしても、一冊刊行すれば三、四億の利益を確実に生み出す大和田先生を怒らせるような恩返しなら必要ない! お前は四の五の言わずに、編集長の俺の言うことを聞けばいいんだよ!」
羽田はかなりいら立っていた。
このままでは、結果は見えていた。
「無理です。たとえ社長であっても、欠陥商品を店頭に並べろというような命令には従えません」
予想通り、磯川が長い物に巻かれることはなかった。
「命令に従うか従わないかはお前の勝手だが、従えないなら辞めて貰うまでだ」
日向の恐れていた言葉が、羽田の口から出てしまった。
「わかりました。編集者としての仕事ができない出版社にいても、仕方ありません。僕のほうから、辞表を出しますよ」
日向の恐れていた言葉が、磯川の口からも出てしまった。
「そこまで言うのなら、望み通り辞表を出して……」
「待ってください!」
日向は羽田の言葉を遮り、二人のもとに駆け寄った。
「磯川さんを解雇するなら、俺は今後『日文社』で書きません!」
無意識に、口走っていた。
自分でも驚きを隠せなかったが、噓偽りない本音だった。
「日向先生、そんなこと言わないでください。これは、編集部の問題……」
「磯川さんが、間違ったことを言ってますか!?」
日向はふたたび羽田を遮り、詰め寄った。
「いや、その……間違ったことは言ってませんが……」
「言ってませんよね? だったら、彼を辞めさせる理由はなんですか? こんなことは言いたくありませんが、どうしても磯川さんを解雇するというのならワイドショーに流します。芸能プロをやっているので、テレビ局のプロデューサーの人脈は豊富ですから。磯川さんを解雇してワイドショーのネタになるか、磯川さんを解雇しないか……どうします?」
しどろもどろになる羽田に、日向は二者択一を突きつけた。
「……わかりました。日向さんがそこまでおっしゃるなら」
羽田が苦々しい顔で言うと、フロアをあとにした。
「なんか、僕のためにすみません」
磯川が申し訳なさそうに言った。
「いつも守ってもらっている恩返しです」
日向は微笑んだ。
磯川の解雇を免れ、日向はほっと胸を撫で下ろした。
「日向さんにたいしても、編集者として当然のことをやっているだけですよ。さあ、サイン本の続きをやりましょう」
なにごともなかったように、磯川が日向を促した。
7
「誠の二作目、調子いいね」
ダイニングキッチンの食卓――真樹が日向の持つグラスにビールを注ぎながら言った。
「うん。でも、まだ上に二人いるからね」
日向は、風間玲と東郷真一を思い浮べていた。
『フィクサー貴族』は発売二ヶ月で十万部を突破していたが、二人の先輩作家には倍の差をつけられていた。
「デビュー二作目で十万部も売れたら、十分でしょう?」
真樹はノートパソコンで日向誠をエゴサーチしていた。
「俺の性格、知ってるよね? 一位以外は最下位だから」
日向は真樹に言うのと同時に、己に言い聞かせた。
真樹は『フィクサー貴族』を読んでいなかった。
――『阿鼻叫喚』みたいな小説は、もう書かないで。
デビュー作を超える過激さと評判の二作目から、真樹は目を逸らしていた。
日向も無理に『フィクサー貴族』を勧めずにいた。
真樹との夫婦関係を、これ以上悪化させたくなかった。
「もう、やめれば? 黒日向作品は嫌なんだろう?」
日向はエゴサーチを続ける真樹に言った。
「読みたくはないけど、評価は気になるからさ」
真樹が肩を竦めた。
(次回につづく)