『見習医ワトソンの追究』大ボリューム試し読み①
文字数 2,827文字

――真相にたどり着くまでのスピード感ある展開に一気読みでした!
――ホームズ的先読みがこんなにもきっちり嵌る展開には感心するばかりでした。
――患者の命を第一に考える院長の矜持が素晴らしい。非常に面白かった。
――続編希望!
と、早くも読者から絶賛の声が届いています!
この度、刊行を記念し、本書の試し読みを大ボリュームで無料公開いたします!
ぜひご一読ください!
プロローグ
早朝から新生姜を収穫し、京阪神への出荷作業を終えたのは午後五時。後始末と明日の準備、そして伝票など書類整理が終わったらすぐ夕食の準備にかかる。七月までのひと月は、ほぼ同じような毎日が続く。メインは「新生姜」で、他に「ほうれん草」を栽培をしている「五十嵐農園」だったが、ここ数年、梅雨時の大雨、大型台風で新生姜の出荷に被害が出ていた。今年はなんとか思い通りの収穫ができるよう、五十嵐菜摘は毎日仏壇に手を合わせている。
夫の敏夫と二人の息子が夕飯を平らげ、いつものように自家製の梅酒を飲み始めると、菜摘は食器を洗って居間の端に置いてあるマッサージチェアに座った。来年の夏がくると還暦を迎える。菜摘は、めっきり体力が衰えたと感じていた。そんなことを大阪にいる娘の夏帆に電話で漏らすと、その週の「母の日」に高価なマッサージチェアが送られてきたのだった。
使い始めて二週間が経ち、確かに首から肩甲骨にかけての痛みが和らぎ、肩全体が軽くなった気がする。
玄関と裏庭に出る戸を開けっぱなしにしておけば、家の裏に流れる紀ノ川の川風が通り抜けて気持ちがいい。
男たちが野球の話題で盛り上がっているのを眺めながら、菜摘はケータイを手に取った。マッサージチェアにはふくらはぎをすっぽりと包んで、圧力で血の流れをとめたり、流したりする機能もついている。フットマッサージのスイッチを入れ、画面に出た娘の番号をプッシュした。
夏帆がすぐに出ないのは毎度のことで、留守番電話に切り替わらない限り、しつこくコールし続ける。無意識に古い柱時計に目をやった。午後九時前だ。毎晩、これくらいにならないと夏帆は自宅にいないのだ。
「ごめん、お母さん。化粧水の研究してたんよ」夏帆はいつもの言い訳をした。
「晩ご飯、ちゃんと食べたの?」菜摘の台詞も毎度同じだ。
それを知っていて、二人は同時に照れ笑いを浮かべる。夏帆は今年で三二歳になる娘だ。一九、二〇でもなければ、距離があるとはいえ、和歌山と大阪、同じ関西に住んでいる。過保護だと夫から言われても仕方ないが、声を聞かないと不安なのだ。
夏帆は三年前に離婚した。原因は夫の暴力だった。以来、拒食症を患い、一時期はガリガリに痩せた。いまは自分が研究開発に関わった美顔化粧品の宣伝モデルをするほど回復し、いっそう綺麗になっているが、憔悴したときの姿が目に焼き付いて離れなかった。
「心配せんといて、お母さんがびっくりするほど大食いになってるんやから」
「ほなええんやけど。まだ仕事いうのはあかんね。働き過ぎや。お父さんなんか、もうできあがってるわ、聞こえへんか?」菜摘はケータイを酒盛りする男たちに向けてかざす。「毎度のことやけど、ほんまうちの男どもは脳天気でええわ」と吹き出す。
母の言葉を聞いた次男の夏夫が、菜摘のケータイに向かって声を張り上げた。「姉貴も大阪みたいなごみごみしたとこ捨てて、こっちに戻ってきたらええのに」
「なあ、気楽なもんやろ?」菜摘が笑いながら、ケータイを耳に戻す。
「うちかて、いまは個人的な研究やから、結構気楽にやってるんよ。お母さんが送ってくれた新生姜を肴に梅酒飲みながら」と笑い声になったが、何度か咳払いをしているのが気になる。
「ちょっと声が変やな。風邪でもひいたんとちがう?」少しの変化も気になってしまう。神経質だと煙たがられるのは分かっているが、つい口に出す。
「ちがう、ちがう。営業トークで声使い過ぎただけ。梅酒で治るわ」そう笑いながら、スマホを遠ざけたようだが、また乾いた咳が聞こえた。
「ほんまに大丈夫? お医者さんに診てもろたほうがいいんやないの?」
「大丈夫やって。生姜が、変なところに入ったんよ。そや今年の梅酒、ずいぶんマイルドになってるね。梅干しもそうやけど、時代の流れ?」
「何も変えてないんやけど」
「そうなんや」
「疲れてるさかい、濃い味のもんが欲しいんやわ。何やったかな、そうそう亜鉛が足らんと味覚がおかしくなるってテレビでいうてた。インスタントもんばかりなんとちがう?」
「もうお母さんの心配性も相当なもんやな。うち、幾つやと思てるん。ほんまに調子が良うないんやったら、ちゃんとお医者さんに行くって」医者のかかり方くらい、分かってるさかい、と憎まれ口を叩いた。
「もう夏帆、あんたもお母さんの性格、よう分かってるやろ。まあ、あんまり根詰めんようにね。いまな、あんたがくれたマッサージチェアに座ってるんやけど、ほんまにええわ、これ。極楽や」と菜摘が肩、背中へのもみほぐしモードに切り替えようとコントローラーを手にしたとき、ケータイを耳から離してしまうほど大きな音がした。電話を床にでも叩きつけたような音だった。
「どうしたん?」慌てて声をかけたが返事はない。
夏帆の大きな叫び声と、お皿が割れたようなけたたましい音がしたと思うと、次は衣擦れの音が聞こえた。
「夏帆!」菜摘が背もたれから体を起こして大声で叫ぶ。
「何……何で、何でこんな……お母さん、助けて」夏帆の声は吐息混じりで苦しそうだった。
「何? 夏帆、夏帆どうしたん、言いなさい」
それを見た敏夫が、「何かあったんか」と立ち上がり、菜摘の側にやってきた。
「急に、急に大きな音がして……あ、あの子が」説明しようにも言葉が出てこない。
「貸してみぃ」敏夫がケータイを奪い取った。
「夏帆、夏帆、何があった? どうしたんや」
そうケータイに向かって叫んでいた敏夫が、急に黙った。
「お父さん、夏帆に何かあったんか」長男の明夫が父親に詰め寄る。夏夫も駆け寄り、マッサージチェアに座る菜摘を三人が囲む格好となった。
「あっ、電話が切れた。あいつや、あいつがまたきやがったんじゃ」敏夫が苦々しく吐き出す。
「八杉が……」明夫が声を震わせた。
「警察に連絡する」
ケータイを持つ敏夫の手が震えているのを見て、菜摘は急に息が入ってこなくなるのを感じた。「お、お父さん、息が、できひん」途切れ途切れの声を振り絞る。
「母さん、お母さん、大丈夫か」という息子たちの声が、耳元で大きく聞こえ、次第に遠のいていく。背骨の両側でマッサージチェアのもみ玉が動いている感覚はあるものの、蛍光灯の光だけを残し、天井の四隅からどんどん暗くなる。
僅かな光の中で、痩せて頰が痩けた娘の顔が一瞬大写しになり、さっと暗闇に消えた。
夏帆──。