「雨を待つ」⑭ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,694文字

 俺は、去年の夏、甲子園に何かを置き忘れたまま、ここまで来てしまったのかもしれない──そんな思いが才藤と会話を交わしてから日に日に強くなっていた。
 しかも、忘れ物をしてしまったことには気がついたのだが、肝心の、何を忘れたのかという中身がさっぱりわからない。それがわかれば、もしかしたら自分の野球人生に一区切りがつけられるかもしれないのに……。
 本格的な夏が近づいてくると、どんどん憂鬱(ゆううつ)になっていった。高校球児のひたむきな全力プレーは、今の俺にとっては猛毒だ。どこまでもひたむきだからこそ、球児たちは、勝利や敗北に直面すると、屈託なく仲間たちと抱きあって笑顔をこぼし、また、人目もはばからず涙を流す。もしかしたら、その真っ直ぐな姿に、俺の「落とし物」のヒントが隠されているのかもしれないとも思うのだが、やはりつい一年前の怪我がどうしても頭をよぎって、心が内側からかきむしられる。球児たちの喜怒哀楽から目をそむけてしまう。
 八月、全国高等学校野球選手権大会──いわゆる夏の甲子園が開幕した。
 夏は暑い。グラウンドは、もっと暑い。そんな当たり前のことに、今さら気づかされる。阪神園芸のユニフォームのポロシャツから出た腕が、じりじりと焼かれていく。
 真夏の太陽にさらされるのは、グラウンドも同じで、すぐに土の表面がからからにかわいてしまう。そのため、降雨がないかぎり、毎試合前には必ず水をまく。
 内野の散水作業は、スプリンクラーを使わない。巨大なホースをうまく駆使して、すべて人の手で水をまいていく。俺はグラウンドを傷めないように、大量の水が通い、うねるホースを両手で支えていた。先輩グラウンドキーパーが、ホースの先端を担い、風や、温度、湿度を読みながら、広大な内野に水をまいていく。
 大量の水しぶきが、風に流されながら降ってくる。夏のにおいがした。容赦のない陽光にあぶられて、すぐに水分は気化していく。濃い土のかおりが、鼻をくすぐる。外野の奥のほうは、熱気で揺らめいて見えた。
 土や芝と向きあう、この仕事自体は好きだ。無心になれる。しかし、グラウンドに球児たちが飛び出し、活気に満ちたかけ声やブラスバンドの応援が鳴り響くと、途端に気持ちが暗くふさぎこむ。
 なかでも、一回戦で登場した東東京代表のエースピッチャーが、ひどく俺の神経にさわった。三年生の横川(よこかわ)という投手だ。
 ヒットを連打されても、そいつはつねに笑顔を絶やさなかった。仲間がエラーして、さらなる出塁や失点を許す。それでも、自然な笑みを浮かべて、チームメートを鼓舞しつづけた。スリーアウトをとると、全力疾走でマウンドを降り、ベンチの前で守備陣を出迎えて、ハイタッチを交わした。どんなに劣勢におちいり、点差が開こうと、その健気とも言える姿勢はかわらなかった。
 正直、俺はイライラしていた。プレースタイルは正反対だが、なぜか自分に似ている気がしたのだ。試合中、グラウンドキーパーは、控え室でモニターを確認しながらその推移を見守っていくのだが、激しい貧乏揺すりがとまらなかった。
 横川はキャッチャーのサインにも、まったく首を横に振らない。せっかく良いコントロールと変化球を持っているのに、悪手と思える球種やコースの要求も拒否せず、全力で投げこむ。結果、打たれる。
 その愚直ともとれるようなひたむきな姿勢が、直視にたえない。お前も、一歩間違ったら、俺みたいになるんやぞ。それでもええのか? そう叫び出したくなってくる。
 お前はホンマにお前自身のために野球をやっているんか? 球場やベンチの空気みたいなものに、手足縛られてるんとちゃうんか? そんな切実な問いかけが過去の自分に跳ね返り、突き刺さってくる。
 観客たちの独特の熱気は、プロの試合以上だった。どんなに打ちこまれても、まったくぶれない高校球児らしい投球に、賞賛の拍手がわきおこる。勝っている相手校のほうがまるで悪役であるかのような空気が、しだいに醸成(じょうせい)されていく。
 しかし、勝ちは勝ち、負けは負けだ。


→⑮に続く

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