血みどろの宗教対立。非暴力の「偉大な魂」が撃ち砕かれた日。

文字数 1,276文字

「われは知る テロリストの かなしき心を」(石川啄木)。テロは民主主義にとっての脅威である。しかし、暗殺が歴史のうねりを加速させた例は数多い。そんな暗殺事件から世界の歴史を俯瞰する。(年齢は事件当時)

暗殺者をも許した非暴力・不服従の「偉大な魂」

マハトマ・ガンジー暗殺事件 1948

胸部と腹部に至近距離から3発もの銃弾を受けたにもかかわらず、その時、マハトマ・ガンジー(78)は自らの額に手を当てたといわれる。


これは「あなたを許す」という意味の動作だという。そして「ヘーラーム(ああ、神よ)」という言葉を繰り返した後、息を引き取った。非暴力・不服従運動の指導者で「インド独立の父」呼ばれたガンジーもまた凶弾に倒れたのだった。


「私は、何と話していいかわかりません。愛する指導者バプー(お父さん)。国家の父は、もはやおられません」


事件後のラジオ放送で、インドの首相ネルーは、ガンジーの死を国民にこのように伝えた。盛大な国葬が営まれた後、ガンジーの遺灰はガンジス川や南アフリカの海に撒かれた


ガンジーを撃ったのは、ナートゥーラーム・ゴードセーというヒンズーナショナリストだった。


1947年、インドはイギリスからの独立を果たす。しかし、その独立は、ガンジーの理想とした形ではなかった

独立にあたり、インド国内の宗教対立、特にヒンズー教徒とイスラム教徒の対立は激しさを増していた。ガンジーは「統一インド」を強く主張し「ヒンズーとイスラムが融和したインド」を説いてきたが、結局インドとパキスタンは分離独立する。


それに伴い、多数の難民が発生し、対立はさらに激化した。各地で血みどろの闘争が起こり、とくにパンジャーブ地方では無数の暴動や虐殺が発生。一説にその死者は100万人を超えるという。カシミール地方の帰属をめぐり、第一次印パ戦争も勃発した。


そんな中で、ガンジーは計18回に及ぶハンガーストライキを行うなどして融和を説き続けた。実際、ガンジーの訴えによって、阻止された暴動もあった。


だが、ゴードセーは裁判で「ヒンズー社会を駄目にしたのは、ガンジーのアヒンサー(非暴力)の教えだと確信している」と語っている。


ゴードセーはインド政府がパキスタンに対し徹底的な軍事行動を行うことを期待し、ヒンズー主導のインドこそが正しいと確信していた。そんなゴードセーから見ると、ガンジーはイスラムに妥協を続け、そのカリスマ性をもって世論を誤った方向に導く、極めて危険な人物であった。


「(ガンジーを殺せば)確実に私の将来はなくなるが、インドの国民はパキスタンによる侵略から救われるのだ」(ゴードセーの供述より)


学生時代はガンジーの崇拝者であったというゴードセーは、裁判でも堂々と自らの信念を語るが、判決は死刑であった。ガンジーの子供たちからは、助命嘆願が出されたものの却下され、ゴードセーは1949年、絞首刑となった。

関連書籍

『ガンディー 獄中からの手紙』ガンディー/著 森本達雄/訳(岩波書店)
『ガンディーに訊け』中島岳志/著(朝日文庫)

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