第5話

文字数 3,365文字

 セーラー服、スクール水着、エンジ色のブルマに白いゴムの上履き。大人になった私は様々なコスプレをする機会に恵まれたが、思いの外、性に合っていたようだ。自分を他者のように感じると気が楽で、今では誰に望まれなくても、コスプレを楽しんだりする。


 膝下まである木綿のシャツワンピースは、ボタンを一番上まできっちりと留め、ポケットにペンを差したエプロンをつければ、いかにも本好きの書店員だ。新しい職場では、手っ取り早く形から入って、気分を盛り上げている。


 先日、ストリップ劇場の受付で「お疲れ様」と声を掛けられた。恐れ多くも、踊り子に間違えられたのだ。確かに金髪の前下がりボブという髪型は、ボーイッシュを売りにした踊り子に見えなくもない。好きでしている髪型だと思ったが、もしや無意識のコスプレなのだろうか。



 かんかん照りの正午前、初めて降りた駅から日陰のない道を進むと、雑居ビルに看板を見つけた。女性客が増えたとはいえ、まだまだ入りにくいストリップ劇場はある。従業員が私を踊り子と間違えたのは、よほど女性が珍しいせいもあるのだろう。


 細い階段を汗だくで上がり、素っ気ないドアを押し開けようとすると、重さによろめく。本当に、ここで合っているのか。中に入ると、狭い空間にみっちりと収まった男性たちが、一斉に私を見た。これはまだ想定内である。だがステージから伸びた花道の幅には、驚きを隠せなかった。ちょっと太めの平均台ではないか。


 両脇に設置された長椅子に腰を下ろせば、街角の占い師に手相を見せる距離で、向こう側の客と顔を合わせることになる。さすがの私も、目のやり場に困ってしまった。後ろで立ち見をしたほうがいいかもしれない。だが立ち上がる間もなく、会場は暗転した。


 その日1回目のステージが始まる。浴衣姿の踊り子による、うちわを使った舞だ。常連客が多いせいか、踊りながら軽口を飛ばし合い、町内の盆踊りみたいな雰囲気である。すると、あるタイミングで2人の客が踊り子に選ばれ、じゃんけんを始めた。勝った男は拳を高く突き上げ、負けた男は床にくずおれる。


 何事か。選ばれし客が花道から上がると、恋人のように抱きついた踊り子からピンクローターを渡された。ウェットティッシュで手を拭いた客が、その場で踊り子を愛撫し始める。


 じゃんけんで勝って、あれほど歓喜した意味が分かった。衣装にさえ触れてはならないはずのストリップで「好きな踊り子とのラブシーンを舞台の上で演じる権利」を勝ち取ったのだ。それを間近で見守るファンは、一体どんな気持ちでいるのか。私にはそれがどのような楽しさなのか、想像ができない。


 確実に分かるのは、これが男女逆ならばショーどころではない、ということだけだ。最悪、血を見ることになるだろう。


 そもそも好きな男性ストリッパーに触るとか触られるとかいう権利を得たとしても、ショーになどされたくはない。ここに男性と女性の決定的な違いを見た気がした。どれだけストリップに通っても、男性にはなれない。


 かつてストリップには、生板ショーと呼ばれる行為があったと聞く。踊り子が指名した観客をステージに上げ、本番行為に及び、それを他の観客がショーとして楽しむのだ。もちろん違法である。今ではもうありえないし、それの是非を部外者の立場で論じる気もない。


 ただ、もしそれが今も続いていたなら、女性客がこれほど増えることはなかったように思う。



 その日の経験は、私の古い記憶に紐付いた。同じベッドの上で友人と男性がセックスを始めてしまい、その横で寝たふりをする、という場面だ。具体的なシチュエーションは省くが、そのとき私は、選ばれない自分というものを冷静に認識した。「選ばれない自分」という活字がはっきり見えたほどである。


 同じものが同じように付いているのに、顔の作りや体型、服装や話し方によって、私は選ばれない。悔しいとか惨めだとかいうより前に、これはすごいことだな、と目が冴えて仕方がなかった。人類平等みんな仲良くなんてよく言える。


 その男性のことが好きだったわけではない。もし恋をしていたとしても、のしかかってきた時点で冷めるだろう。そして、選ばれた友人が断らずに受け入れたことを軽蔑しているわけでもない。私の興味は「選ばれない」ということ、ただ一点のみに集中していた。


 男性が女性を選び、女性が受け入れる。一昔前の日本では、その構図がもっと強固だったはずだ。生板ショーはそれが逆だからこそ、ファンタジーなのかもしれなかった。


 しかし私は、人間が人間を選ぶという行為に対する感情の落としどころを、まだ見つけられていない。選ばれたり選ばれなかったりすることで、あっけなく見失ってしまうからだ。



 猛暑が続く中、今度は昼間から川崎ロック座へ向かった。踊り子の出番は1日に4回ずつあるが、今日の香山蘭は全て違う演目を踊るという。そのうち3つが連作だと聞けば、観ないわけにはいかない。連作の演目は「反戦歌」で、その日は終戦記念日だった。


 ひとりの女性が、愛する人を戦地へ見送り、そのまま戻らないことを嘆き、寂しさで酒に溺れてしまう。荒んだ心で体を売ることもあった。戦争が終わったところで、もう生きる意味を見出せない。そんな時ストリップという仕事を知り、ステージで踊る人生を見つける。そしてようやく、彼女にも本当の終戦が訪れるのだ。


 その物語を、3回の舞台で完結させる。時には香山蘭自らが兵隊になった男性を演じ、戦地で綴った手紙は、次の回で香山蘭演じる恋人が受け取る。凝った衣装は下着までもが時代を感じさせるもので、その大きなパンツを自ら下げて、もう会えない恋人を思い自慰するシーンもあった。


 そしてもっとも彼女の凄味を感じたのは、踊り子となった女性が、煌びやかな衣装を身に纏い、ストリップしていることを、ストリップで演じたときだ。現実としては、踊り子がいつものように舞台で踊っているだけである。しかしそれは、ここではないどこかで別の踊り子が踊っているのを、川崎ロック座によみがえらせるような踊りだった。


 彼女は何故、「反戦歌」を踊ったのか。



 あの小さな劇場では、客とのベッドシーンを終えた踊り子が、観客ひとりひとりにおっぱいを触らせて歩いた。私の前は素通りするだろうと思ったが、同じように笑って胸を開く。恥ずかしいと断る私を、踊り子は羽織った浴衣ですっぽりと包み隠し、耳打ちした。


「お金を払って入ったらみんなお客だ。男も女も関係ない。嫌じゃなければ揉んでみて」私は差し出されたおっぱいを気が済むまで揉み、不思議な幸福感に包まれたのだった。エロい気持ちにはならない自分の性が、それでもよろこびを感じている。


 ストリップで観客が感じる「エロい」とは「楽しい」に限りなく近く、相手にそれを感じてもらえれば「うれしい」という、踊り子のシンプルな気持ちで成り立っているのかもしれない。表現であり仕事でもあるが、そこには必ず、楽しんでもらいたいという気持ちが感じられた。

 

 彼女は何故、おっぱいを触らせたのか。



 私がひとりでストリップに通い、楽しく過ごしていることを人づてに聞いた師匠は、とてもうれしそうだった。自分が楽しく感じている、というどうでもいいことを、人に伝えるという発想が私にはなかったので、へぇそうなのか、と思った。


 師匠と観ると、驚くほど大きな音で手を叩くので、最初は少し恥ずかしかった。激しいフラメンコのように、パァーンパァーンと打ち鳴らすのだ。ノリノリになれば両手を振り挙げ、好きな曲なら立ち上がって踊り、相田樹音さんの舞台で号泣し、ポラを撮りに行っては、見せてくれてありがとう、と踊り子に感謝を伝える。それがどれだけ、たったひとりで裸になる踊り子の気持ちを支えるのかを、今の私なら想像ができる。だが、知ったところで同じようにはできないのだった。


 師匠は何故、私が楽しいとうれしいのか。



 大人になった私がブルマを穿いたのは望まれたからであるが、付き合いや打算の奥底には、私の体にできることがあってよかった、というシンプルなうれしさが確かにあった。この体には価値を感じられず、愛着も湧かない。私の精神はいつも、そのことを後ろめたく思っていたから。


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