『檸檬先生』珠川こおり 試し読み

文字数 5,040文字






 初めて彼女に会ったのは私が小学校三年生の時だった。

 私立の学校に通っていた当時の私は何もできない阿呆だった。私は居場所すら失っていた。奇怪なモノとしてクラスメイトから撥ね除けられていた。

 正確にいえば話しかけてくる者はいる。しかし大抵浴びせかけられるのは罵倒の言葉だ。

「やあい、バイタの息子!」

「バイタ」

「汚ねえぞ。触るとキンがうつるぞ」

 坊主頭のクラスメイトがぐるぐると周りを回ってどついてくる。青、赤、群青、ぶわりと色が顔を隠す。触ってきた青がその右手を隣の群青になすりつけた。

「ぎゃああ! キン! バイタキン!」

 私も彼らもきっと意味はわかっていない。けれども母を侮辱されているのは肌で感じた。母がいつも肩身狭そうに学校にやってくるのを見ている。なぜ自分がこんな学費の高い私立校に通っているのかはわからない。母がなけなしの金で良い教育環境に置きたかったのだというのは今ならわかる。周りの区立小学校はどこも風紀が悪かった。しかし私立のこの学校とて代わり映えはしないものである気もする。

 私はただ異質の言葉を投げつけてくるクラスメイトを陰鬱な瞳で見るばかりだった。

 青い子が口を開く。

「黙ってら。お馬鹿なこいつに言葉は通じねえ」

「なんたって〝色ボケ〟やろーだもんな」

 赤も続けて嘲る。色ボケやろーという蔑称は、私には強く刺として刺さるものだ。その言葉は一種の線引きだった。奇行ばかりの私は線の外側にいる。

 唇をひき結んで黙り込む。黙って下を向いていれば、いつかこいつらは飽きてどこかへ行く。

 青、赤、群青が立ち去り、そこでやっと床に転がっていたランドセルを取り上げて背に負う。宿題の溜まったランドセルはずっしりと重い。肩に食い込む。私の黒のランドセルは、入学したての頃の、あのカブトムシのような純美なてかりは無くなってしまっていた。

 放課後、小学部の児童たちは大方小さな校庭に集まって遊ぶ。スクールバスを待つ子供は大抵そうだった。私は家が近所だったからそうする必要はなかったが、すぐに帰るのも気が引けた。

 人気のない廊下を歩いて三階まで上がり音楽室の扉を開く。完全防音の扉は八歳の私にはとても重い。赤塗りのドアをぎぎぎ、と押し開け少し出来た隙間に体を滑り込ませる。

 鍵は開いているが電気は点いていない。私は知っていた。音楽教師はいつもこの時間タバコを吸うために外に出ている。それから彼女は随分帰ってこないので音楽室で好き勝手できるのだ。

 黒く輝くグランドピアノの、重厚な白黒鍵盤。少し黄ばんだノスタルジックなピアノに丸く小さな手を添える。

 レ、レ♯、ミ、ソ、ソ♭、ソ♯、オクターブ上がってソ♯、ラ、下がってラ、基準のド♯、ド、また上がってレ♭。

 きっと誰もが嫌う音階。しかし私にはいたく美しいものだった。父が教えてくれた十二色相環、それが音にはまってぴたりと瞼の裏に焼き付けられる。黄、黄緑、緑、青緑、緑みの青、青、青紫、紫、赤紫、赤、赤橙、黄橙。音階が滑らかなグラデーションを描く。十二色相環モール。私はそう呼んでいた。色相環を見るとこの音が思い浮かぶ。この音を弾けば色相環が思い浮かぶ。初めて色の並びを見たときは気持ちが悪くて仕方がなかったが、すぐにこの音階が大好きになった。他の絵画や音楽は、見たり聴いたり、それだけで脳の中がサイケみたいになって、モワレみたいになって、腹の底から何か湧き出て、喉奥が酸っぱくなって……。

 教師に訴えたところで眉を顰められるだけに終わっていた。クラスの誰も理解してくれない。私だけがおかしい。

 しかし父だけはそんな私に対してやけに嬉しそうであった。

「大人になったらまた色々変わるさ。お前は俺に似たんだよ。芸術家に向いてるってことだぞ。そうそう、そーゆーやつはまあたまにいるんだけどさ、お前は特別それが強くて多いってこったな。俺にはねーからなあ……」

 父の言うことは理解できなかった。これっぽっちも。みんな自分たちと違うやつは排除したがる。それで私は除け者にされるのだ。

 学校から五分程度の帰り道をとぼとぼと歩く。静かで落ち着く住宅街の中、道端の雑草を眺めながら歩く。黄色いたんぽぽが根を張ったアスファルトの道は晴天続きの影響で黒黒とひび割れている。

 しかしたった五分の道程などあっという間に終わってしまうのだ。私は悲しくも鍵を使って家に入った。

 玄関からすぐのリビングで、母は黄ばんだアイロン台で、何も言わずアイロンをかけ続ける。形式的にただいまとだけ言って私は走るようにリビングを去った。

 アイロンの匂いは家中に充満していた。段の高い木の階段を四つん這いで駆け上る。上がってすぐのところにある父の部屋が、私の勉強場所だった。父の部屋にはちっぽけな机と椅子しか置いていない。前まであった少し古びたイーゼルやベニヤのパネルは母が早々に売り飛ばしてしまった。一度ふらりと帰宅した父はこのアトリエから作業道具も、値打ちのないつまらない絵すらも消え去っていることに驚いて、母に「俺のアトリエ、どうなってんだこりゃ」と問うていた。母は「売り飛ばしました。誰のせいでこんなことになったと思ってるの」と素っ気ない。優しい母の刺のある言葉に、柱の陰に隠れて聞いていた私は震えた。思えばその時くらいから母は温顔を無くしていったが、それでも父は真っ黒に日焼けした顔でにやついていた。

「そかそか、俺の絵、売れたのか」

 母は閉口した。

 ママ、フリマアプリで安く売ってたけどな、と子供心に思ったが、声を出せばばれてしまうと黙って成り行きを見ていた。

 母は父の手首を引っ摑んで玄関の外に放り出した。こんなときばかりは瘦せっぽちの母でも馬鹿力を発揮する。父は不思議そうに目を丸くするのみだ。

「もう帰ってくんな! 世界中どこにでも行けばいい!」

 ガン!

 閉められた築四十年のドアが壊れないか私は心配した。父にもう会えないのかと思うとなんだか寂しかったが、鈍感なのかはたまた打たれ強いのか、父はそれからも年に二、三度くらいのペースでふらりと家に帰ってきた。その度母が追い出すのだが家に入ること自体は許している。私にはよくわからなかった。

 父のアトリエにランドセルを置く。アトリエは絵の具と粘土の香りが染み付いている。帰ってくるたび私を必ず一度は抱きしめてくれる父の香りがした。父にいだかれる錯覚を覚えながらも、長くいれば嗅覚は麻痺してだんだんと匂いがしなくなる。私はランドセルからノートと教科書を取り出した。明日は算数のテストだった。去年習った九九の復習。足し算も引き算もかけ算も、全部苦手だ。苦手だから全くできない、では済ませられなくて、どうしようもないまま答えだけは暗記している、けれど。

 一の段。一かける一は白と白だから白。だから一。一かける二は白と赤でピンク。ピンクだから九。一かける三は白と黄色で……白と黄色は掛け合わせると何色になるんだろう。わからないものは多かった。どの色と掛け合わせればその色になるのか、幼い私には難しかったのだ。

 数字を見た瞬間にそれが脳味噌の中で色として焼き付いて、色同士を混ぜ合わせて出来た色が答え。そうなると今度はかけ算も足し算も同じに見えた。何がなんだかわからない。

 答え合わせをしても結局はほとんど不正解。合うわけがないのだが、それがわからない。

 首を傾げ傾げ、しかし一人で解くしかないのだ。兄弟などいないから。

 答えは知っている。知っていても、色が滲む。滲み出す。汚い配色にはうずうずしてしまうのが現実。赤色でバツを描くのは気が引けてしまった。横に小さく当たり前の答えだけを記しておいた。

 アトリエの匂いは薄れていく。アイロンの匂いも、しない。密閉された空間で静かに息をする。雨戸が閉まった室内には陽の光は差し込まない。しかし薄い壁の向こうから聞こえる五時の鐘の声で時を感じた。階下からがらがらと音がする。一つ欠伸をして漸く鉛筆を置いた。どうも、自分は計算に向いていない。あっという間に色が混ざり合い、答えの出ない迷宮に迷い込む。暗記した。脳は拒絶する。

 アトリエにノートを開いたまま廊下に出る。階段を慎重に下りる。きし、きし、と階段は少しばかり歔欷の声を上げた。金属の錆びた手すりをつかんで最後の一段を下りる。良い匂いがした。この匂いは多分、カレーだ。昨日見た時、冷蔵庫にはカレールーしか入っていなかったから、きっと明日の朝は何もない。

「ママ……?」

「……席について。今日はカレーだよ」

 母は殊更猫撫で声で言う。私は具のないしゃびしゃびのカレーを少しずつ食べた。

「ママ」

「ママ、かけ算九九って難しいね」

「もう、覚えたけどね」

「わかんないんだ」

「だからさ、今度さ、……」

 会話にはならず、私の声は虚空に沈む。

 先行きは真っ暗闇だ。



「わ、来たぞ」

「バイタの息子が来たぞ」

 クラスメイトが囁き合う。私はただ俯いて自分の席まで歩いた。名前もわからないクラスメイトたちが騒がしく、しかし密々と私を見て何か言い合う。

 ぐうぐうひっきりなしに鳴る腹を押さえつけて私は冷水機の水をがぶりと飲みこんだ。喉を滑り落ち味のしない液体が腹の底に溜まる。胃がきゅうときしんだ。ついでに胸のあたりもぐっとなって喉が酸っぱくなる。締め付けられるような空腹だった。

 算数のテストは結局形式的に答えを連ねた。暗記した配色カードのようなそれは、見ていて心地の良いものではない。

「はい、解答をやめてください。隣の席の子と交換して丸つけしましょう」

 隣の緑は親指と人差し指でつまみ上げるようにして私の解答用紙を受け取った。私も彼の解答を手に取る。配られた答えと照らし合わせて色のぐちゃぐちゃなその数字に丸をつけていった。何度見たって汚濁されたような並びをしているくせに、隣の席の子の解答は答えとほとんど同じ色を描いていた。

「色ボケやろー、満点だ!」

「はああ? 色ボケなのにぃ?」

「カンニングしたんだろー!」

 緑が青や赤とつるんで私の解答用紙を振り回す。

「やめてよ」

 私が必死に手を伸ばしても、クラス一番ののっぽの手に回ってしまっては届きそうにもなかった。

「みんなやめなさい。テストの点は言いふらしちゃだめでしょ」

 そう担任は言うがそうであるならば交換して丸つけをさせないで欲しかった。若い女教師を涙目でひと睨みする。教師は素知らぬ顔で、目を合わせることはしない。眉を下げたふりをして、口元は笑いながらなんとなく子供たちを叱る。放課後に呼び出されるのはいつだって私の方だった。脳裏にぼんやりと赤い色が浮かぶ。


「あなた、何度言ったらわかるの? 毎日勉強しなさいって言ってるでしょう。カンニングなんてして。私の目をごまかせると思ってるの」

 教室の真ん中に立たされて、私はただ床のタイルを見つめた。正面に立つ教師は腹のあたりしか見えない。教師は黒だった。少し肉のついた太い指で私のテストを持ち上げ、鼻で笑う。

「あなたが宿題も答えを写しているのなんてばればれなんですからね」

 勝ち誇ったような笑みで言うものだから、私はため息をつかざるを得なかった。途端に教師はさっと顔を赤くする。気にせずただ下を向いた。磨かれていないタイルは鈍い光だけを反射している。

 それだけで担任の雑さは如実だった。私は宿題をきちんと解いている。思うままに解いている。テストの時は、覚えたものを書いているだけ。カンニングはしていない。していたら隣の子と答えはまんま一緒になるはずだ。この年の子供に、答えを一部だけ写すという狡猾さはありえない。

 それでも担任は頭に血を上らせたまま鼻息荒くまくし立てるばかりだ。うんざりするのもあきあきした。

 陰鬱な瞳で、全てを聞き流すことにした。毎度毎度同じことばかり話して、彼女は結果を責めることしかせず対策に論を講じない。

 はあ。

 そう言えばまた怒鳴られた。黒い。黒黒。世界はモノクロだ。黒ばかり。何もかも塗りつぶす。染め抜いた漆黒。

 早く音楽室に行きたかった。あの黄ばんだ、少しの黒の合間に挟まる白、弾けばそのキャンバスに美妙な色を描き出す十二色の音。汚い世界で唯一輝く、掃き溜めの虹。流れる水の神代も聞かぬ川の水面のような。

「まあ、今日はこんなところにしといてあげるけど」

「…………」

 その音だけを耳に聞き取って私はついに走り出した。





続きは『檸檬先生』で!

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