はじめての春①

文字数 1,337文字

 俺は高校卒業後、十八歳で阪神園芸(はんしんえんげい)株式会社に入社した。
 阪神園芸は、阪神タイガースの本拠地である、甲子園球場のグラウンド整備業務を()()っている。もちろん、甲子園以外にも様々なスポーツ施設の管理・整備を行っており、その社名のとおり、園芸や造園、緑地管理の部署も存在する。
 入社前からの希望がかない、四月から晴れて甲子園のグラウンドキーパーに配属されたわけだが……、俺はある一つの秘密をひた隠しにしていた。
 子どものころから、大の巨人(きょじん)ファンだった。
 阪神甲子園球場では、プロ野球・NPBの試合が年間をとおして行われる。阪神タイガース対読売(よみうり)ジャイアンツの試合も多く開催される。
 けれど、阪神巨人の伝統の一戦がすぐ間近で行われても、俺は高揚(こうよう)する気持ちを必死に心の奥底にしまいこんでいた。巨人が勝っても、にやつきそうになる顔を必死に無表情に保った。
 そんな俺が手痛い「洗礼」を受けたのは、忘れもしない、入社ひと月後の五月のことだった。
 その日行われた巨人戦は、ゴールデンウィークまっただなかのこどもの日ということもあり、多くの家族連れでにぎわっていた。
 デーゲームだ。(やわ)らかい陽光が、春が深まっていくにつれて、しだいに力強くなってきた。甲子園をうめつくすタイガースのチームカラーの黄色が、よりいっそう明度を増して、目に鮮やかに、白っぽく映る。かすかに潮のにおいの感じられる風が、ゆるやかに吹き抜けた。
 ちなみに、この日はスコアボードに表示される選手の名前が、すべて漢字からひらがなの表記にかわる。外国人選手もひらがなになるので──うぃるそん、みたいな感じになり、かなりほっこりする。
 急な降雨がないかぎり、グラウンドキーパーは試合中、ほとんどが待機となる。三回、五回、七回裏終了時点のインターバルで、グラウンド整備に出る。なかでも五回終わりは、いちばん長く整備の時間をとる。
 窓のない控え室では、常時、テレビモニターで試合経過を確認する。俺はペットボトルのお茶を飲みながら、巨人の攻撃を見つめていた。
 最初のうちは水を飲むのも、トイレに立つのも、先輩社員の許可をとらなければいけないものだと思いこんでいた。バイトも経験せず、高校卒業後すぐに社会人になったものだから、待機中にどう振る舞っていいのかさっぱりわからなかったのだ。「あのな、雨宮。ここは軍隊やないんやから、いちいち許可とらんでええ」と度々言われ、徐々に控え室の雰囲気にも慣れてきた矢先だった。
 もちろん、待機中であっても気は抜けない。怪我人(けがにん)が出た場合、すみやかに担架(たんか)を出すのは阪神園芸の役目だったし、それ以外にも天気の急変はないか、グラウンドの荒れによるイレギュラーが出ないかなど、あくまでグラウンドキーパーとしての視点で試合の推移を見守っていく。
 しかし、ようやく先輩に確認をとらずにお茶が飲めるようになったことで、心のネジが完全に(ゆる)んでいた。自動車の運転も、初心者マークがとれたころが危険だという。要するに、俺は大きく油断していたのだ。


→はじめての春②に続く

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み