寝返っても寝返っても皆殺し。裏切って「泣いた」「笑った」四将。

文字数 2,904文字

異能の戦国武将

野蛮、強欲、残虐……。末法末世の戦国を、己の力の限りを尽くして生きた武将たち。その野太い雄姿を史実・通説織り交ぜて活写する、戦国徒然連載です。
寝返りはタイミング次第⁉ 一家全滅となった「古今未曽有の不忠者」。

小山田信茂(1539~1582)


生き残るためには、裏切りも仕方がない時代。ならば、いっそ鮮やかに裏切って、できることなら見返りだって欲しかったろう


しかし、この小山田信茂のギリギリでの裏切りは、最悪の結果となった。


信茂は武田信玄、勝頼の2代に仕えた武田家の実力者で武田二十四将の一人に数えられる。北条氏照の軍勢を破るなど、軍功も多かった。しかし、武田家は勝頼の代になり、長篠の戦いに大敗し、衰退。


織田信長の甲斐(山梨県)侵攻を受け、信茂は勝頼に新府城を捨て、自分の居城の岩殿山城に移るように進言。自らはいち早く岩殿山城に戻った。しかし、信茂は勝頼を裏切り、勝頼の一行が自らの領内に入る道を封鎖してしまう。笹子峠で勝頼の一行を銃撃で出迎え、追い返してしまったとも言われる。


結局、行き場を失った勝頼は天目山で自害に追い込まれた。これにより、450年の歴史を持つ名門・甲斐武田氏は滅亡する。


一方、こうやって降伏した信茂だったが、信長は、「小山田こそ、古今未曽有の不忠者」とこれを許さず、信茂は甲斐善光寺で切腹。老母、妻、8歳の息子、3歳の娘まで処刑された。


そもそも、武田家は織田家に比べると、‟中央主権化”が進んでおらず、有力国人衆(※1)の集合体に近いものであったようだ。それゆえ、武田家が衰退に向かうと寝返りが続出した。


例えば、同じく武田家の重鎮だった穴山信君もいち早く信長に寝返り、こちらは所領を安堵されている。

戦国メモ

土壇場での寝返りは裏目に出やすいようだ。早め早めの裏切りが吉?


自分だけ脱走、一族郎党は皆殺し。晩年はわび茶を気取るが、なかなかの俗物。

荒木村重(1535~1586)


もともと、摂津(大阪府・兵庫県の一部)池田家の家臣だったが、これを乗っ取り、後に織田信長に臣従。信長に非常に気に入られ、石山本願寺攻めでも活躍していた。


しかし、そんな村重が突如、有岡城(兵庫県伊丹市)で信長に背いたのだ。その理由には諸説あるが、本願寺(※2)に通じているという噂が立ち、信長に疑われたと思ったことが一因という。


慌てた信長は翻意を促したが、村重は有岡城に篭城。しかし、共に寝返った重臣・高山右近らは降伏し、戦況は絶望的になる。すると、村重は一族郎党を見捨て、単独で城を脱出、尼崎城へ逃げ込んでしまうのだ。


哀れだったのは落城した有岡城に残された者たち。信長は彼らに命じて、村重に降伏するよう説得させるが、村重はこれを拒否。結局、一族郎党36人、ならびに女房衆122人は斬首され、領民までも大量に虐殺された


ちなみに、村重の謀反は本能寺の変の4年前。明智光秀の娘は、村重の嫡子・村安に嫁いでいた。


その後、村重は毛利家に亡命したが、本能寺の変後、大阪・堺に戻る。千利休らと親交を深め、茶人として名をあげ、豊臣秀吉に近侍した。


しかし、謀反の際に村重を見捨てて信長に降伏した高山右近らについて讒言し、秀吉の勘気を蒙る。さらには裏で秀吉の悪口を言っていることが北政所にバレて、立場が危なくなったため、出家。「道薫」と名乗った。

戦国メモ

「利休七哲」の一人に挙げられる茶の名人。なるほど、この人の点てたお茶、味わい深そうです。
鮮やかな裏切りでオーディエンスを魅了。裏切り者の代名詞。

小早川秀秋(1582~1602)

天下分け目、関ヶ原の戦いが始まったのは1600年の9月15日午前8時頃。多くの内応者を抱えていた西軍だが、大谷吉継らの奮戦によって、戦線は維持されていた。


「業を煮やした東軍の大将・徳川家康は、松尾山に陣取って物見を決め込んでいた小早川秀秋軍に鉄砲を撃ち込んだ。これに慌てた秀秋は東軍に付くことを決め、西軍の側背を守る大谷吉継の陣に突っ込んだ」


この有名な「問い鉄砲」のエピソードは、俗説のようだ。そもそも、秀秋は開戦当初から東軍として戦闘に参加していたとも言われている。


いずれにしろ、「西軍と見なされていた」秀秋軍が東軍についたことが、東軍の勝利を決定づけた。


秀秋は、秀吉の妻・ねねの兄の子。小早川隆景の養子となって隆景の没後、筑前・筑後の遺領を受け継ぐ。慶長の役(朝鮮出兵)では奮戦するが、軽挙したとして帰国を命じられた上、減封されそうになる。


結局、家康がとりなして許されるのだが、一説に、この帰国は、後の西軍の大将・石田三成の讒言によるもので、これゆえ、秀秋は三成を恨んでいたという。


そして、関ヶ原に至るわけだが、その功を認められ、備前・美作(岡山県)50万石を与えられる。


しかし、秀秋は酒色に溺れ諫言した老臣を手打ちにするなど政道は乱れる。気位が高く、激しやすい性格だったという。そして、関ヶ原からわずか2年、秀秋は21歳で急死。過度の飲酒が原因だったようだ。子はおらず、小早川家は徳川政権初の無嗣改易(※3)となった。

戦国メモ

関ヶ原の戦い当時は19歳。若いのに、ベターな決断をしたと思います。
「本能寺の変」が生んだ「ミスター日和見」の苦悩。

筒井順慶(1549~1584

筒井順慶は大和の戦国大名。


順慶は、大和の地を舞台に老雄・松永久秀と死闘を繰り広げる。その後、順慶は明智光秀の紹介で織田信長の傘下に入り、各地を転戦。久秀が信長に背いた際は、先鋒としてこれを攻めた。いわば自滅した久秀にかわり、順慶は大和を平定する。


しかし、1582年、本能寺の変が起こり、順慶の苦悩の日々が始まる。先述のように、光秀は順慶が信長の傘下に入る際の仲介者であり、縁戚関係もあった。親しい友人でもあったという。


当然、光秀は順慶に自分への加担を促す。順慶は、一旦少数の援兵を出すが、すぐに呼び戻すなど、郡山城で悩み続けた。


豊臣秀吉と光秀がぶつかった山崎の戦いの様子を洞ヶ峠で窺っていたという、いわゆる「洞ヶ峠の日和見」の逸話は虚構だが、順慶が結果として日和見をしたのは間違いない。


最後は秀吉に帰参したが、その遅れを秀吉に叱責されている。その後は、大阪築城や、小牧・長久手の戦いに協力したが、36歳の若さで病死した。


筒井家はその後、伊賀上野(三重県)に転封されたが、跡を継いだ養子の定次の代に改易となっている。

戦国メモ

本当は光秀に味方したかったはず。「洞ヶ峠を決め込む」のもリスクが高い時代でした。

※1国人衆(こくじんしゅう)……南北朝時代から室町時代にかけて諸国の開発を推進した武士層のこと。国人領主。

※2本願寺(ほんがんじ)……親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院。戦国時代には日本有数の大教団となり、一個の社会的、軍事的勢力だった。

※3無嗣改易(むしかいえき)……跡継ぎがなく領地を没収されること。

関連書籍

『筒井順慶』筒井康隆/著(新潮文庫)

関連書籍

『わが名は秀秋』矢野隆/著(講談社文庫)
関連書籍

『傀儡に非ず』上田秀人/著(徳間文庫)

『武田勝頼』新田次郎/著(講談社文庫)
『反逆』遠藤周作/著(講談社文庫)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色