『師弟』文庫版限定インタビュー冒頭、特別公開

文字数 3,226文字

2020年2月に亡くなられた、名監督・野村克也氏。

南海ホークスで戦後初の三冠王を獲得するなど、選手として輝かしい実績を残したのち、

1990年代には監督として、ヤクルトスワローズの黄金期を築きました。


その名将が「最高の教え子」と認めたのは、元五輪日本代表主将の名手・宮本慎也氏。

強い信頼で結ばれた二人が野球・仕事・人生について語る、共著『師弟』の文庫化を記念し、

文庫版限定で収録された、特別インタビューの冒頭を公開いたします。


宮本氏が語る、師への思いとは――。

文庫版 特別収録インタビュー   宮本慎也


構成 ノンフィクションライター 中村計

(2020年3月5日、於:講談社)

──野村監督が2020年2月11日、お亡くなりになりました。最後にお会いしたのはいつだったのでしょうか。

宮本 前年の11月の終わりぐらいだったと思います。その頃は、車いすに乗っていましたね。冗談っぽく「こんなんやから、もうじきや」っておっしゃったので、僕も冗談っぽく受け流したのですが……。


──亡くなったことは、どのように知ったのですか。

宮本 朝8時くらいに知り合いの記者から電話があったんです。取材でヤクルトのキャンプ地(沖縄県浦添市)へ車で向かっているところでした。その段階では、野村監督が亡くなったらしい、ということだったのですが、8時半か9時くらいにまた電話があって、間違いないとのことでした。


──その瞬間は

宮本 1月に会っておきたかったな……という。


──そうなんですよね。じつは、この本の巻末は、本来、野村監督と宮本さんの対談で締めくくられるはずでした。それで1月末、宮本さんがキャンプ取材に行かれる前に対談が行われる予定だったのですが、事情があって流れてしまい、三月に改めて日程を組み直しましょうということになっていたんですよね。野村さんのお顔はご覧になったのですか。

宮本 次の日、東京のご自宅にうかがいました。亡くなられた日はヤクルトキャンプの取材初日だったのですが、テレビ局やスポーツ新聞の方には「1日つぶれちゃいますけど、後日、ちゃんとカバーしますので」とお願いして、翌朝10時ぐらいの飛行機に乗りました。教え子はほとんど来ていましたね。広澤(克実)さん、飯田(哲也)さん、新井(潔)さん、真中(満)、石井(一久)……球団関係者の方々もだいたい来ていました。古田(敦也)さんは亡くなった日の夜に駆け付けたと聞きました。


──苦しまれずに亡くなったのですよね。

宮本 お風呂場の中で発見されたのですが、水は一滴も飲んでなかったそうです。溺れたとかではないので、苦しまずに旅立たれたと思います。


──どんな表情でしたか。

宮本 優しい顔をしていましたね。ただ、顔を見た瞬間、堪え切れず、感情が溢れ出てしまいました。本当に死んじゃったんだな、と。ふとんの上に寝かされていたのですが、(息子の)克則がふとんをめくってくれて「ヤクルトのユニフォームを着せました」って。


──白地に赤いストライプが入ったタイプですか。

宮本 そうですね。そんとき、ずっと右腕に触れていました。手をそえるようにして。冷たかったですね。本来は手を握るものなのかもしれませんが、なんか、それはできなくて。理由はわからないんですけど。ずっと監督の右側にいました。どれくらいいたのかな……。でも、あんまり長くいても迷惑やなって、ふと我に返って。そんな考えにならんかったら、ずっといたかもしれませんね。


──享年84歳ですから、大往生といえば大往生です。

宮本 はい。ただ、久々に気持ちがドンと落ちましたね。しばらくは、ふとんに入ってもつい考えちゃって。野村監督の死をなかなか消化できませんでした。


──こみ上げてきたのは、お顔を見たときだけでしたか。

宮本 野村監督のご自宅を去ろうとしたとき、克則と奥さんが「最後まで宮本さんの心配をしていましたよ」って。「なんで、あいつが辞めるんや」って克則に言ってたみたいで。そんときも、もうダメでしたね……。


──2019年オフ、2年間務めたヤクルトのヘッドコーチを自らお辞めになりました。そのときは報告されたのですか。

宮本 電話でしたけど。やっぱり「なんでおまえが辞めるんや」と言われましたね。1年目に2位になって、2年目に最下位ですから。1年目ならまだしも、2年目の最下位は許されない。責任を取らないわけにはいきませんでした。ヘッドコーチという立場は、そういうものだと思っていたので。


──2年目は許されないというのは?

宮本 チームが成長してないということですから。単純にそれだけです。

──ヘッドコーチの経験を経て、改めて「指導者とは」ということに思いを巡らせたかとも思うのですが。

宮本 難しい。この一言に尽きます。野村監督はよく「今の若い子は……」という言葉は絶対に使っちゃダメだと言っていました。時代が変われば選手が変わるのも当然で、そこに合わせていくのが指導者たるものの姿だ、と。でも、つい言いたくなってしまうんですよ。ただ、この10年の変化は、その前の10年とかとはまったく種類が違うと思いますよ。こういうご時世ですからね、今の選手たちは怒られた経験がほとんどないんですよ。


──そうすると。

宮本 指導者をなめます。平気で不貞腐れる。ほんの少しアドバイスをしただけで、おもしろくなさそうな顔をする。


──プロは自分を強く持っていなきゃいけないみたいな言い方もされますが、それとはニュアンスが違うのですか。

宮本 結果が出てない自分って何なんですかって話なんですよ。たとえば、山田(哲人)に何か教えて反発されるのならわかりますよ。でも何の結果も出してない選手がそういう態度なわけですから。野村監督が今の時代、監督をやっていたら、どういう方法で指揮をとっていたのか。そこは見てみたかった。野村さんは弱小だったヤクルトを優勝させるまでに3年かかった。でも、今だったら5年はかかるんじゃないかな。そんなことないのかな。阪神の監督時代、新庄(剛志)の扱い方とかを見て驚いたんですよね。完全な特別扱い。新庄だけは怒らなかった。ヤクルト時代の野村監督に対する印象はみんな同じじゃないかな。怖いイメージしかなかった。


──野村監督の教え子でも、ヤクルトの選手、阪神の選手、楽天の選手と、監督に対する印象はぜんぜん違いますよね。

宮本 ヤクルト時代は誰かがホームランを打っても絶対、ベンチ前に出てきたりしませんでした。サヨナラゲームのときぐらいだったと思います、前に出てきたのは。僕も監督がヤクルトにいたころは握手した記憶なんてないですもん。だから、亡くなったときも、おいそれと監督の手に触れるわけにはいかないと思ったんじゃないかな。

──選手の適性を見抜いた上で指導されていたわけですね。

宮本 いや、でも、全部が全部、計算ずくだったとも思えないんですよね。むしろ、自分の感情にすごく素直だったような気もするんです。ヤクルト時代は、少なくとも、こいつは委縮するから怒らないとか、そんなのなかったと思います。

続きはぜひ、講談社文庫『師弟』をご覧ください
『師弟』

野村克也、宮本慎也


1990年代、監督としてヤクルトスワローズの黄金期を築いた野村克也。

その名将が「最高の教え子」と認める、元五輪日本代表主将の名遊撃手・宮本慎也。

「勝者」は「弱者」になり得るか。

知恵と努力で球史に名を刻んだ二人の、「結果」を出すための野球・仕事・人生論。

〈文庫版限定 特別インタビュー収録〉


https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000342618

講談社文庫 定価:本体640円(税別)

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