Season 2 第7話「山道の階段」

文字数 11,561文字

矢部嵩さんによるホラー掌編『未来図と蜘蛛の巣』。挿絵は唯鬼さんです。

 *

 こんにちは先生。講義終わりですか? 研究室に戻られる感じですか。それともこのまま外とか行かれますか? お昼まだこれからとかでしたら、どこかへ一緒に食事でもいかがですか?
 バッグですか? 大きくてすいません。邪魔だったらいって下さいね。右手ですか? 大丈夫です、私の血じゃないので。
 どこへ行きましょうか。裏門から出れると嬉しいのですが・・・・・・。

 いいんですか? ありがとうございます。バッグ置かせてもらいますね。先にちょっと手も洗ってきます。
 このお店好きなんです。特にこの席がいいんです。見えますか窓の外。ここからちょうど電柱と歩道橋が見えるんです。料理ですか? おいしいとかは判らないです。
 先生はどんな食べ物がお好きなんでしたっけ。甘いもの辛いもの・・・・・・そうだったんですね。ちょっとだけ意外な感じします。先生の書くお話って食べ物のイメージあまりないですよね。有名なのは一つありますけど・・・・・・。私ですか? とにかく生き物の死骸の形をなるべくしていないものがいいですね。みんなそうだとは思いますけど。死体が完全に蹂躙されきって魂があったとしてももう粉砕されちゃったろうなっていうようなものがいいです。蕎麦とかはだから好きです。
 ああ外、小学生ですね。下校中ですかね。少し早い気もするけれど・・・・・・。好きなんです子供。意外に思われるかもしれませんけど。バッグに入るのが子供のいいとこですね。重いといってもたかが知れてますし。
 この間はありがとうございました。とかいってすっかり時間経ってしまいましたね。でも先生のお陰で書き上げることが出来たと思っています。取材とか調べ物とかそういう準備を上手く使えた気がします。段取りって大事だなとやっと実感持てた気がします。やらなきゃいけないことでやれることは全部やったし、やらなくていいことはちゃんと削れた気がします。結果は芳しくありませんでしたが・・・・・・。
 ええそうです。落ちたというご報告です。いちいち大袈裟ですみません。ただ先生にお世話になったことは確かですし。それで今日まで、自分の中で踏ん切りが付くまで時間が掛かってしまって、顔を出すのに時間が掛かって、何だか変な時期になってしまったような感じです。先生からすると戸惑われたかと思います。すっかり忘れてらっしゃったんじゃないかと。
 小説を書くことは難しいですね。先生も書いたけど駄目になったお話とかはあるんですか。自己評価ですか。自覚はあるんですが私の書くもの先生の影響が露骨過ぎるとは自分でも思っています。先生みたいなのは先生が書けばいいわけですし。自分だけのものを込めたつもりではあったんですが、いい目は出なかったみたいです。
 どこの賞かですか? すいません、内緒にさせてください。ネットですか? そうですね。どうしようかな。
 来ましたねお蕎麦。いただきます。
 あはは確かに。苦手ですねぎ。
 おいしかったですね。もうこんな時間ですか。仕事に戻らなければいけないですね。
 それじゃ、どこへ行きましょうか?

 思っていたより混んでいますね。蕎麦屋で少し時間潰せばよかった。カウンターでいいですか。バッグどこかに置かせてもらおうかな。
 大学生多いですね。学生がいると先生は落ち着きませんか? 学生と教授二人でご飯とかってもうやばくなったと聞きましたけど本当ですか? 私はもう先生の生徒ではないですが・・・・・・。
 時代は変わりましたね。やりにくくなったとは思いません。あの頃許されてたのが不思議ですね。なってしまえば当たり前のことばかりなのに。野蛮だったということなんでしょうね。野蛮て表現はいつまでありなんでしょうね。私学校とかバイトのコンセント使うのってもう少し早く許されなくなると思ってました。でも今のところ、そうはならなかったみたいですね。
 この間の記事見ましたか先生。あの村とうとうネットに見つかりましたね。あの記事先生はどう思われましたか。地域まるごと因習に囚われた危ない集落みたいにいわれていましたね。差別とか人権侵害が明るみに出たのはいいことだと思いますけど、露見しないで誰一人責められないよりはましだと思いますけど。ニュースが暗いと関係ありそうなやつみんな死ねばいいのに的なことは私も思いますけど、そういう時代だったんだから地球人類全体で反省して死んだらいいですよね。本家にいたおじいさんとか十人死んだ家のお婆さんが化け物か妖怪みたいに書かれてるの少し面白かったですね。年表が正しければどっちもタモリとか村上春樹くらいの年齢なのに。ジャズとか好きかも知れないのに・・・・・・。フィクションの長老とか呪い師の若返り現象って面白いですね。違いますか。そんな古くないじゃんと笑う私こそ取り残されてるんでしょうね。
 実際他人事とは思えませんでした。私の育った町もあの村と十キロ離れていません。私の町も公明正大とはいいがたいです。あの町もまだ普通に殺人や人権侵害はやってますから。今はまだ違う名前が付いているだけで、あくまで社会的にまだ許容されているだけで。似たような人たちが運営してるんだから実態も似たようなものです。あの村ほど平均から外れてないだけで。あの村ほど実態がエンタメしていないだけで。
 最近私の町はカメラに映らなくなりました。昔は色々特集していたんですよ。肯定的なスケッチをされることが減ってきています。もうあの町は肯定的に映せないものになっているんですね。後どれくらいしたらあの村みたいにおぞましいものとして映されるようになるんだろう。健全な人に見つかるんだろう。やばフィクションの参照元になるんだろう。そういうことを考えます。その時私はどこで何をしてるんだろうと。
 未来について考えることはあります。未来のなさについてということですが・・・・・・。友人はいませんが親戚はだいたい結婚して子供が出来ました。自分は結婚も子供も出来ないなと思います。私に育てられる子供はかわいそうです。家に帰ると私がいるんですよ。
 私だって差別と偏見の申し子です。何かを言い訳に他者の権利を侵害してはばからない人間しか見たことありません。私きっとそれを再生産してしまいます。私の脳にはもう差別とか他人を踏み潰す論理が刻まれているわけですから。他人の子供は好きです。見ているとたまらなくなります。
 ねえ先生。出先や旅先で、街角や帰り道で、学校や親戚の家で怖いものにあったってそんなの何でもないとは思いませんか。忌まわしい汚らしいものが自分だったらどうすればいいか、先生だったら判ってくれると思いますが・・・・・・。
 あの町に生かされて育ったことは確かです。図書館も利用したし学校だって通わせてもらいました。行事にも色々参加しました。差別と偏見を内包した頭のおかしい儀式にも参加しました。噓と不勉強と想像力の欠如が幅を利かせているおぞましき人と町並みでしたが、そこで自分が教育を授かったことは確かですし、何にも楽しくなかっただとかうまい汁を啜ることがなかったとは思いません。もっと上手くなりたい、何で上手に自分は出来ないんだろうとは思っていました。差別や偏見をです。人権侵害や環境破壊をです。
 私も私の町でいじめを見過ごしてきたし、予期せず人を傷つけてきました。人権侵害と差別に加担しました。石を投げて人間を殺したこともあります。今の基準だと暴力に当たること、その時は自覚すらなく人を殺してその肉を食って育ち、それを普通だという教育を受けて、当たり前のように拡散させてきたわけで。上の世代と周囲を私は憎みますが、よその人達は私も一緒だというでしょうね。私ごとそれを糾弾するでしょうね。だってそれが事実なんだから。他者を徒に美化する気はありませんが、しかし私から排出される子供は不憫だと思います。
 だから私は私の書いた物語が私の子供ということでいいと思っていたんです。自分が生きた証は小説くらいでいいと。それなら多少ましなはずです。小説にはまだ人権はありませんからね。自分で書いた小説を自分の子供のように思う感覚はあります。先生にはそういうのなさそうですよね。そうなれないところが私の凡庸さなのだということは・・・・・・。
 ああ本当だ。もう暗いですね。学生たちももういませんね。先生も大学へ? 今日大学に入る時ちゃんと止められたことには驚きました。あの守衛さん素晴らしい人ですね・・・・・・。
 明日も仕事ですね。帰らなきゃいけませんね。
 次はどこへ行きましょうか?
 
 お先にどうぞ。いえいえ。じゃあこの子だけそちらに置いてもいいですか? ハンガーありますよ。上着もらいます。
 座敷好きですけど外でご飯を本当は食べたくないんです。先生にはもう今更かも知れませんが。どうぞお酒頼まれて下さい。私も何か飲みたいかな。
 はちみつレモンサワーをひとつ。とりあえず大丈夫です。え? 字面です。お酒の味とか判らないので・・・・・・。
 ああ、そうか・・・・・・。輪切りが入ってるんですね。
 ちょっとお手洗い行ってきますね。

 空ですよ先生。いってくれれば開けてみせたのに。
 今までずっと気になっていたんですか? 中に何が入っているのか。
 中身は私の子供です。今朝それを山に埋めてきたんです。
 迷惑だと思いますか? 私もそう思います。山だって人の持ち物ですからね。人間を埋めるよりはましだと思いますが。
 先生に噓を吐きました。本当は私賞に落ちてないんです。落ちることすら出来なかったんです。完成しなかった訳じゃありません。どこにも投稿出来なかったんです。
 人に見せるのが怖くなったんです。ネットに上げるのはもっと恐かった。私の文章は書いた私の差別と偏見の塊です。そのことが怖くてどこにも出せなかった。
 誰かに怒られるのが怖いし、怒られなくて受け入れられるのも怖かった。書いている時はもしかしたら褒められたり評価されないかなとうぬぼれていましたが、書き終えると褒められたり評価されることすらも怖くなったんです。仮に褒められたらもう逃げられません。受け入れられたら書いたものは消せません。時代が変わった時今度こそ私の存在は許容されなくなっているかも知れない。時代を超えられず埋めれてくれればまだましです。掘り起こされて棒で叩かれるかもしれない。
 間違いが起きて有名になったらどうしよう? 小説なんか売れやしないんだから今の時代リスクでしかありません。誰かに褒められることで私が自分の出自を忘れて自分は実は大丈夫な存在だと勘違いして安心して気を抜いた後で自分の正体が社会にばれて石を投げられたらどうしよう。火をつけられたらどうしよう。そのことが怖いんです。私はこれからいけない存在になる町の出身です。私の罪歴が未来において社会に寛容されるとは思えません。すれ違う人々に私のしてきた私的な暴力やハラスメントが将来的に掘り返されないと考え得る根拠を見つけられません。なぜなら私自身ここ十年ほどの社会の息苦しさをそれ以前の世界より心地よく感じ、時に私を傷つけた人や偏見や差別を口にしてはばからなかった過去の私の周囲の人間のことを一言一句一人一人けっこう今でも覚えているからです。同じように私のことを、私のしてしまったことを日ごと夜ごと思い出し続けている人が今もいるはずです。私がいまだに許されているのは現在私が取るに足らないものだからです。この世が因果応報であり信賞必罰を是とするならば、私が賞を与ったなら、私は罰を受けなければいけないはずですよね。
 私それが恐ろしくなったんです。
 中身はメモとか草稿とかです。あるものを全部バッグに入れました。完成させた原稿とバックアップ、今朝それを山に捨ててきたんです。自分の子供のように思っていましたが、結局私は育てられませんでした。私の知っているあの子たちのことを、いつか小説に書こうと思って、忘れないようずっと持っていたんですが。我ながらやることがいちいち、しかし、しかしですよ。そんなの当たり前じゃないですか・・・・・・。
 小説を書いたり出版社に送ったりそういうのもうやめようと思うんです。仮に運が味方についていい文章が書けて誰かに喜んで貰えても、本とかが出せたとしても、いつか私の生まれた町や育った環境、そこでやってきたこと、ひとにいえないそういうことがいつか社会的に許されなくなる時が来て、私のやってきた差別と加害が露見して明るみになるんじゃないかって、被害者たちによって訴えられるんじゃないかって。こんなやつの書いたものを読むんじゃなかったって読んでくれた人に思わせてしまうんじゃないかって。私は悪いことをした側です。私は古い価値観に生かされました。もっとまじの本物の○○○○みたいな人から辛い目にもいっぱいいっぱい遭わされてきましたけど、それでもこうして生き延びたことは確かです。
 先生に教わって取材や調査というものをしてみて、過去の出来事というのは明瞭でないまでも痕跡は拭いがたく、意図して消そうとしても蜘蛛の巣のように繋がりあっていて、事実そのもの、存在そのものを抹消することはとても難しいのだと知りました。私が私の過去を消そうと心血を注いだとしても、その行動こそが強調線を引いてしまうでしょう。杞憂でしょうか? いいものを書いてから心配すべきでしょうか? 売れてから心配するべきでしょうか? 階段を上ってる最中に背中を刺されてから心配するべきでしょうか? 海で名を上げることが恐くて海賊がやれるかとモンキー・D・ルフィもいっていました。こんなことを恐れていては人様に発表なんてできないんでしょうね・・・・・・。
 私の理想は私が形にしなければと思っていたんです。ですけれど、もういいんです。諦めようと決めました。私にはやれないから。私が書いては説得力がないから。後ろ向きな結論ではありません。次を目指すことができますから。何かを始めることができますから。
 何より私には先生がいますから。先生は私の書きたいことを、私より上手く書ける人ですから。
 ねえ先生、判っているんですよ。いつからか先生は私みたいな人間に向けて文章を書かなくなりましたね。私のようなろくでなしに向けて言葉を紡いでくれなくなりましたね。私の書きたいものを書けるのは先生しかいないのに。私が本当にいって欲しいことをいってくれるのは先生しかいないのに。呆れられてしまいましたか。いっても無駄だと思われてしまいましたか。先生もやはり品行方正で、賢く、恥ずかしくなるような醜い相手よりは、読者として誇れるタイプの人に自分の文章を読んでもらいたいんでしょうか。まさか先生ほどの人がお金にとらわれているとは思いませんが・・・・・・。お金に困っているくせに小説なんて書く方が馬鹿だと思いますが・・・・・・。ねえ先生。あなたを好きな人は私だけじゃないですけど、私があなたを好きになったってことは、あなたの人生も失敗だったんじゃないでしょうか?
 ごちそうさまでした。もうじき終電ですね。喋り過ぎたし飲み過ぎました。今日は失敗でした。
 次はどこへ行きましょうか?


(その2)

 先生。入りますね。起きてますか。お腹空いてませんか? いい頃合いかなと思って、夜食を作ってきたんです。間が悪くなければですが、一緒に休憩をしませんか?
 部屋少し寒くないですか。膝掛けだけだと風邪引きますよ。エアコンの風は私も嫌ですけど、嫌いなものなんて、他にもいっぱいあるわけですし。
 雑炊です。見ての通り失敗しました。とりあえずチーズとか味の濃いもの追加して入れたんで、食感の方は見逃していただけると・・・・・・。今回は失敗でした。失敗したものを雑炊とかおじやとかにすることありますけど、雑炊だってうまくいかないことはあるんですね・・・・・・。ゆで卵ゆでたんです。こっちだけでもどうですか。あはは。確かし。
 先生はファミレス行ったりしますか。夜のファミレスはなくなってしまいましたね。夜というか深夜営業です。先生は深夜にファミレスに行ったことはありますか? あそこにいた人達はどこに行ったんでしょうね。皆自分の家で夜食を作っているんでしょうか。
 アラームかけていたんですね。原稿は進んでますか? それは何よりです。やっぱりお邪魔してしまってたみたいですね・・・・・・。そうでしたか。夜ですからね。人間ですからね。普通だと思います。集中したり頭を動かすのにはDHAとかアミノ酸がいいっていいますね。ワインを一杯とかも作業によってはいいことがあるんだって。ネットで見た情報ですけど。いいことがあったことはないですけど。
 目とか鼻とか粘膜面からアルコールを取り込むとすぐ酔えるけどぼろぼろになるそうですね。お酒を静注するとアルコール中毒で死ねるそうですね。胃腸のすごさと段階を踏むことの大事さを教えられますよね。いつだって本当は一発で決めたいけれど・・・・・・。私は眠くて文章が書けない時、腕とか腿をカッターで切っていました。懐かしいな。私の青春です。
 ご馳走さまでした。私の方が食っちゃってますか。食後は少し動きたいですね。こういうのって単なる感傷ですか? 死なないですもんね。動かなくても。
 足ですか? 足よりは腰? 一日ずっと座ってましたもんね。今日も一日お疲れ様でした。私結構マッサージとか上手いんですよ。小さい頃親の肩とかめっちゃ揉んでたんです。いい子だったんで本当昔は・・・・・・。揉んでもいいですか? ・・・・・・肩触ってもいいですか? 編集者じゃないからアドバイスとかはできませんけど、私先生のケアならできますから。
 肩も首もがちがちですね。予想はしていましたけど。木彫りの人形みたいですね。もうちょっと深く腰掛けてもらってもいいですか。首の後ろなんて神経の塊ですからね。私は今先生を簡単に殺してしまえるんですね。先生は後頭部に叩き付けられるとしたらどういうものがいいですか? 私ですか? ・・・・・・タイプライターとか?
 先生、隠しててもしかたないと思うのでいいますけど、今書かれてるもの、あまりよくないです。設定がよくない気もします。判っててやってらっしゃるんでしょうけど・・・・・・。先生の力はこんなものではないですよね。どうしたらそれを引き出せるんでしょう。まあこんな風に監禁された状況で面白いお話なんて自分なら書けるとは思えませんが、先生は私とは違いますからね。
 先生と自分を比べられるわけがない・・・・・・。
 ねえ先生。おかしなことをいいますけれど、私に受けようとしていますよね。私に向けてお話を書こうとしていますよね。それがそもそもこの話がつまらない原因ですよね。私が読みたいのは自分の想定の上を行かれるお話なんですから。
 私に脅されて私の好きそうな小説を書くこと、そのこと自体にセンスがないと思います。いわれるままに小説を書いてもそんなのしょうがないじゃないですか。何も意外がないとは思いませんか。先生は今私に監禁されていやいや書きたくもない小説を書いているわけですけど、いやいや自分向けに書かれた小説なんて私も読みたいとは思いません。この状況に対する反抗とか、私を否定したい気持ちとか、思うところは当然先生にもあるはずだと思います。それを呑んでニーズに合わせた出力をすること、そのプロフェッショナルさをこそ私は嫌悪している気がします。プロって言葉嫌いだという庵野秀明のあれ先生はどう思いますか。プロフェッショナルを是とするなら先生の初期作はああでなくてもよかったですよね。わざわざいらないことをすることが先生の魅力の一つだったとは思うんです。たとえ二階に監禁されて両足を切り落とされたとしても、例え先生が書かないとよその子供を攫ってきて私が殺してしまうからといっても、殺した子供を食べさせられるのが嫌でも、そこで折れては正義がないと思いませんか。屈することには新規性がないと思いませんか。
 こんな状況より酷い目に遭ってる人は世界中に幾らでもいます。詰んだ状況に、諦めざるを得ないものに、思いもよらない解決策を、私の偏見を打ち砕く卓見を。世の中は所詮こうなんだという私の偏狭さを飛び越えていく発想を、先生の書くそういうものに圧倒されたいんです。私は自分が勝利する話なんて見たくないです。私は自分と同じ属性を持つ人がお話の中で自分とは違う成功を手に入れ幸せになっていくところを見ていたいわけじゃないんです。私の失敗は拭いがたいものだからです。先生は私を勝たせなくていいですよ。先生は私を断罪していいんです。ただ私は自分みたいな人間がお話に出てくるとほっとするんです。いていいんだって許された気がするんです。やっちゃいけないことをして、否定されて周りから嫌われて、そういうやつが世界の中には、いてよくないけどいるんだって認めてほしいんです。私は化け物ですが毎日頑張ってます。普通の人のように毎日頑張ったり、頑張る振りをしたり、油断したり、理想を求めたり、理屈を捏ねたり、感動したり、失敗する度落ち込みますし、いつでもこの一線さえ守れば善良にいられると思うところを守ってきて、それでもこんなことになってしまったんだということを書いてくれるだけでいいんです。
 挑戦した人だけが失敗します。私は失敗しっぱなしです。私はもう褒めるところがないですが、構造としては私は挑戦しましたよね。ねえ先生、こんなことを書いて欲しいって話をしましたけど、本当に書いて欲しいならこんな直截的なやり方は失敗ですよね。いったから書かれたって私はもう嬉しくないんだから。
 今回は失敗でした。監禁なんてやり方がよくなかったですね。この家がよくないのかも知れませんね。環境が書くものに影響しますから。
 次はどこへ行きましょうか? 車椅子取ってきますね。


(その3) 

 暖かい夜ですね。こういう夜が私好きです。虫が飛んでますね。先生、防腐剤かけておきますね。
 どこへ行きましょうか。遠くに山が見えますね。先生は登山しますか。私は小さい頃山によく登っていたんです。
 山道は舗装されてたり岩だらけだったり、泥濘だったりしますけど、急なところが木の階段になってたりしますね。丸太の階段です。地面に埋めて固めたやつです。子供の私には一つ一つの段差が大きくて、大股で階段を上ったりしてたんですけど、なければないで山道を上るのは大変でした。間が一段上れないだけで本当に大変でした。歩きながらよくこの階段を作った人のことを考えていました。
 工事とか行政とかの人が仕事で作っているんでしょうけど、その人のお陰で私は進むことができたわけですね。段差が大きかったり断絶があると私は登っていけませんでした。次の段から次の段まで欠けずに揃ってるお陰で歩いて来れたんです。
 階段は人が通ると土が減ったり木が曲がったりしていました。古くなって登れなくなってしまった段差を埋めるような仕事をしたいと思ってたんです。ステップがなくなって登りづらくなった断絶や間隔の大きいところに、新しいステップを作るようなことをしたいと思っていたんです。
 駅の方へ行きましょうか。そのまま電車に乗るのもいいですね。世間的には先生は死んだことになっていますから、こうして散歩してたら誰かに見つかってしまうかも知れませんね。

 先生は幽霊って怖いですか。私はおばけは怖くないです。私の人生は今多少苦しいですが、幽霊に苦しめられているわけじゃないからです。
 私は田舎にも廃墟にも行きません。旅館やホテルに泊まったりしません。友達がいないから遠出も肝試しもしません。同窓会に出たりもしません。帰省も墓参りもしません。デートもお見舞いもしません。親の面倒も子供の世話もしてません。毎日同じことしかしません。怪しいところにも楽しそうな所にも行かないようにしています。よく人が怖い目に遭ったり殺されたりしがちな場所には行かないし、おばけとか殺人鬼に何かされそうなこともしていません。死ぬのは怖いですからね。怖い目に遭いそうなことしないようにしてきました。
 それなのに私の人生はいまだ解決していません。死んだり殺されたりしないように、痛かったり苦しかったり怖い目に遭わないようにと思い、そういうことをちゃんと避けてきたのに、今毎日が苦痛です。私が怖がるべきは幽霊や怪異ではないということですよね。私の人生を苦しめているのは多分もっと別のものだということですよね。
 私が怖いのは自分が傷つくことです。誰かに傷つけられることです。もう二度と消えてしまいたくなりたくありません。私は間違うのが怖いです。間違うと傷つくからです。それは間違ったことをいう誰かに今まで自分が傷つけられてきたと思っているからです。誤解された、判ってもらえなかったと今でも思っているからです。そして私も間違えて誰かを傷つけたことが数え切れない程あるからです。あの時ああすればよかったということが四方八方に張り巡らされています。間違えて誰かを傷つけるのが怖いです。
 私は正しさより間違いや過ちに属している生物です。自分のしてきた行いの内ほとんどのことを償っていません。化け物を倒せば私の暮らしはよくなるのでしょうか? おぞましいおばけとか悪い人間の群れを遠ざければ私は幸せになれるんでしょうか。そうではないんだと思います。私は多分私自身をどうにかしないといけないですよね。
 勇気が欲しいんです。怖いと思う気持ちを制したり乗り越えたり、願うことや正しいと思えることを行うための、価値があると感じる行いの主体に自分を近づけていくための、私の人生を苦しめるものに最低限立ち向かっていくための勇気です。それはおばけとか殺人鬼と戦うことや逃げることでは達成されません。私が怖いのは自分の未来のなさ、先行きのなさ、歩んでいく人生の昏さ、自分を保存したいという甘えた考え、認められたいという承認欲求、他人に勝り安心したいという理想、物事を見逃さない注意深さや物事に色をつけず、そのままを見るだけの力のない自分、よく考えることや考えるための判断材料を持てないでいる自分、その愚かさによって何かを傷つけてきてしまったこと、これからも何かを傷つけてしまうことです。私がもう少し研鑽を積んでいたら首尾よく行ったはずの何か、私が稚拙で遂げられなかった何か、そういう何かを諦めて安穏としたがっている自分を、コンプレックスの裏返しでただただ過敏になりたい自分を、失敗を恐れて間違いを認められない自分を、全てを認めてしまえば何も残らなくなってしまう自分を、噓を内包せずには成立しない今の自分を、変えていくための勇気と知恵がどこにあるか考えていたいんです。判ってくれますか。怖いものを乗り越えたいんです。
 山道で階段を作った人のことを思うんです。私もそんな階段の一つになりたい。私が足を滑らせた場所に他の誰かが足を置くかもしれない。私が今いるこの場所に他の誰かが来ることもある。そういうことを信じていたいんです。次の人がここまで来るための、ここから先へ行くためのステップの一つに、いつか誰かが道に迷って、誰もいない山の中を一人で歩かなくちゃならなくなった時に、ここだって人の来る場所なのだと、その人に伝えるための段に、ここさえもまだ人間の通り道で、ここを通ってまだ先へ、どこか先へと進んで行けるのだと伝えて、一人じゃないって安心して欲しいんです。山道の階段のように。まだそこに人は来るのだと、歩いてもいいんだと伝えられるようになりたかったんです。でも今回は駄目でしたね。
 不思議な夜ですね。行けるところまで行って帰ってくるのもいい。帰って来れずに死んだとしても、悪者ですからね。死ぬところまでが私の仕事ですから。
 すっかり暗いですね。山が近付いてきました。ねえ先生。今回は駄目でしたね。
 次はどこへ行きましょうか?



本文:矢部嵩
挿絵:唯鬼

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み