第8話 赤本の終焉

文字数 4,517文字

 似顔絵の仕事や『まんがマン』が無くなったことで、七馬は新しい生活の糧を探さなければならなくなった。
 幸い、漫画の仕事はあった。
 世相の安定は米軍キャンプの似顔絵の仕事を七馬から奪ったが、代わりに、と言うより本業の仕事を七馬に与えたのだ。
 すなわち、七馬に漫画の仕事依頼が来たのである。
 手塚との合作が没になった『怪ロボット』は、七馬自身が新たに描き直して出版した。またその他にも『冒険魔海島』『サーカスの怪人』など、さまざまな単行本漫画を、七馬は発表していったのだ。
 この背景には、皮肉にも『新宝島』のヒットがあった。『新宝島』が四十万部も売れたため、そのおこぼれを頂戴しようと、大阪ではさまざまな会社が漫画の出版に乗り出したのである。
 おかげでこの時期、さまざまな漫画家がデビューしている。その中でも異例なのが、京大生のモリミノルであった。彼は『ボクらの地球』という作品でデビューを果たし、京都の新聞でも大きく扱われるという快挙を果たした。
 だが、モリミノルはすぐに姿を消してしまう。
 やがて彼は、小説家として再び世に姿を現すことになる。モリミノル、のちのSF作家、小松左京である。
 それはまだ、後の話。
 とにかく七馬はこの時期、精力的に漫画を描き続けていた。
 その影には手塚の存在がある。
 手塚は、七馬との合作をやめた後、単独で漫画を描き、発表を続けた。『新宝島』の手塚治虫、という名声は伊達ではなく、数々の出版社が手塚に漫画を依頼した。
 そしてその中のひとつ『ロストワールド』は、四十万部を売り上げる大ヒットとなったのである。
(手塚君は、さすがにやる……)
 七馬には焦りがある。
 自分は手塚と対立した。だが、手塚に嫉妬をしていたのではない。あれは漫画家としての信念のぶつかり合いだったのだと、自分に言い聞かせた。
(だからわしは、手塚君とは別の道を行かなあかん)
 七馬は、シンプルな、明るい冒険漫画を描き続けた。
 それは、シニカルなSFを得意とする手塚に対抗するかのような内容であった。
(これこそ漫画家の本分や)
 七馬は、手塚に向かってそう叫びたかった。子ども達に見せるべき漫画はこれなのだと……。
(わしも、リアルな漫画は描こうと思えば描ける。せやけど、それは大人向けでやるべきや。子どもに読ませるものやあらへん)
 七馬はそう思っていた。
 描こうと思えば描ける――その言葉は法螺(ほら)ではない。
 事実、この時期、七馬は大人向けの雑誌にリアルタッチの絵や漫画を発表している。
 のちに、劇画家として有名になるさいとうたかをが、
「僕が好きやったのは酒井七馬さん。酒井さんは僕がやろうとしていたリアルなマンガをあの時代にすでに描こうとしていた大先輩」
 と、評価している。
 またこの時期、怪奇な話題や絵を扱う『真珠』と言う雑誌があったが、こちらにも七馬は『ぐろてすく・まんが』と言うタイトルの、異様にリアルで暗いタッチの漫画を発表している。
 これについても賞賛の声がある。
「私はこの雑誌では酒井七馬という人のグロテスク漫画が一番印象に残っている」
 と評するのは、推理小説家の江戸川乱歩であった。
 七馬が、子ども向けの漫画しか描けなかった凡庸な作家ではなかったという証拠である。
 だが、それらの大人向け漫画は七馬の本分ではなかった。少なくとも本人は違うと思っていた。
「わしは子ども達のために絵を描くんや」
 そう言って七馬は子ども向けの漫画を描き続ける。
 だが、そうも言っていられない事態が起こった。
 大坂の漫画――いわゆる『赤本』ブームが終焉を迎えたのである。

「いやあ、酒井先生。大阪の漫画はもうあきませんわ」
 そう言って、くたびれ果てた顔を見せたのは大坂ときをである。彼は『まんがマン』の休刊以後も出版業に関わっていたのだが、いよいよ赤本漫画終焉のにおいを嗅ぎ取ったらしい。
「そうか、あかんか」
 七馬はしょんぼりとうなだれた。
 ブームが終わったのにはわけがある。
 あまりにも、作られていた漫画の質がお粗末になってしまったからだ。
 『新宝島』以降、ものすごい量の赤本漫画が「酒井に続け、手塚に続け」とばかりに発刊されたが、どれもできはひどいもので、漫画家どころか明らかに素人が描いた、漫画とも言えぬ落書きもどきまで発売される始末であった。
 さらに、赤本漫画が売れまくったブームの頂点のころ「これは看過できぬ」とばかりに、税務署が各出版社に入り、税務調査に入った。
 戦後の混乱期である。まともな出版社でも、叩けば何かしらホコリが出るものだ。だが税務署はきっちりと税金を取り、まだ脱税や申告漏れをいちいち指摘して指導していったため、これで業者の大半がやる気を失った。もともと、漫画が好きで出版社をやっていた業者などほんの一握りで、ほとんどは流行に乗っただけの出版社であったから、この結末は必然だった。
「酒井先生、もう、大阪はあきませんわ。漫画を描くなら東京に行くしかありませんわ」
「東京なあ」
 七馬はタバコをプカリと吸った。米軍基地の似顔絵描きの仕事がなくなってから、洋モクはあまり吸わなくなっている。
 七馬は考えた。東京には戦前、仕事で出かけたことが何度かある。なんだか冷たい街だという印象を受けた。
 ――どうも性に合わんな。
 それが七馬の実感だった。
 もう、七馬も四十歳を過ぎている。この年齢までずっと関西で生活をしていたのに、いまからろくに知らない東京へ出向くと言うのは億劫だった。知人も友人もおらず、漫画家としてのコネも無い。東京で漫画家をやるならば、出版社に出向いてまた一から人間関係を築かねばなるまい。どう考えても、それは気が乗る話では無かった。
「まあ、大阪の漫画界が死んだわけやないし、わしは大阪でやるわ」
「そうですか」
 大坂ときをは、少し失望したような色を見せた。まだ二十代の大坂ときをには、七馬の気持ちなど分からないだろう。
「そう言えば、先生。手塚君とは近頃、会ってはりますか」
「ん?」
 突然、手塚の名前が出てきた。
 七馬は首を振った。
「いや、会ってへんな。例の『怪ロボット』の合作がお流れになってから、しばらくは、漫画家同士の集まりで顔を合わせるくらいはしとったけど」
「そうですか」
「手塚君がどうしたんや」
「どうも、東京に行くらしいですわ」
「何、東京に……」
 七馬は目をむいた。

 手塚治虫はそれまでに、何度か東京に行っている。
 逸話がある。
 『新宝島』や『ロストワールド』で大ヒットを飛ばした手塚は、得意の絶頂にいた。さもあろう、二十歳前後の青年が四十万部も売れた作品を複数持ち、さらにこの頃、ファンレターも何百通と受け取っていたと言うから、これで得意にならないほうが嘘だ。
 だがその頃、既に東京で活躍していたある漫画家から、
「手塚君、もういい加減メンコ屋の仕事はよせよ。そんなことでは、漫画家の中には入れないよ」
 と言われて、彼は激しいショックを受ける。
(大阪の赤本漫画でどれだけ売れても、プロの漫画家とはみなされないのか!)
 そう思った手塚は、東京に行って、色んなプロの漫画家や出版社を尋ね歩いた。そして『新宝島』を始めとする自分の漫画を見せて、批評を求めたのだ。
 結果はみじめなものだった。
「もっと、絵を勉強なさってください」
「こりゃ、ひどい。君がデッサンをやっていないのが、すぐ分かる」
「これは、漫画の邪道だよ。君がこれを描くのは自由だが、こんなものが流行ってしまっては、一大事だ」
(なんてことだ……)
 手塚はがっくりとうなだれた。
 さらに東京では酒井七馬の名前も、手塚治虫の名前も、ろくに知られていなかった。『新宝島』も、四十万部も売れたせいかさすがに名前は知られていたが、どこまで行っても「大阪のくだらない赤本」と言う評価しかくだされていなかった。
 大阪の評価は、大阪の人間が思っているほどには高くなかったのである。この頃、南部正太郎と言う、大阪で一番の人気漫画家が上京しているが、やはりまったく通用せず大阪に帰ってきてしまっていた。
 だが、手塚はくじけなかった。
(必ず僕の漫画を、分かってくれる人がいる……)
 そう思って、東京向けの漫画をひたすら描き貯めていたのである。
 その手塚が、今度、再び東京に行くと言う。

「手塚君らしいなあ」
 七馬は大坂ときをから手塚の話を聞いて、くすりと笑った。
 相手が父親のような大先輩であっても、食ってかかったような男である。
 何を生意気な、と当時は思ったが、
(しかし男はそれくらいの気概があったほうが、ええのかもしれん……)
 とも考えた。
「手塚君は、東京でうまくいくやろうか?」
「厳しいでしょう」
 大坂ときをは、ピシャリと言った。
「やっぱり東京は凄いですわ。日本中から人間が集まっとりますからな、大阪とはレベルが違う」
「そうやなあ」
「手塚君が抜群のセンスをもっとることは認めますが、それでも東京では難しいでしょう。何せまだ若いですし、経験も浅い……」
 大坂ときをは暗に、七馬の上京をうながしていた。七馬の大ファンである彼からすれば、七馬が大阪だけで満足してしまっているのが歯がゆいのであろう。
 それを見抜いた七馬は、内心では少し嬉しく思いつつも、たくみに話題を変えた。
「ところで手塚君は、東京用に漫画を描き貯めとるんやて?」
「ええ。と言っても、ちょっと話を聞いただけで、僕も読んではおらんのですが」
「どんな漫画やろうな」
「動物ものらしいですよ」
「動物ものなあ……」
 七馬は手塚がどんな動物ものを描くのか、想像してみた。あの青年が描くくらいだから、単にほのぼのしただけの動物ものではあるまい。恐らく何やら毒が含まれたものに違いない。
(わしは認めん……)
 やはり単純明快な、明るく楽しい漫画こそ、子ども向けの王道だと考える七馬であった。
「まあ、手塚君がどんな漫画を描いたのか、彼の東京デビューがうまく行けば、いずれわしらが読む機会もあるやろう」
「そうですね」
「わしはわしの生き様を貫くのみや。大阪で頑張るわ」
 七馬に、上京する意思が無いことを告げられて、大坂ときをは少ししょんぼりした。
「……それで酒井先生は、今後も大阪で漫画を描くおつもりですか」
「それもある」
「それも、とは。他に何かあるんですか」
「うん、実は色々、誘われとる」
 七馬は机の引き出しを開けると、中から手紙を何枚か取り出した。
「紙芝居を描いてみいへんか、とのお誘いや」
「紙芝居ですか?」
「うん。聞いてみると、なかなか稿料もええみたいやしな」
 それに、紙芝居なら子ども達に読んでもらえる。明るく楽しい、酒井七馬の紙芝居を見せて、夢をもってもらうのだ。
 七馬はニッコリと笑った。
 彼の頭の中では、紙芝居を見て、笑顔になっている子ども達の姿が浮かんでいたのである。

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