③科学の位置づけ

文字数 1,877文字



 今夏、第一部が邦訳された劉慈欣のSFシリーズ『三体』は、中国ではすでに中国SF史ひいては中国文学史の里程標として評価されている。私たち日本人もこの異色の大作を狭義のSFのジャンルにとどめず、より広いコンテクストのなかで理解するべきだろう。私自身は中国のSF=科幻の専門家ではないが、できる範囲で、文献紹介も兼ねつつ『三体』の文化史的な位置づけを概観しておきたい。

(「群像」2019年11月号掲載)





 ところで、ここで伝統中国における科学の位置づけについても少し寄り道しておきたい。中国では長らく、歴史的事実に根ざさない純然たるフィクションへの評価が低かっただけではなく、科学技術も知的権威にはならなかった。つまり、サイエンス(科)もフィクション(幻)も中国では長く冷遇されてきたのであり、そこに「科幻」の盛期が21世紀までずれ込んだ一因がある。


 理系軽視の流れを助長したのは、やはり科挙だろう。科挙は当初、秀才科、進士科、明経科、明法科、明字科、明算科という科目があり、法律や数学のような諸分野のスペシャリストも登用した。六芸(六つの基礎教養)を重んじた儒教は、もともと知の多元性や総合性を評価していたからである。しかし、科挙はやがて、経書の暗記と詩の制作をテストする進士科に集中するようになり、各分野の才能を集めるという方針は長続きしなかった。からは当然、文系偏重と理系軽視が生じるだろう。もし科挙に科学技術の科目が入っていれば、中国ひいては世界の科学史は大きく変わったのではないか。


 むろん、中国にも実証主義がなかったわけではないし、朱子学には「格物致知」、つまり事物の究明によって知を深めるという発想がある(近代にはscienceの訳語として「格致」が用いられた時期もある──もっとも、それはやがて明治日本からの輸入語である「科学」に置き換えられたのだが)。中国科学史の大家ジョゼフ・ニーダムのように、道家の錬金術に科学の萌芽を見る学者もいる。


 ただ、実証的な精神を備えた知識人ですら、たいていは古典的テクストの文献学的解釈にとどまり、科学技術の開拓には進まなかった。近代中国の指導的なリベラルであった胡適は、1933年に英文のレクチャー「中国のルネッサンス」で、17世紀の顧炎武や閻若璩ら考証学者(実証的な文献学者・言語学者)の研究方法が、ヨーロッパの同時代のガリレオ、ケプラー、ニュートン、ハーヴェイ(解剖学者)、トリチェリ(物理学者)、ボイル(化学者)らと似通っていたこと、にもかかわらずその研究内容は根本的に異なっていたことに注目している。近世日本の学者がオランダ語を必死に学んで、蘭学を生み出したのと違って、近世中国の学者は異言語の習得よりも、自国の古典語の解析に傾いたのである。


 中国の科学史を考えるのに、17世紀初頭から中国を訪問し始めた宣教師の功績は見逃せない。イエズス会のマテオ・リッチはもともと数学や天文学を学んでおり、その知識を生かして世界地図を作った。さらに、中国は古くから暦法を重んじていたが、より精密な暦を作るのに宣教師の知識が要求され、やはりイエズス会のアダム・シャールがそれに応えた。つまり、この時期に中国の科学はキリスト教を介して、西洋の近代科学とオーヴァーラップし始めたのである。とはいえ、18世紀の康熙帝の時代以降は、文化的な保守化が進み、イエズス会の宣教師の来訪も減ってしまった


 いずれにせよ、17世紀以降の西洋の科学がガリレオやケプラーの天文学とともに飛躍し、世界を変革したのに対して、中国では実証的探求は星界ではなく古典テクストに集中し、理系分野において大きな遅れをとった。そう考えると、劉慈欣が一貫して宇宙SFにこだわっているのは示唆的である。中国のサイエンス/フィクションの限界を突破するには、西洋の科学的認識の中枢にある星界を相手にすることが必要であったのだろう。


 儒教と科挙の関わりについては、陳舜臣『儒教三千年』(中公文庫、2009年)の簡にして要を得た記述を参照されたい。

⑧ Hu Shih, “Chinese Renaissance”『胡適全集』第37巻(安徽教育出版社、2003年)110頁以下。

 薮内清『科学史からみた中国文明』(NHK出版、1982年)第4章参照。


【福嶋亮太】

文芸評論家。81年生まれ。著書に『神話が考える』『復興文化論』『厄介な遺産』『百年の批評』など。


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