『片隅の人たち』常盤新平/踏み台の上の子ども(千葉集)

文字数 1,777文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

木曜更新担当は作家の千葉集さんです。

今回は常盤新平の『片隅の人たち』について語っていただきました。

書き手:千葉集

作家。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

その昔、翻訳家の柴田元幸は翻訳の仕事を「踏み台の上の子ども」とたとえていました。

ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。壁の向こうの庭で何か面白いことが起きていて、一人が登って下の子どもたちに向かって壁の向こうで何が起きているのかを報告する、そういうイメージなんです。

  

――『小説の読み方、書き方、訳し方』(河出文庫)より

いくら精巧な翻訳だとしても、やはり原文とは違うものです。小説は特にそうでしょう。だとしても、文芸翻訳家たちは「壁の向こうで起きていること」をあらんかぎりの表現を尽くして叫び、かれらの語りを聴いてわれわれ読者は異国の小説を理解した気になります。


わたしたちにとって踏み台の上の子どもたちは、声だけの存在です。ふだんはその存在をあまり意識しません。


作家で翻訳家であった常盤新平もかつて「翻訳小説を好んで読むという読者でなければ、訳者の名前などそう気にしないものだ」と言いました。


『片隅の人たち』は、その常盤が見た翻訳家たちの生態がスケッチされた半自伝的短編集です。


常盤のキャリアはまず翻訳家として始まり、その後、編集者として早川書房に入社します。都筑道夫が『ミステリ・マガジン』の、福島正実が創刊されたばかりの『S-Fマガジン』のそれぞれ編集長を務めていた時代です。


本短編集では常盤が駆け出し翻訳家から編集者に転身したころが主として描かれます。


常盤にはそれより少し前の時期を描いた直木賞受賞作、『遠いアメリカ』もありまして、そちらは常盤自身の抱えていた二十代の鬱屈としたモラトリアムの色が濃い。


『片隅の人たち』も著者の青春小説的な趣きが強いのですが、他人の観察に主眼が置かれているためか、タッチは比較的朗らかで軽やかです。


その朗らかさは高度成長前夜の出版業界の空気と一体化しています。誰も彼もが貧しい時代で、翻訳者も編集者も貧乏だった。あぶれもので、貧乏人だっただけど、ふしぎと自由さがあった。そんなふうなノスタルジーをまとっている。


その気分を常盤は小説的にハードボイルドと同期させます。当時から早川書房の主力商品であったアガサ・クリスティーなどは「金持の世界である」とあまり好まず、ハメットやチャンドラーといったハードボイルド小説に傾倒し、その主人公に自分を重ねるのです。

ハードボイルドの私立探偵は一人として金持はいない。いつもお金のことを気にしながら、事件を調べている。……(中略)……僕がハードボイルドものを読むようになったのも貧乏な探偵、しかもひとりぼっちの私立探偵が出てくるからだった。世の中からあぶれたような探偵たちに親近感をおぼえていたのだ。



――『片隅の人たち』より

『片隅の人たち』もチャンドラー的な方法論で組み立てられており、つまり、人間との出会いが連続していき、その人物を描くことが物語そのものを成していきます。


自らの眼で観察した翻訳家たちを記述する。それも一種、翻訳的な営みであるのかもしれません。


作品そのものとは違い、”不朽の翻訳”というのはめったにありません。『片隅の人たち』のなかでも言われているように、「原書は古くならないが、翻訳の方は古くなる」もので、「翻訳とはいわば耐久消費財」です。訳が更新されれば、古い訳は洗い流されていき、翻訳家たちの名前も埋もれていきます。


宇野利泰、大久保康雄、中村能三、清水俊二、村崎敏郎……多くのミステリファンにとっては「翻訳ミステリの古本でよく見る翻訳家」です。名前は知っていても、人間としてのかれらは遠い存在です。


常盤新平は、そんな「壁の向こう」にいる人たちの群像を踏み台の上から報告してくれます。聴けば、きっと、あなたも知り合いたくなるはずです。

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