第9話 DVの被害に遭っていた女性を説得できるか

文字数 3,491文字

「否定はしません。抱えている秘密が大きい著名人ほど、ウチみたいな雑誌を脅威に感じているでしょう。まあ、杏奈さんにとっては心強い援軍になれる自信はあります。とりあえず、座ってから話しましょう」
 立浪は椅子に座りつつ、杏奈とセイラを席に促した。
 杏奈が立浪の、セイラが相良の正面に座った。
「みなさん、飲み物はなんにしますか?」
 タブレットメニューを手にした相良が、三人に訊ねた。
 立浪はスコッチエール、セイラが赤ワイン、杏奈がペリエと相良に告げた。
「さて、早速ですが、いくつか質問をさせてください。まだ録音はしていませんので、本音でお願いします」
 嘘――テーブルの端に載せた、手帳タイプのスマートフォンケースに忍ばせたICレコーダーは回っていた。
 表に出すためではなく、ゴールドプラン会議で編集長にプレゼンするときのツールとして使うつもりだった。
「杏奈さんは、この方とお付き合いしているんですね?」
立浪は言いながらタブレットPCを杏奈の前に置き、ポーズ状態にしていた動画のプレイアイコンをタップした。
『柏木保さんに、ファンの方からメールがきています。まず最初の相談者は、愛知県の十九歳の大学生のサトリンさんからです。同い年の彼氏が私のことを、お前、お前、と呼ぶのが嫌で、それを伝えたら、お前はお前だろ、と開き直り聞く耳を持ってくれません。男の人が彼女のことをお前と呼ぶのは、あたりまえのことなのでしょうか? という質問ですが、柏木さんはどう思いますか?』
ディスプレイに流れているのは、主演する連続ドラマの番宣で朝の情報番組に出演していた柏木保を録画したものだった。
 俯(うつむ)き加減だった杏奈が、弾(はじ)かれたように顔を上げ、セイラが怪訝な顔を相良に向けた。
 彼女達のリアクションが、そうなるのも無理はない。
 わざわざ、杏奈に柏木との交際を確認するのに動画を流す必要などなく、名前を出すだけで十分だった。
 ただし、それは杏奈にとっての話で立浪には別の目的があった。
 それをわかっている相良は、セイラに微笑(ほほえ)み頷いて見せた。
『正直なこと言ってもいいですか?』
『もちろんです』
『僕も三十代なので、これまでにいくつかの恋愛を経験しました。でも、女性にたいしてお前って呼んだことがないから、サトリンさんの彼氏さんがどういう気持ちでそう呼ぶのかはわからないなぁ。僕の周りにも、彼女のことをお前と呼んでいる人はたくさんいますよ。だから、そう呼ぶことイコール愛が足りないとかではないと思います。ただ、思いやりは足りてないかな』
『思いやりですか?』
『ええ。お前と呼ぶ行為に良し悪(あ)しはないと思いますけど、大切に想っている女性が嫌がっているなら、自分のルールを変える気持ちのゆとりがあってもいいんじゃないかと思うんです』
 柏木が、遠い眼差(まなざ)しになった。
 立浪は、ディスプレイに視線を落としているふりをして杏奈を盗み見た。
 柏木の動画を見る彼女の瞳が怒りや憎悪(ぞうお)に燃え立っているなら、手を組んでも裏切られる可能性があった。
『自分のルールを変える気持ちのゆとりですか! さすがは、フェミニストの柏木さんらしい素敵な言葉ですね。そんなふうに女性のために言ってあげられる男性って、滅多にいませんよ!』
 インタビューをする女子アナは、演技でなく素でテンションが上がっていた。
『え~、そんなに驚くことかなぁ。僕にとっては、呼吸をするのと変わらない普通のことなんですけどね』
 柏木が、人生で一度も怒ったことはありません、とでもいうような柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべた。
 キャップとマスクの合間から覗く杏奈の眼は、黒目が不規則に動き明らかに怯(おび)えていた。
 第一関門は突破だ。
 怒りや恨みは愛情の裏返し……愛情が残っているからこそ、柏木を見て憎悪するのだ。
「スラッシュ」に協力することになっても、柏木に優しくされたり泣いて謝られたりすれば翻意(ほんい)する可能性が十分に考えられた。
 だが、恐怖は違う。
 杏奈のいまの精神状態は、怒りよりも恨みよりも一刻も早く柏木と別れたいという感情が勝っている。
 柏木に引き留められれば引き留められるほどに、逃げたくなる心境のはずだ。
「もう、止めて貰(もら)ってもいいですか? 杏奈ちゃんが怖がっているので……」
 セイラが杏奈の肩を抱きながら、立浪に非難の眼を向けた。
「失礼しました。彼が交際相手で、間違いないですね?」
「はい……」
 杏奈が、蚊の鳴くような声で認めた。
「杏奈さんの一番の願いはなんですか?」
立浪は杏奈に訊ねた。
「私は……彼と別れたいんです……」
 杏奈が俯いた。
「それで、警察に駆け込む気ですか?」
杏奈が頷いた。
 ノックの音がすると、俊敏に立ち上がった相良がドアに向かった。
 女性スタッフが飲み物をテーブルに置く間、立浪は無言で杏奈を見据えた。
「警察に相談しても、柏木さんにはなんのダメージも与えられませんよ」
女性スタッフが出ていくのを見計らい、立浪は言った。
「どうしてですか!?
杏奈が訝(いぶか)しげな顔を立浪に向けた。
「警察に通報しても、恐らく柏木は初犯でしょうから厳重注意と書類送検で済むはずです。つまり、柏木は刑務所に送られることもなく、いままでとなにも変わらない生活を送ります。なにも変わらないね」
「どうして……私は、こんなにひどい目にあっているんですよ!」
 杏奈がキャップとマスクを外した。
 プラン会議のときに見た写真よりも眼の周囲の痣は色濃くなっていたが、鼻の腫れは引いていた。
「それを、柏木さんがやったと証明できますか? 暴力を振るわれているときの動画とか音声はありますか?」
「それは……ありません」
「証拠がなければ、警察も動きませんよ。さっき、警察に通報すれば柏木さんは厳重注意されたのちに書類送検されるはずだと言いましたが、それは動画か音声があった場合です。杏奈さんの顔の痣だけでは、柏木さんを逮捕できませんからね。暴行現場を盗撮するには、もう一度杏奈さんが柏木さんにDVを受けなければならないんですよ?」
 立浪は一気に畳みかけた。
「そんな……」
 杏奈が絶句した。
 テーブルに置かれた細い指先が、小刻みに震えていた。
 暴力を振るわれている動画があれば書類送検だけでは済まずに、執行猶予は付くものの実刑になることだろう。
 だが、重要なのは真実ではなく、杏奈に警察に駆け込むよりも写真週刊誌に柏木保のスキャンダルを提供するほうが賢明だと信じ込ませることだ。
「でも、証拠がないなら『スラッシュ』でも柏木保のDVを記事にできないじゃないですか?」
 黙って事の成り行きを見守っていたセイラが疑問を口にした。
「いえ、ウチの場合なら、杏奈さんと柏木さんが二人で親しげにしている写真と、杏奈さんの証言と痣の写真があれば、人気フェミニスト俳優のDVスキャンダルの記事を四ページぶち抜きで二週は跨(また)いでイケますよ」
 立浪は、自信に満ちた瞳で杏奈をみつめた。
「記事になったら……どうなりますか?」
 怖々と、杏奈が訊ねてきた。
「柏木保のイメージダウンは必至で、ドラマも映画もCMもすべてなくなり莫大(ばくだい)な違約金が生じるでしょうね」
「でも、そんなことになったら彼は怒り狂って……」
「復讐はできないから安心してください。写真週刊誌やテレビで大々的に取り上げられれば警察も世間も注目しますし、杏奈さんにとって保険になります。万が一、杏奈さんに暴力を奮(ふる)ったら執行猶予なしでブタ箱行きです。柏木さんもそこまでバカではないでしょうし、なにより、違約金に追われてそれどころじゃありませんから。約束します。柏木さんが社会的制裁を受け、杏奈さんが自由の身になることを」
 立浪は断言した。
 杏奈は眼を閉じ、逡巡(しゅんじゅん)しているようだった。
 だが、答えはわかっていた。
 立浪はスコッチエールのグラスを、そっと手にした。
 隣で相良も、注文したウーロン茶のグラスに手を伸ばした。
 おもむろに、杏奈が眼を開けた。
「よろしく……お願いします」
 杏奈が、うわずる声で言った。
「では、作戦会議に入る前に前祝いと行きましょう」
 立浪は薄い笑みを口もとに湛え、グラスを宙に掲げた。
 真っ先に、相良がウーロン茶のグラスを立浪のグラスに触れ合わせてきた。
(第10話につづく)

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