『愛されなくても別に』/すれた心が張り裂ける(谷川宗長)

文字数 3,018文字

『響け! ユーフォニアム』の武田綾乃がおくる最新作『愛されなくても別に』が8月26日に発売されました!


それを記念し、tree編集部では武田綾乃の全作品レビュー企画を実施しました。書き手は、多くの人気ミステリ作家も在籍していた文芸サークル「京都大学推理小説研究会」の現役会員の皆さんです。全8回、毎日更新でお届けします。

書き手:谷川宗長(京都大学推理小説研究会)

1995年生まれ。立命館大学映像学部在籍。好きな作家は津村記久子と若竹七海。最近読んで面白かった本は『望楼館追想』(エドワード・ケアリー、古屋美登里訳)。

『愛されなくても別に』(講談社)
すれた心が張り裂ける

呪いというものはこの世にはっきりと存在している。


呪いといっても、なにも白装束を着ての丑の刻参り、というような大仰なスタイルのものばかりじゃない。ここで言う呪いとは、暗黙のうちに社会に浸透しながらも、その存在の厄介さに気づきづらい、あるいは気づいていたとしても従う気になれない人間を社会の周縁に弾きだしてしまう、ひろく敷衍した透明な社会的通念のことだ。お誕生日会のプレゼントにおけるちょっとしたマナーから「自己責任」という便利な言葉に至るまで、世界には大小さまざまな呪いに満ち満ちている。ぼんやりとした生きづらさは感じていても、意識することがなければ、自分がそんな呪いにがんじがらめにされていることにすら気づくことができない。何より恐ろしいのは、そういった呪いの中には善意から発するものがままあるということだ。


わたしはあなたのためを思って言ってあげているのよ。


そんな言葉が呪いであると喝破することは、とても難しい。

 

『愛されなくても別に』は、深夜のコンビニにアルバイトとして働く二人の女子大生が、ふとしたきっかけからお互いを取り巻く環境の実情をあらためて知ってゆくことで、自分たちを縛る呪いの存在に気づき、その中でも特に二人を強く縛りつける「家族」という呪いが少しずつ解けだすまでの過程を描く、痛切な物語だ。


主人公の宮田は十九歳の大学生。家から三十分の私立大学に通い、余暇のほとんどをコンビニの夜勤アルバイトに捧げている。賃金は生活費と貯金に充て、借りている奨学金も保険代わりに手をつけずにいる。実家住まいの彼女は、浪費癖のある母親の生活の面倒を献身的に見ながらも、ブラの手洗いから毎食の用意までこなさなくてはならない自分の立場にぼんやりとした不信感を抱えている。だが、積み重なった日々の疲労と「愛してくれているからこそ、自分も母を愛しているはず」という考えにとらわれ、現状を維持するより他の道はないようにも感じている。そんな彼女の生活を一変させるのは、バイト仲間で同じ大学に通う江永の父親が殺人犯であるという衝撃的な噂だった。


「居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所は常に必ず、否定的なかたちでしか存在しない。しかるべき居場所にいるときには、居場所という問題は浮かべられさえしない。」と指摘したのは社会学者の岸政彦だが(『断片的なものの社会学』より)、その指摘に沿って考えるならば、物語の主役である宮田と江永の二人は、居場所という問題を考えざるを得なかった人たちだ。


「愛されていること」「家族であること」から逃れることができず、家庭が自分の居場所であるという世間一般の「普通」に囚われていた宮田。家庭環境の問題から、身体を売ることで生計を立てるより他に方法がなかった江永。二人の家庭は逃げ込んで安寧を得る場所、シェルターとしての機能を失っており、母親は娘の未来を喰いつぶす存在でしかない。ここで活写される機能不全の様子は、あくまで現実と地続きに存在する、生々しい可能性の一つだ。それでもなお彼女たちは、なんでもないかのように生活費を工面し、大学に通わなくてはならない。著者である武田綾乃は、そうした現代の大学生の閉塞感と鬱屈の一面を的確に、逃げることなく捉えている。


宮田たちの同僚である堀口という男の、いわゆる名助演男優的な人物造形は見事だ。彼はいわゆる《チャラ男》と言われるタイプの人種であり、深夜のコンビニで宮田と益のない無駄話を延々続けるパートは一貫してシリアスな本編の中でも、息抜きのようなユーモラスな雰囲気をたたえているように見える。しかしいざ彼の世間話に耳をすませてみれば、性的指向をオープンな場で尋ねることは異性愛者と同性愛者を平等に扱うことであり、メンヘラ(心に何かしらの問題を抱える人)の女性が自分の好みであることを隠そうともしない。彼の軽薄さはあくまで無神経と無理解からくるもっともらしいだけの空論であり、その上部だけの笑いが皮肉にも、彼自身の空虚さ、ひいては世間でもっともらしく思われている偏見の空虚さを巧妙に表現している。彼は宮田たちと違って、居場所というものに悩む必要のない、満たされた人間なのだ。


また、この物語は様々な「呪い」のかたちをすくい取り、読者の前に晒しだす。頼れる友達という人的資源を持たないことのしんどさ。経済的不自由。終わることも報われることもない家事の、漫然とした苦しみ。さまざまな形の性的搾取(痴漢、売春、家庭内暴力……)。ただ誰もがなんとなく目を背けているだけで、厳然として現実世界に蔓延している「呪い」の濁流の中をサバイヴしていく二人の様子は、痛ましくとも不思議なほど清々しい。


わたしは読み始めてすぐ、主人公である宮田をどうしても他人のように思えなかった。それは今現在わたしが貸与型の奨学金を受給する立場であり、養育費を払ってもらえない八割の家庭に属する人間であり、学費と生活費のために一時期は学校を辞めてまで夜勤仕事に従事していた経験があるからだ。「無理中毒」と作中で表される、オーバーワークで思考力を奪われ、将来のことを考えられない状態になっている自分をなんとなく容認する経験は、わたしにも覚えがあるのだ。彼女の生きづらさは、わたしの生きづらさを代弁するものでもあるのだと気づいた時、率直に言えば恐ろしかった。この物語は一読することで、読者自身の周りに存在する様々な「呪い」の存在を知らしめる力のある物語なのだ。


自分の人生に少しでもぼんやりとした息苦しさを感じたことのある人は、ぜひともこの物語を手に取って読んでもらいたい。『愛されなくても別に』は、そんな現代社会にはびこる「呪い」の存在を読者に気づかせ、現状打破のためのささやかな勇気を与えてくれる、悲壮でありながらも力強い、まぎれもない傑作だ。

★武田綾乃最新作『愛されなくても別に』(講談社)発売中です!
人気作家・綾辻行人氏や法月綸太郎氏もかつて在籍していた京都大学の文芸サークル。担当者が課題本を決めそれについて発表・討論を行う「読書会」や、担当者が創作した短編ミステリー小説の謎解きを制限時間内に行う「犯人あて」等を主たる活動としている。また大学の文化祭では会員による創作・評論を掲載する同人誌「蒼鴉城」を発行している。最近はSNSでも情報を発信中。

Twitter:@soajo_KUMC

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色