プロローグ①

文字数 1,296文字

 バックスクリーンの向こうに、分厚い入道雲が盛り上がっている。上空の水色がどこまでも純粋に透き通っているためか、空一面が舞台の書き割りのように作り物めいて見えた。まさか、この空のどこかに継ぎ目でもあるんじゃないかと、暑さに沸騰(ふっとう)した頭でバカなことを考え、天をあおいだ。
 白い光が降りそそぐ。地上のすべてを照らしだし、焼きつくし、燃え上がらせようという強い意志が、真夏の太陽そのものに宿っているかのごとく感じられる。汗で肌に張りついたポロシャツの背中の部分をつまみ、風を送ろうとこころみてはみたものの、ほんの気休めにもならなかった。
 今日の最高気温は、三十四度。
 海からの、強い風が吹く。ポールに(かか)げられた旗が、大きくはためく。しかし、グラウンドまで入りこむ風は微々たるものだ。やさしく肌の表面をなでていく。あとからあとから、汗が浮かんでくる。
 まばゆさに一瞬、目をつむった。アルプススタンドにならんだ金管楽器が、ぎらぎらと強烈な陽光を反射してきらめいていた。
 夏の甲子園(こうしえん)の大会一日目。開会式直後の一回戦。
 数万人の観客が、ぐるりと周囲を取り囲んでいる。試合開始直前のそわそわとした空気感が、ひとつの巨大なかたまりとなって、グラウンドにまでのしかかってくるような圧力を感じた。
 選手ではない。が、甲子園球場のど真ん中に立っている。巨大なホースを腰にかまえて、バルブの開放を待った。
 やがて、根元のほうから、水がかよう感覚がつたわってくる。瞬間、水圧でうねって、ホースが暴れた。腕力ではなく、体の重心を落ちつけて、制御する。
 白い水柱がたえず噴き出し、重力にしたがって落ちてくる。風向きは逆だった。しぶきが顔にかかるが、目はそらさない。左右に大きくホースの先を振りつづけ、水の粒を小さく散らした。
 鼻から大きく息を吸いこむ。むん、と湿気をはらんだ、濃い黒土のにおいを感じた。からからにかわき、焦げ茶色だった土が、水を吸い、(うるお)いを取り戻し、黒く輝く。しっとりと湿って、におい立つ。
 ホースの先をさらに上に向けた。大量の水がほとばしり、宙に舞い上がる。水の粒が細かくなり、雨のように降りそそいだ。
 アルプススタンドから、吹奏楽部のチューニングの音が、長く響いてきた。金管楽器の()んだ音色が、細い吐息のように吐き出される。
 酷暑の今、通常よりも思いきって多めにまく。まいたそばから、水分は大気に吸い上げられ、蒸発し、気化していく。
 ぐるりとマウンドの周囲を一周しながら、内野全体に満遍(まんべん)なく水を落としていった。選手も、グラウンドも、この酷暑の大会にどうか耐えてくれと心のなかで声をかけながら、ホースをたたんだ。
 試合がはじまってしまえば、しばらくグラウンドキーパーは待機となる。控え室のロッカーを開けて、タオルを取り、汗をぬぐった。
「お疲れさまです」
 背後から声をかけられた。振り返ると、この四月に入社したばかりの後輩・大渕(おおぶち)君が、額に汗を浮かべて立っていた。


→プロローグ②に続く

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