第5回/杉原保史『技芸としてのカウンセリング入門』を読みました。

文字数 2,733文字

「オモコロ」所属の人気ライター【ダ・ヴィンチ・恐山】としての顔も持つ小説家の品田遊さんに、”最近読んで面白かった本”について語っていただくこの連載。


第5冊目はシャニマスを耽溺する品田さんがプロデューサーの姿勢を分析する異色の回。選書は『技芸としてのカウンセリング入門』(杉原保史)です。

もうここ数年、あんまり本を読んでない。


アイドルのゲームばかりやっているからだ。


もしもテキスト主体のゲームも文芸に含んでいいなら、私がこれまでに一番熱中して時間を費やした文芸作品は『アイドルマスターシャイニーカラーズ』だということになる。それくらいずっとやっている。


『アイドルマスター』(アイマス)はアイドルを育成するゲームシリーズの名称だ。プレイヤーは、アイドル事務所のプロデューサーとしてアイドルの芸能活動をサポートする。アイマスシリーズのブランドはいくつもあるが、『シャイニーカラーズ』(シャニマス)はシナリオの雰囲気が特に好みだった。キャラクターが3Dで歌って踊るさまを描画できないシステム上の制約を補うように、繊細かつ膨大な量のシナリオが用意されている。


特に異彩を放つのがプレイヤーの分身である「プロデューサー」の存在だ。これまでのアイマスブランドで描かれてきたプロデューサーは、プレイヤーの感情移入を促す器のような印象があった。しかし、シャニマスではプロデューサーも作中キャラクターのひとりとして確立した描写が意図されているように見える。


作中のプロデューサーは仕事熱心な好青年で、担当するアイドルのために力を注ぐ。一線を画しているように見えるのは彼のコミュニケーション方針だ。アイドルとの交流を通じ、プロデューサーは彼女らの抱える不安や悩みと向き合うことになるわけだが、彼はアイドルに「答え」を与えようとしない。なんらかの不安をあらわにしたとき、プロデューサーは「いま、こういうことで不安なんだな」という内容の返答をすることが多い。彼はまずその不安ごと受け止め、ただ肯定するのである。


このプロデューサーの姿勢はいったいなんなのだろう。そこで参考になった書籍が『技芸としてのカウンセリング入門』(杉原保史)だ。これはカウンセリングを知的学問としてではなく、実際に全身を用いて体現するパフォーミング・アート(技芸)として紹介する入門書だ。もちろん『アイドルマスター』は一切関係ない。


本書によれば、カウンセリングを行ううえで特に重要なのは、クライエント(カウンセリングを受ける人)の「体験を促進する」ことだという。カウンセリングというと対話を通じてクライエントの抱える悩みやトラウマを解消していくようなイメージがある。最終的にはそれが目的だとしても、それを直接実現するのは困難だ。そのためにはまず、カウンセラーはクライエントに自分自身の体験に対する「穏やかな気づき」を促さなければならない。


クライエントは心のなかにつらい記憶や恐れ、不安を抱えている。実感をともなってそれを想起することは痛みをともなうが、カウンセラーはそれを穏やかに体験できるよう、味方としてじっくり支援する役割を担っている。

大事なのは、クライエントに、認めがたい情動が心中に存在することを知的に認識させることではなく、実際にクライエントの心中にその情動を喚起し、体験してもらい、体験しても大丈夫だと感じてもらうことである。


(第1章)

シャニマスにおいてプロデューサーが試みているのは、まさにこういうことではないだろうか。そして、それを促す上で重要なのが「聴く」という態度だ。問題を問題として真にとらえているのはクライエント本人である。カウンセラーは、クライエントが自己探求を進めるのを「聴く」行為でサポートするのだ。本書によれば、ただ「聴く」だけのことにたくさんの注意点が含まれている。

・クライエントの言ったことに対して即座に解決しようとあせらず、落ち着いた態度でただ受けとめるように聴く。


・優しく穏やかな注意を向けながら聴く。


・話の内容だけにとらわれずに聴く。つまり、クライエントの声を聴き、態度やしぐさから伝わってくるものを感じながら聴く。


・クライエントの言ったことを自分の憶測で簡単に分かったことにしてしまわず、無知の姿勢で聴く。


・クライエントの挫折や失敗の体験を簡単に慰めず、それが「目覚めさせる体験」となることを目指して聴く。


(2章)

ただ受け止める。優しく注意を向ける。話以外の要素を感じる。わかったつもりにならない。簡単に慰めない――いずれも、クライエント自身の体験を尊重するためには重要なポイントだ。そして、カウンセラーが以上の点に気をつけて話に耳を傾けることは、クライエント自身がその体験を再発見するきっかけになりえる。ただあるものをあるように肯定することは、実際にはとてもむずかしい。


「シャニマス」のシナリオで、特に印象に残っているやりとりがある。アイドルの櫻木真乃が、ほかのアイドルたちを誘い河川敷でゴミ拾いをすることを思いつき、提案するというエピソードだ。真乃は「みんなが無理してボランティアに参加することになるのではないか」という不安をプロデューサーに打ち明ける。プロデューサーの返答はこうだった。「いいんじゃないか、無理してても」


一見無責任にも見えるこの言葉。私だったらこう言えるだろうかと、しばらく考えた。「無理してるなんてことないよ」と否定するか、ボランティアの規模を縮小するといった対処をするのではないか。しかしそれは、本当に櫻木真乃や他のアイドルの内面を尊重していると言えるのだろうか。「無理をしていてもいい」という言葉は、無理をする人やさせたりしてしまう人の内発的な気づきを信頼していなければ出てこない。


プロデューサーはアイドルの内発的な可能性を深く信じていて、そうであろうとしているからこそ、全身をフルに使った「プロデュース」に身を投じることができている。彼自身は「俺はプロデューサーとしてのサポートしかしていないよ」と言うのだが、それを実現させるにはやはり「技芸」が必要なのだ。

書き手:品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)

小説家・ライター。株式会社バーグハンバーグバーグ社員。代表作に『名称未設定ファイル』(キノブックス)、『止まりだしたら走らない』(リトルモア)など。

【Twitter】@d_v_osorezan@d_d_osorezan@shinadayu

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