50代で始める「小さくする」暮らし 後編

文字数 2,714文字

藤野嘉子さんへの取材を重ねながら、いずれは自分たちも暮らしを「小さくする」のだろうな、と漠然と考えていたライターの今泉愛子さん。ところがコロナ禍のリモートワークがきっかけで、思っていたよりもずっと早く、しかも都内と茨城県との二拠点生活をスタートすることに。50代ならではの「小さくする」暮らし実践記、後編をお届けします。

 50代、地方で始めた「小さくする」暮らしで足るを知った私ですが、今、私が得られている満足感はそれだけではありません。

 この地の魅力は自然です。桜川が流れ、霞ヶ浦に面した土浦市は、水に恵まれていることから農業も盛んで、あちこちに田んぼや畑が広がりなんとものどかで見晴らしがいい。特に気に入っているのは、開放感のあるところで、早朝に桜川沿いをランニングしながら霞ヶ浦に向かっていくときのどんどん視界が開けていく感じがたまりません。朝日に照らされている穏やかな湖面が目の前いっぱいに広がる瞬間の多幸感といったら!

 ▼桜川沿いのランニングコース▼

 東京で暮らしていると、目の前にはたくさんの選択肢がありました。ファッションもインテリアも世界の一流品を扱う店がたくさんあって、探し放題、選び放題。

 イベントもそうです。今はコロナ禍なので状況が変わりましたが、音楽ライブもアートの展示会やトークイベントも独立系の映画を扱うミニシアターも東京にはたくさんあって、好奇心のおもむくままにあちこちに出かけたり、あるいは興味のあることをどんどん深掘りしたりすることができました。

 食べるものもしかり。海外の食材や珍しい食材を扱うお店もレストランもたくさんあります。最先端のレストランに足を運んで、シェフのクリエイティビティあふれる料理に舌鼓を打ち、お腹も心も脳も大満足という体験もできます。

 そんな東京が大好きで、ずっと浮かれていたのです。「次は何をしよう?」「楽しい、楽しい!」と。ここから離れることは考えられませんでした。


 ところが経験を重ねるにつれ、疲れも見えてきました。刺激を求めていると、キリがない。最先端のレストランをチェックしたい、センスのいい家具に囲まれていたい、海外で高く評価されているけれど、大手の映画館では取り扱わないような映画が観たい、という欲望は好きという気持ちに支えられているだけではなく、どこか脳を満足させているところもありました。

 脳がつくりだした理想の暮らしを実践しているような頭でっかちなよろこびでもあったのです。50代になって、そういうことはもういいかな、と思い始めていたところに、今回の地方暮らしが始まりました。

 今の充足感は、脳というより、身体や心が感じるもの。ランニングをしているときに川から気持ちのいい風が吹いてきただけで、うれしくなります。農協の直売所で買ったオクラの力強い産毛にハッとしたり、これまで見たこともないような立派なクモの巣に感心したり。自然が身近になったことで、日々、直感的なよろこびや驚きが湧き上がるようになったのです。なんだかめっちゃ健康的。

 ▼土浦はレンコンの産地です▼

 土浦で暮らそうと思い立ち、即実践できたのは、藤野先生の影響が大きいと思っています。先生の経験が私たちに伝えてくれるのは、不安を乗り越えて前に進めば、道はどんどん開いていくということ。先生の優しいお人柄を知る私は、先生にとって「住み慣れた自宅を売却して賃貸暮らしを始める」ことはとても大きなジャンプだったと想像します。それでも心を決めて新たな一歩を踏み出しました。前の家から全ての荷物を運び出したあと、先生が広々としたリビングに座り込んでいる写真を本書に収録していますが、その表情の清々しさといったら!

 新しいことを始めるときは、誰しも不安になりますが、それは完璧を目指すから。思い違いが見つかることは当たり前。もっとこうすればよかったのかと反省することも当たり前。そういうことは全部、走りながら解決していけばいい。先生たちご夫婦は、そうやって「よりよい人生」を送っておられます。意志をもつ人たちの人生は、こうやって明るく開かれていくのだと、強く感じました。


 目の前に、こんなにいいお手本があったから、私たちは、思い立ってすぐに手頃な賃貸物件を借りて土浦暮らしをスタートさせることができました。それからは、ほとんど土浦で暮らしています。まったく知り合いのいない土浦ですが、暮らし始めればなんとかなるものです。

 東京で暮らしていたときの私は、小さな違いに敏感でした。選択肢が無数に用意される中で、注意深く、よりよいものを選ぼうとしていました。だけど、こういう満足の仕方があったのです。

 この程よさが心地いい。そんな気持ちになった頃から、なんとなく心が軽くなりました。目の前にあるものに満足すればいい。「もっともっと」と思わなくていい。

 文庫化にあたり、藤野嘉子先生の「今」を取材しました。そこでまとめた文章は、「あとがき」として収録されています。取材で先生は、開口一番、胸を張って「小さくして本当によかったと思っているの」とおっしゃいました。藤野先生の「小さくする」暮らしは、さらにこだわりを捨てて心地よく進化しているようです。

 私も土浦で始まった「小さくする」暮らしを、自由な心で満喫しています。

今泉愛子(いまいずみ・あいこ)

雑誌「Pen」の書評を2002年から担当。インタビューや書籍の構成ライターとしても活動している。手がけた書籍は『60歳からは「小さくする」暮らし』『60過ぎたらコンパクトに暮らす モノ・コトすべてを大より小に、重より軽に』藤野嘉子(講談社)、『獲る・守る・稼ぐ 週刊文春「危機突破」リーダー論』新谷学(光文社)、『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』養老孟司・小堀鷗一郎(祥伝社)、『しょぼい生活革命』内田樹・えらいてんちょう(晶文社)、太田哲雄『アマゾンの料理人 世界一の“美味しい”を探して僕が行き着いた場所』(講談社)など。ランナーとして800mで日本一になったこともあり、長いブランクを経て、再び日本記録に挑戦中。

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老後は当然持ち家で、と思っていたら還暦を前に突如夫からの「年齢に合った暮らし方」提案、150平米の持ち家から65平米の賃貸へ。戸惑いつつも家や持ちものを手放してみたら、固定観念や執着からも自由になれた。失敗や反省もありつつ、変化を受け入れて楽しく気持ちのよい毎日を送るためのヒントが満載!

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