『すみれ荘ファミリア』凪良ゆう 試し読み
文字数 1,706文字
プロローグ ファミリアⅠ
(略)
みんなが自室に引き上げたあと、和久井はようやく一息ついた。こめかみが深く疼いている。昨日からいろいろあって疲れがたまっている。自分の脆弱さに溜息をついた。
だらだらと洗いものをしていると、母親から電話がかかってきた。
『芥さんのことなんだけど』
予想はしていたが、やはりそのことか。
『央二よね?』
こめかみの疼きが深度を増した。
芥一二三、本名斉藤央二は、二十四年前に別れた和久井の実の弟だ。
両親が離婚した際、和久井は母親に引き取られ、弟は父親に引き取られた。和久井は九歳で、弟は五歳。以来一度も会っていなかった。
古くかすれた記憶の中で、幼い弟の顔はおぼろげだ。それでも気づいたのは、右目の下にある涙形のほくろのおかげだった。あれがなければ正直わからなかった。
『急に同居なんて、あの子、今はなにをしてるの?』
「作家さんだよ。デビュー十年目だって」
すごいよねと勢い込んだが、
『そう、がんばってるのね』
母親の言葉はどこかうつろだった。
『それよりあなた、本当に央二を轢いたの? そんな偶然ってあるのかしら』
「轢いたのは確かだよ。けど向こうから突っ込んできたような気もする」
あのとき、芥は後ろを振り返った。和久井の自転車が接近してきているのをちゃんと確認した。そして次の瞬間、和久井の自転車に向かって一歩を踏み出してきた。
『……どうして』
どうしてそんなことをするの?
どうして弟だって言わないの?
どうして偽名なんかを使うの?
どうして他人のふりをするの?
母親の心に渦巻いているだろう疑問は、そのまま和久井の疑問に重なる。
答えはいろいろある。これは和久井たちの勘違いで、彼は赤の他人、もしくは事故は偶然で、彼は和久井たちが身内だと気づいていない。あるいはただ懐かしくなって会いにきたけど名乗るつもりはない。あとは……なにか企んでいるから偽名を使っている。
とりあえず勘違いという線はないだろう。芥は央二で確定だし、こちらは本名を名乗っているのだから、向こうが身内だと気づかないこともありえない。昼にもらった診断書の名前は本名ではなく芥一二三になっていて、ただ懐かしいという理由だけで書類偽造はしないだろう。そして向こうから自転車に突っ込んできた理由は──。
「詳しい事情はわからないけど、やっぱりぼくたちに会いたかったんじゃないかな。名乗るタイミングを外しただけかもしれないし、ぼくから水を向けてみるよ」
それでもごまかされたら、名乗りはしたくないということだ。
『待って。しばらく様子を見ましょう。あの子のほうにも、なにか事情があるのかもしれないし、無理に問い詰めておかしなことになったら……』
ずいぶん慎重だが、それもしかたないのかもと思い直した。二十四年ぶりに現れた実の息子、しかも母親にとっては置いてきた子供だ。負い目は確実にあるだろう。
「そうだね。怪我が治るくらいまでは様子を見ようか。それまでに向こうから名乗ってくれるかもしれないし、アクションがないときはこっちから訊こう。あ、それと父さんに連絡したほうがいいんじゃないかな」
『え?』
「ぼくと央二の父さんだよ。央二がこっちにきてるの、父さんは知ってるのかな。もしかしてなにか事情を聞けるかもしれないし、一度連絡しておいてよ」
『そうね。電話しておいたほうがいいわね』
乗り気でなさそうな声音だが、そりゃあ別れた夫にいまさら連絡したくないだろう。和久井自身は幼かったので嫌な思い出はないが、妻だった母親はいろいろあったはずだ。
『エッちゃん、お風呂お先』
電話の向こうからのんきな声が聞こえた。母親の恋人の三上だ。
『ごめん。電話中か』
『一悟よ。新しい入居者さんのことでちょっとね』
「あ、母さん、じゃあまた電話するよ」
そそくさと通話を切った。仲睦まじくてなによりだが、自分の母親が彼氏からエッちゃんなどと呼ばれているのを聞くのは照れくさい。和久井は洗いものに戻った。
変化も希望もない毎日に突然現れた弟。
これは災難か、もしくは僥倖か。
さっぱりわからないまま、謎の弟との生活がはじまった。
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