④20世紀初頭のユートピアニズム

文字数 2,994文字



 今夏、第一部が邦訳された劉慈欣のSFシリーズ『三体』は、中国ではすでに中国SF史ひいては中国文学史の里程標として評価されている。私たち日本人もこの異色の大作を狭義のSFのジャンルにとどめず、より広いコンテクストのなかで理解するべきだろう。私自身は中国のSF=科幻の専門家ではないが、できる範囲で、文献紹介も兼ねつつ『三体』の文化史的な位置づけを概観しておきたい。

(「群像」2019年11月号掲載)





 このように、中国においてサイエンス/フィクションの価値を公式に承認する風土は育ちにくかったとはいえ、中国SFも実はすでに百年の歴史をもつ。ここで20世紀の初頭に遡り、プロトSFとして重要な作品を二つだけ紹介しておきたい。


 一つは1873年生まれの梁啓超の『新中国未来記』(1902年)である。当時随一のジャーナリストであった梁啓超は、小説を文明化の有益な道具と見なしており、特に明治日本の政治小説、すなわち東海散士『佳人之奇遇』、矢野龍渓『経国美談』、末広鉄腸『雪中梅』『23年未来記』等に注目していた。このうち『雪中梅』は国会開設150周年の祝典から明治国家を振り返るという未来小説であり、梁啓超は恐らくその影響下で『新中国未来記』の舞台を1962年の上海国際博覧会に定め、そこでおこなわれた架空の講演と対話を記録したのである(ちなみに上海万博は2010年に実現した)。


 その未来の中国は、アメリカやヨーロッパからも留学生を集める学問大国となっている。梁啓超はそこに、情報を運搬するテクノロジーとして、速記術、演説、電信を登場させた。この伝達テクノロジーの進歩を背景としながら、立憲主義と文理の学問を受け入れて繁栄した、談論風発の「新中国」のヴィジョンが打ち出されるのだ。したがって、『新中国未来記』は西洋的なSFというより、インテレクチュアル・ユートピアを理想化した政治小説と呼ぶべきものだが、中国の「科幻」を特徴づけるユートピアニズムの先駆として重要な位置を占めている。ただ、この作品そのものは連載5回目で中止されたため、尻切れトンボの感は否めない。


 もう一つは、日本の夏目漱石と同世代にあたる呉趼人の『新石頭記』(1905年)である。これは18世紀の曹雪芹の傑作『紅楼夢』の続書(別の作者の書いた続編)であり、主人公の賈宝玉を狂言回しとして、西洋のテクノロジーを紹介した(なお中国の白話小説の「二次創作」は董説の『西遊補』や陳忱の『水滸後伝』のような続書として書かれることが多い。『三体』もその例外ではなく、宝樹の『三体X』のように比較的評判の良い続書がある)。この小説の後半で、呉趼人は賈宝玉を「文明境界」という異世界に導く。そこは気温が空調によって調整され、食事も医術も発達し、ロボットもいれば空飛ぶ車もあるというユートピアであった。賈宝玉はそこで潜水艦に乗って、北極と南極の奇観を目撃するのだ。この冒険によって、読者は科学技術のテーマパークを疑似体験できるだろう。


『新石頭記』も狭義のSFというよりは、「科普」(科学の普及)を念頭に置いた科学小説として書かれている。そもそも、20世紀の最初の10年(清の末期)は、社会風刺を狙ったいわゆる「譴責小説」をはじめとして、中国で小説がかつてない規模で書かれた時代であった。先述した王徳威は、この社会変革/小説変革の胎動のなかで、中国では傍流であった科学小説が萌芽し、時空の限界を超えるユートピア像を生んだことに注目している。当時の空前の小説熱は中国SFの「前史」を形作り、時空の認識を変え、梁啓超や呉趼人らのユートピアニズムをも育んだのだ。


 この小説の「改革開放」とも関わることだが、中国人の世界認識のフレームワークそのものが、20世紀初頭に激変したことも見逃せない。1895年における日清戦争の敗戦は、中国の知識人にトラウマ的な衝撃を与えた。極東の島国である日本に遅れをとったことは、思想的なパラダイムを大きく変化させたのである。


 その際、包括的な「万物理論」として広く受け入れられたのがソーシャル・ダーウィニズムであった。特に、ダーウィンの生物学を社会に当てはめ、適者生存の法則を説くハーバート・スペンサー流の進化論は大きな影響力をもった。西洋思想の導入者であった厳復は、スペンサーの理論をアレンジして、人民は各国間の生存闘争に置かれることで覚醒すると見なした。そして、その人民のエネルギーは「社会有機体」において一体化され、その社会有機体も別の社会有機体と生存闘争を続けるのだと主張した。こうして、世界は社会生物学的な進化と競争の場として解釈されるとともに、中国文明という「社会有機体」は西洋文明に対する遅れや劣位を強調される。その後も梁啓超から魯迅、胡適、そして毛沢東に到るまで、ソーシャル・ダーウィニズムは中国の知識人の発想を深く規定した。


 社会学と生物学のまじりあったこの奇妙な進化論的パラダイムのなかで、20世紀初頭の中国では、SF的な世界像も含めた文学的想像力が花開いた。その際、科学は西洋の「進化」の強力なエンジンと見なされた。『新石頭記』にせよ、雑誌『点石斎画報』にせよ、西洋のテクノロジーをイラストによって物珍しさとともに紹介している。


 面白いことに、これらのテクストにおいて、西洋の科学はしばしばテーマパーク的・博物学的に、つまり珍奇な「モノ」として展示された。中国SFの研究者ナサニエル・アイザックソンの言い方を借りれば、それは「コロニアル・モダニティ」のパターンと言えそうだ。すなわち、文化を植民地化するヨーロッパも、植民地化されるアジアも、しばしば相手をディスプレイ可能なモノに変えながら、異世界を理解する知識の地平を形作ったのである。『三体』でも楽しくも恐ろしいVRゲームが宇宙人とのコンタクトの鍵となるが、これは異世界をモノ化する万博やテーマパークに相当するものだろう。異世界との出会いは、しばしば軽薄なシミュレーションから始まるのである。


⑩ 清水賢一郎「梁啓超と〈帝国漢文〉」『アジア遊学』(第13号、2000年)。

 阿英『晩清小説史』(飯塚朗他訳、平凡社、1979年)第一章参照。

 王徳威「賈宝玉坐潜水艇│晩清科幻小説新論」『小説中国』(麥田出版、2012年)所収。王徳威はこの百年前のユートピアニズムを劉慈欣へと接続している。同「烏托邦、悪托邦、異托邦│従魯迅到劉慈欣」『現当代文学新論』(生活・読書・新知三聯書店、2014年)所収。日本語で読める清代のプロトSF論には、武田雅哉『翔べ!大清帝国』(リブロポート、1988年)等がある。

 ベンジャミン・シュウォルツ『中国の近代化と知識人』(平野健一郎訳、東京大学出版会、1978年)七一頁。

 Nathaniel Isaacson, Celestial Empire: The Emergence of Chinese Science
Fiction, Wesleyan University Press, 2017, p.17.


【福嶋亮太】

文芸評論家。81年生まれ。著書に『神話が考える』『復興文化論』『厄介な遺産』『百年の批評』など。


⇒「文化史における『三体』⑤近代文学とSF」へ続く


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