巻ノ一 異形の人 (一)
文字数 6,371文字

宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――
人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!
「小説現代」の人気連載、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」が待望の再開!
最強の漢はだれか――ぜひご一読ください!
イラスト:遠藤拓人
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(一)
寛永四年(一六二七)七月――
十兵衛は、柳生庄(やぎゅうのしょう)にいる。
午後だ。
屋敷の庭に筵を敷いて、その上にごろりと横になって、自分の肘を枕にして、見るともなく土の上をゆく蟻を眺めたり、飛んできた蝶などを眺めている。
傍に、膳がひとつ置かれていて、その上に酒の入った瓶子と杯と皿が、載せられている。
肴は、炙った鮎だ。
五尾ほどの鮎が、皿の上にある。
時おり、十兵衛は身を起こし、瓶子から杯に酒を注ぎ、それを口に運び、鮎をつまんで、頭からひと齧り、ふた齧りして、口を動かしながら、また横になる。
頭上には、庭の桜が枝を伸ばしていて、十兵衛が横になっているあたりに、ほどのよい木陰を作っている。
何種類かの蟬の声が、かまびすしく頭上から注いでくる。
陽の差している土の上は、かなりの温度になっているはずなのだが、庭には絶え間なくよい風が吹いていて、十兵衛が横になっている場所は、存外に涼しい。
すぐむこうにある道場から、打ち合う竹刀の音や、道場生の掛け声が、ここまで届いてくる。その音や声は、時に、頭上から注いでくる蟬の声より大きく、鋭かった。
その音や声に、十兵衛はほとんど関心がないのか、時おり大あくびをしては、ほんのしばらくうとうとしたりする。
十兵衛、まだ、二十一歳である。
昨年の春、江戸城内で、試合をした。
将軍家光が見物する前だ。
相手は、明人の陳元贇(ちん・げん・ぴん)という漢だった。
その時、家光が、額に怪我をした。
十兵衛が斬りつけた刃を陳元贇が手で受け、その掌に載せた瓦のかけらが砕けて飛び、家光の額に当たったのだ。
試合は、すぐに中止された。
それだけなら、まだよかったのだが、この時、十兵衛は、
「ちっ」
と舌打ちして、
「これからおもしろくなるところであったによ――」
と口にしてしまったのである。
それを、その場にいた大久保彦左衛門に聞かれてしまったのだ。
十兵衛、謹慎となり、小田原へ預けられ、その後、箱根、京と旅をしながら、この五月に故郷であるこの柳生庄へやってきたというわけであった。
それから、ふた月――
十兵衛、激しく退屈している。
うとうとしかけた十兵衛が、傍に置いていた刀に、すっと左手を伸ばしたのは、頭の方から何者かが近づいてくる気配を察知したからである。
気配が止まった。
「たれじゃ」
声をかけて身を起こすと、思いがけなくすぐ近くに、ひとりの漢が立っていた。
右手に、切先を下げた竹刀を握っていた。
一歩踏み込んで打ち下ろせば、竹刀の先が十兵衛に届く。
「荒木又右衛門にござります」
その漢は言った。
異形人であった。
中肉中背─
がっしりしているものの、背丈や肉付きにこれといった特徴はない。
ただ、顔が、四角い。
横から見た臼のようであり、鰓が張っている。
口をへの字に結んでおり、無表情で、愛敬がかけらもない。むっつりとして、顔も性格も暗い。その身体に、黒い空気がまとわりついているようである。
十兵衛が来るふた月ほど前、三月に、伊賀の服部郷からこの柳生庄までやってきて、剣術修行ということで、入門した。
服部家からの紹介状を手にしており、その書面の中に、
〝忠の心篤かれどもその性尋常にあらざれば乱りに約定をかわさぬこと〟
そうあったという。
播磨で池田忠雄(ただかつ)に仕えていたが、昨年の暮に故あって播磨を出、故郷である伊賀の服部郷にもどり、姓を荒木にあらため、みのという妻を服部郷に置いたまま、この柳生庄にやってきたのだという。
この時、荒木又右衛門二十九歳。
「おまえ、足をしのばせたか?」
十兵衛が訊ねたのは、この距離になるまで、又右衛門の気配に気づかなかったからだ。
いくら、故郷である柳生屋敷でくつろいでいるといっても、通常は、もっと距離のあるうちに、誰かが近づいてくれば気づく。
それが、この距離までわからなかった。
四ヵ月ほど前にも、似たようなことはあった。
京で、城仁門(しろ・にもん)という子供に、背後に立たれ、気づいた時には、その子供が持った小枝で背を突かれていた。
問いながら、十兵衛は、仁門のことも思い出している。
「いいえ」
又右衛門は、そう言った。
「これは、わたくしの常の歩き方にござります――」
なるほど、そうであろうと、十兵衛は、又右衛門のたたずまいからそう思った。
「何の用じゃ」
十兵衛が問うと、
「若先生に、稽古をつけていただきたいと思いまして――」
さらりと口にした。
十兵衛、ここでは若先生である。
それにしても、緊張感のない声であった。
十兵衛は、将軍家指南役である柳生宗矩(むねのり)――つまり、柳生一族の頂点に立つ人物の実子である。
いくら齢が上であれ、このもの言いはどうか。
十兵衛はそう思ったが、もちろん十兵衛は、それを不快に感じたわけではない。
むしろ、興味を覚えた。
妙な漢だ─
その感想には、
〝おもしろい〟
という意味も含まれている。
「稽古?」
「若先生が、柳生庄にもどられてから二ヵ月、いつ稽古をつけていただけるのかと楽しみにしていたのですが、道場にお顔を出されることはあっても、稽古をつけてくださったことは、まだ一度もありません」
十兵衛は、筵の上に胡座したまま、右手で後頭部を搔いた。
「おれが稽古をつけるとたいへんなことになるからな」
「たいへん?」
「加減ができぬ。相手を殺しちまうかもしれねえのさ」
「よいではござりませぬか」
「よい?」
「わたしは、若先生に稽古をつけてもらえるなら、死んでもかまいませぬ」
「本気か?」
「そのかわりに、若先生にも、同じ覚悟をしていただくことになります」
ここも、又右衛門は、さらりと言ってのけた。
この言葉に、十兵衛は腹を立てていない。
「おもしろい」
十兵衛の、唇の右端が小さく吊りあがり、白い歯が見えた。
十兵衛が動こうとすると、
「お待ちくだされ」
又右衛門が、一歩、二歩、三歩退がった。
「これでよろしゅうござります」
「何がだ?」
「さきほどの距離でお立ちになると、わたくし、この竹刀で、若先生の頭を叩いてしまいそうであったので――」
ますますおもしろいことを言う。
「そうしても、かまわんよ」
「あ、そうですか」
じわりと、腰を浅く沈め、
「もう、始まっていたのですね」
又右衛門はそう言った。
「そういうことのようだなあ……」
いつ始まってしまったのか。
十兵衛もわからない。
自然にこうなってしまった。
しかも、自分は、こうなってしまったことを楽しんでいる。
もう少し楽しもう。
「おれが持っているのは、真剣だよ……」
左手に、刀の鞘を握って、十兵衛はそろりと言った。
ぴくっ、
と、又右衛門の右腕の皮膚が動く。
その瞬間、するっ、と、十兵衛が素足で筵の上に立った。
又右衛門は、動かない。
「二歩ほど、よけいに退がりすぎてしまいましたね――」
その二歩分、近ければ、仕掛けていたということらしい。
しかし、退がっていたから今の立ち方をしたわけであり、近ければ当然別の立ち方をする。
今のこのかたち、どちらが有利か。
十兵衛が手にしているのは、刀である。
又右衛門が手にしているのは、竹刀である。
しかし、十兵衛の刀はまだ鞘の中であり、又右衛門が持っているのは、袋竹刀だ。
竹刀を考案したのは、上泉伊勢守信綱である。それが、柳生流の始祖とも言うべき、柳生石舟斎に伝えられ、柳生庄で稽古に使われるようになった。この稽古用の竹刀――ほどよき竹を切り、その先を十六に割って、袋を被せたものだ。
今日の竹刀よりは硬いが、木刀よりは柔らかい。
この時期、まだ胴も、面も、小手も、考案されていなかった。
それまで、道場での主流は、木刀による型の稽古であり、竹刀による打ち込み稽古が始まったのは、まさにこの頃からであった。
又右衛門の、竹刀を持つ腕には、無数の痣ができている。木刀では止めるところ、竹刀では実際に打つ。そのためにできた痣だ。
その立ち姿、妙にさまになっているが、何かの型かというと、そうでもないようである。
最初に見た時と同様に、又右衛門はただ立ち、竹刀を右手に下げてそこに立っているだけだ。
不思議と隙がない。
「何流を学んだ?」
十兵衛が問う。
「我流にござる」
又右衛門は言った。
「養父服部平兵衛から中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学びましたが、道場に通うたわけではなく、これは我流にござる」
朴訥とも言える又右衛門の声であった。
「肚ができている」
十兵衛は、頭に浮かんだことを、そのまま口にした。
道場でいくら剣の技を学んでも、実戦においては、まるでそれが役に立たぬということは、珍らしいことではない。道場でやれたことが、実際に白刃を握って斬り結ぶ時には、何もできなくなる。
型を覚え、それを幾千回幾万回繰り返すことによって、身体にその動きを沁み込ませ、実戦でそれを使えるようにする――型の役目は、そこにある。
命のやりとりをするその時、型が身についていれば、人は、生き死にのことを思わない。勝つ、負けるを考えない。考えれば、それが迷いとなり、不安となり、せっかく身につけた技も出なくなり、動きも乱れ、速度が遅くなる。
ただ型のように動く。型を学ぶというのはつまり、人をそのようなものに仕立てあげるためなのだが、なかなかそこまで至ることができぬのが人である。
誰でも我が命は惜しい。それは、自然な心の動きだ。
その、生死という、戦いにおいては夾雑物となるような感情が、この男の立ち姿からは見えてこない。
達観した坊主でも、このように立つことはできまい。
「そうですか――」
又右衛門は、何を言われたのかわかっていないらしい。
自分には、その達観がないと、十兵衛にはわかっている。
自分は、つい、戦いをおもしろがってしまう。つい、戦いにのめり込み、妙な言い方になるが、戦いを遊んでしまうというところがある。
その遊びに、命を賭してしまう。
自分とは、まったく異質なものを見るように、十兵衛は、又右衛門を見ている。
「よかろう」
十兵衛は、うなずいた。
「おまえのその顔の、可愛げのないところが気に入った」
そう言った十兵衛の立ち姿も、自然体である。
「稽古をつけてやろう」
十兵衛もまた刀の鞘を左手に握り、立っているだけだ。
「おれがこれから教えるのは、技ではない。柳生の極意じゃ――」
「極意?」
「親父殿も、教えぬ。他のたれも教えぬ極意じゃ」
十兵衛は、にいっ、と笑う。
親父殿─これは、十兵衛の父、柳生宗矩のことである。
十兵衛は、左手の鞘を握りなおし、浅く腰を落としてから、
「待て」
そう言って身をかがめ、膳の上の瓶子の首を右手の指でつまみ、筵の上から素足のまま下りてきた。
又右衛門との距離が、少し詰まったが、又右衛門は動かない。
「酒をこぼしてはつまらぬからな」
瓶子を口に運び、残っていた酒を口の中に注ぎ入れた。
「ふう……」
と、息を吐いた時、すでに瓶子は十兵衛の右手から離れ、又右衛門に向かって飛んでいた。
空中で、瓶子の口から酒がこぼれ、その酒と一緒に飛んでゆく瓶子の先にあるのは又右衛門の顔であった。
十兵衛は、瓶子の酒を乾したと見せて、実は残していたのである。
竹刀で瓶子を払うか、身をかわすしかない。
瓶子を竹刀で打っても、酒は、そのまま又右衛門の顔にかかる。それに、瓶子を竹刀で打っていては、それが隙になってしまう。眼を閉じるわけにもいかない。
当然、動いて酒と瓶子を避けるかだが、どう動くか。
それも、瞬時に判断せねばならない。
が――
又右衛門が、選んだのは、それとは別のものであった。
又右衛門は、竹刀で瓶子を払いもしなければ、身をかわしもしなかった。
そのまま動かずに、瓶子と酒をその顔に受けたのであった。
次の瞬間――十兵衛が、一歩前に出ていた。
ごっ、
という音がして、十兵衛が左手に持っていた鞘の鐺(こじり)が、又右衛門の顔に打ちあてられていた。
十兵衛は、もう、一歩退がっている。
「どうじゃ」
十兵衛が言う。
又右衛門は、そのまま、そこに立っている。
その顔は酒で濡れ、口からは血を流していた。
べっ、
と、又右衛門は、赤い唾を吐き出した。
地面にそれが落ちる。
歯が四本、血の中に混ざっている。
「御教授いただきました」
又右衛門が言う。
しゃべる時に口が開かれ、赤い口の中が見えた。
上の前歯が二本、下の前歯が二本、折れて失くなっている。
「おまえ、わざと受けたか」
十兵衛が問えば、
「はい」
と又右衛門がうなずく。
「教えを受けるのであれば、逃げてはならぬと思うたからにござります」
又右衛門、妙に律儀である。
「剣に卑怯なし」
又右衛門は言いきった。
今しがた、十兵衛が又右衛門に指南したのは、まさにそのことであった。
このところ、柳生は、ただの殺人のための技術である武術の世界に、修行だの、道場だの、悟りだの、無だのと、仏教の用語を取り入れて行儀がよくなってしまった。将軍家の指南役ともなれば、流儀に余計な飾りがついてくるのは仕方のないことではあるのだが、十兵衛、それがおもしろくない。そのことへの反骨がある。
その飾りを捨てたところに、柳生流の本質があることを十兵衛はよくわかっていた。
「しかしながら……」
又右衛門は、さらに言葉をつぎ、
「わたくし、そのこと、すでに会得しております」
しゃべるたびに、四角い顔に、四角く見える歯の抜けた間から、血のしぶきが飛ぶ。
「これが、柳生の極意なれば、もはやわたくしがここにいる理由もござりませぬ」
又右衛門、ひたすら可愛くない。
そして、四日後に又右衛門は柳生庄を出てゆくのだが、その時、瀬川某との事件を、この地に、土産品のように残していったのである。
(つづく)
1951年神奈川県生まれ。77年作家デビュー。『キマイラ』『闇狩り師』『陰陽師』などの人気シリーズ作品を次々と発表。『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞受賞、『大江戸釣客伝』で泉鏡花文学賞、舟橋聖一文学賞、吉川英治文学賞をトリプル受賞。ほかの著書に「餓狼伝」シリーズ、『東天の獅子』「大江戸恐竜伝」シリーズ、『ヤマンタカ 大菩薩峠血風録』『大江戸火龍改』など多数。
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