第12話

文字数 3,592文字

 9年前の3月11日は、有楽町の書店にいた。小川洋子さんのサイン会を開催する日で、大きく揺れたのは、そろそろ会場を設営しようかと思っていた矢先だった。幸い、店内の被害は少なく、すでに小川さんは歩いてでも来れる場所で待機していたから、開催は可能に思えた。


 しかし、余震は続いているし、交通網も麻痺し始めている。もし予定通り開催すれば、熱心なファンが無理をしてでも駆け付けてしまうかもしれない。そのせいで、家に帰れなくなったり、怪我をしたりする可能性は想像できた。100枚用意した整理券は全て予約済みだ。


 私を含め、読者がどれだけ楽しみにしていたかを思うと、決断に迷う。小川さんも、私たちからの連絡を待ってくれている。何とかして来て欲しい気持ちと、危険だから来て欲しくない気持ちが引っ張り合って、真ん中で立ち尽くした。


 奇しくもその感情は、2020年の3月11日、上野のストリップ劇場でも繰り返されることになる。



 新型コロナウイルスの感染者は、これといった対策もなく増え続け、主に都心のストリップ劇場が、それぞれの営業態勢を変え始めていた。扉を開けば、お客は来る。踊り子が、舞台の上でさみしい思いをしないように。劇場に通うことだけが、生きがいの人もいる。


 踊り子も、出演するからには、できる限りの集客をしたい。いったい何人のお客が入場すれば、今日は赤字にならずに済むのか。想像するだけで、しゃかりきにならざるを得ない。劇場が倒れれば、踊り子は廃業だ。法律上、これから新規の劇場が生まれることもない。自身のSNSでは、「ぜひ来てね」と言わずに「ここで踊っているね」とだけ知らせた。矛盾している。


 しかし「行きます」だけでなく、「止めておきます」というコメントにも「いいね」を押したのは本心だ。来ないでくれれば、感染させられることも、させてしまうこともない。しかしそこには、自分の身を守りたい気持ちと、お客の安全を思う気持ちと、劇場に後ろめたい気持ちが入り混じる。


 とはいえ、降板するという考えは全くなかった。劇場が開くのなら、踊る。それはもしかしたら、ずるいやり方なのかもしれない。私が9年前、まるで被害者のような顔をして、上司の「中止」という決定に渋々従ったように。だが、いざとなったら劇場のせいにしてやろう、という気持ちは、どれだけ慎重に探しても見つからなかった。だから自分の選択は、今でも間違っていたとは思わない。正解でもないだろうけれど。



 前月に芦原でデビューした私にとって、関東では初出演となる3中(3月11日〜20日)のシアター上野には、連日驚くほどの人が足を運んでくれた。初日から、知り合いの作家や編集者の顔が客席にあって、おそらく初めてのストリップ観賞を、大いに楽しんでくれていたと思う。


 樹音姐さんの応援隊も、姐さんはここにいないというのに、お祝いを持って駆け付けてくれた。皆、親戚の娘でも見るような目で、力強く手を叩いてくれたのだった。この人たちに何かあったら、という不安は微かにあったが、断然、嬉しい気持ちが勝っていた。


 ストリップ観賞には、踊り子の衣装や肌に触れてはならない、というルールがある。しかし地下にある上野の劇場は小さく、換気が良い場所とは言えない。さらに写真タイムでは、至近距離でお客と会話し、撮ってくれてありがとう、とこちらから手を握る。


 もし私が感染していたら、並んでくれた全てのお客の手に、ウイルスをなすりつけることになるのだ。その逆もある。でも、わざわざお金を払って写真を撮ってくれることの喜びが、勝っていた。



 各地のストリップ劇場が、営業時間の短縮や臨時休館を始めていたが、シアター上野も例に漏れず、通常なら4回公演のところ、開演時間を1時間遅らせて、3回公演に変更となっていた。


 それは平日の、1回目のフィナーレのことである。踊り終えた6人が、出演順に舞台へと出る。最初に名前を呼ばれた私が、背筋を伸ばしてステージに足を踏み出したら、客席に私の師匠である桜木紫乃さんが座っていた。無理をして履いた高いヒールがぐらつく。この状況、そして樹音姐さんのこと。尋ねられれば「大丈夫」と笑うのが私の役目だった。


 でも、やっと「不安だ」と話してもいい人が来てくれた。作家のサイン会や書店回りが軒並み中止になる中、仕事でもないのに上京し、あまつさえストリップ劇場へ行くなどと言えば、各社の編集者が全力で止めにかかることだろう。彼女は連載を抱えた直木賞作家なのだ。しかし、誰にも言わずに、飛行機に乗った。子供の家出か!


 久しぶりに師匠とゆっくり会話ができたのは、30分の休憩時間が発生したからである。ステージの持ち時間は変わらないが、お客が少なければ、写真を撮る人も少ない。1回目の公演は、あっという間に終わってしまい、2回目の開始時間までに間が空いたのだ。


 コンビニに出掛けたり、横になって休憩するお姐さんに断って、私はそっと客席に出た。ほとんどのお客は、再入場の券を受け取って、出掛けたようだ。残っている人たちも、師匠がどこの誰かをわかっていて、私たちをそっとしておいてくれた。


 師匠は缶ビールを片手に持っていて、「腹が減った」と言うから、差し入れでもらったキャベツ太郎をあげる。はるばる東京に来て、つまみがキャベツ太郎で申し訳ない。初めてここへ連れてきてもらった日は、鰻をご馳走になったというのに。



「矛盾がない舞台の上から見た景色はどうだい」
 そう聞かれた私は、大したことを答えられず、かといって、師匠はそれにがっかりした風でもなかった。以前、大和ミュージックの客席で聞いた「生きづらくない人なんているのかねぇ」と同じ口調だ。


 客席に並んで座り、ポツポツと言葉を交わしながら、何か見えただろうか、と考える。舞台に立つ当の私が、劇場に来てとか来ないでとか思っている時点で、矛盾だらけだ。


 ただ、もしこういう状況でなかったとすれば。


 舞台にいると、心はシンプルだ。お金を払って入場してくれたこと、照明を当ててくれること、限りある時間をここで費やしてくれること、もっと言えば、心で何を思っていても、目を開けてこちらを見てくれること、そこにただ座っていてくれること、すべてにありがとうという気持ちが湧く。


 客観的な自分が「ウェ……そういう感じ、全然趣味じゃないんだが……」と、自分自身を気色悪く思うほどに、感謝でいっぱいだ。



 その女神様みたいな気持ちが、スッと引っ込んだ瞬間が一度だけある。


 上野での公演が始まって数日後、開演中に生理が始まった。当然休むことなどできないから、見えないような処置をして舞台に出る。


「なんか紐みたいのがちらっと見えたけど、もしかしてアレ?」写真を撮りに来たお客が、踊り終えて汗だくの私に言ったのだ。声を潜めるという配慮は一切感じられず、絶句していると、同じことをからかうような口ぶりで繰り返した。私は慌てて袖に引っ込んだ。なんて酷いことを、と一瞬目の前が真っ赤になった。相手はお客だ。教えてくれたことに感謝するか、見苦しくてすみません、と謝るのが正解だろう。


 しかし、大声で言われるくらいなら、気付かぬふりをしてほしかった。私の「生理」の恥ずかしさは、初潮を迎えたばかりの子が、必死にナプキンをハンカチで隠して手洗いに行くレベルで止まっている。そんなこと、誰にも分からないだろうが、どうしたって、死にたくなるほど恥ずかしいのだ。


 すると舞台袖にいた、私の次に踊るお姐さんが事情を察し、ファンデーションのコンパクトを床に置いてくれた。こうやってチェックするんだよ、と素早く教えてくれたのだ。踊り子としては先輩だからお姐さんと呼んでいるが、彼女はどう見ても、私よりだいぶ年下である。


 Twitterを見れば、ミッキーとミニーに挟まれて子供みたいに笑っている。こんなにかわいらしい女の子が、こういうことを飲み込んで舞台に立っているということを、私は客席で想像もしなかった。


 観客は身勝手だ。見たいものだけを見て、調子っぱずれな妄想を膨らませる。でも、それでいいのだろう。あの時私が怒りを感じたのは、あくまでも私の抱えている問題のせいで、観客が変わる必要は全くない。次は私も、笑って流せるだろう。



 数日後、師匠からメールが届いた。


《こんな時だ。天の岩戸を開くのはオレだ、と思って踊ったらええ》。古事記か!
 私のストリップは、天空を照らす神様を岩戸の奥から誘い出し、暗闇の世界に光を取り戻すことができるのか。ずいぶんスケールがでかい話になってきた。まだデビューしたての踊り子で、ただ闇雲に手足を動かしているだけなのに。


 でも、病院でリハビリに励む樹音姐さんと、客席でタンバリンを叩く師匠の、何か大きな希望になっているらしいことは確かだった。

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