『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!➄ 【馬術界の重鎮、現る】

文字数 4,109文字

第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『()(えき)』。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第5回です。
    *
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。





   

 駿美が会議室の扉を開けると、中にいた人々が一斉に振り返った。
「一ノ瀬先生、よくぞ、いち早く気づいてくれました。ここにいる全員が一丸となって、日本馬術界の威信を懸けて、馬インフルエンザを封じ込めましょう」
 遊佐が立ち上がって宣言する。マスク越しでも、テノール歌手のように朗々とした美声だ。次いで、駿美に、優雅に深々とお辞儀をする。
 駿美は居心地が悪くなった。曖昧(あいまい)微笑(ほほえ)んで、同じ深さでお辞儀を返す。
 遊佐は、乗馬業界随一の実力者だ。日本最大の乗馬クラブチェーンを経営しているだけではない。一族から、何人もオリンピック選手を輩出(はいしゅつ)している。
 遠い親戚には、一九三二年のロサンゼルス・オリンピックの障害馬術で優勝した、『バロン西(にし)』こと西竹一(にしたけいち)男爵すらいる。だから、神格化されている。さらに、生まれてこのかた六十年間、一度も人の悪口を言ったことがない、人格者として尊敬を集めている。
 駿美が着席すると、遊佐は立ったまま演説を始めた。
「パリでは、今なおコロナが蔓延(まんえん)しているため、二〇二四年も東京でオリンピックを行う事態になりました。日本馬術界は、二〇二一年の汚名を返上するチャンスです。是が非でも、成功させねばなりません」
「特に、今回の近代五種の障害馬術は、貸与馬で絶対に成功させなければなりません。説得を続けていますが、馬術競技は、デンマークに持っていかれそうなので、なおさらです」
 東京オリンピック馬防疫委員長の中園(なかぞの)(はじめ)が、言葉を継ぐ。
 中園の本業は、NRA(日本競馬会)の防疫課長だ。
 中央競馬では、海外で活躍する馬が日本のレースに参加したり、逆に、日本の競走馬が海外レースに挑戦したりする事例も多い。だからNRAには、馬の感染症の防疫のノウハウが蓄積されている。二〇二一年のオリンピックに続き、NRA関係者がこのポストに()くのは適任と言えた。
 遊佐が(とが)めるような口調で問う。
「以前から国際馬術連盟内で、そのような意見があるとは聞いていました。けれど、馬術競技だけ他国で開催なんて、オリンピックなのに許されますか? 日本ではコロナ禍も去ったのに」
「前回のオリンピックで、熱中症で馬が三頭も死んだ事故のイメージが、今なお強いのです。しかも、死んだ馬の一頭は、英国王室のオリヴィア王女の馬でした。コロナの封じ込めで、人の医療の印象は良い。だが、馬の医療では日本の印象は最悪です」
 英国馬術連盟の名誉会長でもあるオリヴィア王女は、早くから国際馬術連盟に「日本で馬術競技をするなら、イギリスは馬術に人馬を出さない」と表明していた。他のヨーロッパ諸国のトップ・クラスの選手も追従して、大問題になっている。
 中園は、重々しく続ける。
「実際のところ、馬術競技の日本開催は(あきら)めています。ですが、日本で馬の感染症が蔓延して、近代五種の馬術まで行えなくなる事態は、断じて阻止しなければならない。来年には、『レーシング・ホース世界選手権(せかいせんしゅけん)』が始まるんです。馬の感染症が収まらなければ、海外から競走馬が来てくれないでしょう」
 駿美は隣の利根を突っついた。声を(ひそ)めて尋ねる。
「『レーシング・ホース世界選手権』って何?」
国際競馬統括機関連盟(こくさいけいばとうかつきかんれんめい)って組織があってね。そこが認定する世界一のG1レースにするために、NRAがアラブ首長国連邦(しゅちょうこくれんぽう)のシェイク・ザイヤーンと手を組んで行うレース。世界各国の年度代表馬が出場する予定。馬の感染症が流行している国なんかに、超のつく優良馬は来てくれないよ」
「ごもっともだけど、そんなに問題になるの?」
 利根は得意げに、駿美に講釈する。
「大問題だよ。このレースの収益は、日本で一番収益が多い『有馬記念(ありまきねん)』と同額と想定している。約五百億円。それがパーになる」
 駿美は生唾(なまつば)を飲み込んだ。利根は続ける。
「しかも、引退すれば種牡馬(しゅぼば)や繁殖牝馬(ひんば)として期待されている馬ばかりだ。高熱で無精子症にでもなったら、補償問題が勃発(ぼっぱつ)するよ」
「種牡馬って、どれくらいの値段なの?」
「今のところ、日本最高額は、伝説的な名馬の『ディープインパクト』。引退して種牡馬になる時、五十一億円で取引された」
 駿美は目を丸くした。
「そんな法外な値段で、元は取れるの?」
 会議室では、馬術競技のデンマーク開催に不満を持った遊佐が、経過の議事録を求めていた。三十代後半くらいのライトグレーのスーツの男が、鞄から資料を取り出す。中園の同伴者のようだ。
 しばらく時間が掛かりそうなので、駿美と利根はひそひそ話を続けた。
「サラ先生は驚いているけど、ディープインパクトは六十(くち)のシンジケートを組んだんだ。一口、八千五百万円ずつの負担だから、そこまで滅茶苦茶(めちゃくちゃ)な値段でもない。ディープは、一回三千万円で二百四十頭に種付けした年もある。だから、一年で元は取れる。通常、十年以上は種牡馬でいられるから、オーナーは丸儲(まるもう)けだ」
「そうか。公営競馬の競走馬は本交(ほんこう)しか認められていないから、種付け料が高騰するのね」
 馬術競技馬の世界では、体外受精も認められている。優秀な牝馬(ひんば)が、競技生活を送りながら、借り腹で子供を得る場合も珍しくない。
 しかし、公営競馬の競走馬は、「本交」と呼ばれる、実際の交尾(こうび)で生まれた馬しか認められない。
 利根の左隣に座っていた三宅が、口を挟む。
「競走馬は面倒くさいな。黒毛和牛なら凍結精子を使えるから、チャンピオンの種でも三千円だぞ」
 駿美と利根は、同時に噴き出した。前方にいる馬術界の重鎮(じゅうちん)たちに見つかる前に、駿美は急いで表情を引き締める。
「そんなに繁殖価値の高い馬ばかりが日本に来るんだ。じゃあ、日本で感染症のせいで繁殖能力を失ったら……」
 駿美の問いかけに、利根は(いかめ)しく答える。
「オリンピックで馬三頭が死んだどころの騒ぎじゃないね。馬業界で国際的に孤立するのは間違いない」
「馬インフルエンザを封じ込めて、病気がなくなったと国際獣疫事務局(OIE)に清浄化宣言をしないと、日本は『馬の鎖国』状態になるかもね」
 ひそひそ話が一段落する。駿美の目の端に、中園が立ち上がる姿が映った。
「遊佐先生と相談しました。インフルエンザ簡易検査キットで、四十頭中の三十三頭が陽性でした。念のため、全頭を二週間、この競技場に留め置きます。今からオーナーを全員集めて、遊佐先生から伝えます。事務局の方、手配をお願いします」
 貸与馬審査会の事務局員二人が、慌ただしく立ち去る。
「なお、近隣の馬の罹患状態を調べたり、競技場内の馬の健康管理をしたりする獣医師は、エクセレント乗馬クラブが協力してくれます。利根先生、オーナーとの話し合いに出席してください」
 利根は「マジか!」と呟いて、部屋を後にした。
「インフルエンザの確定検査は、NRA 競走馬総合研究所(きょうそうばけんきゅうじょ)で行います。競技場内の馬には、今日から七日目と十四日目に再検査をします。本日お集まりの獣医師、事務局の方々は、一週間後、再びここにご参集願います。毎週土曜日に、進捗(しんちょく)状況と今後の対策を報告します」
「マスコミには知らせるんですか?」
 会場のどこからか、質問が飛んできた。中園と遊佐は顔を見合わせた。一呼吸を置いて、遊佐が回答する。
「現時点では必要ないと考えます。世間は馬に対して、ほとんど興味はありません。この審査会にも、取材は来なかった。『感染症』と聞いて、(いたずら)に反応されても困ります。コロナ以来、国民は『感染症』に敏感になっています。馬だけの病気だと言っても、不安に思うでしょう」
 会場から反論は出なかった。中園が続ける。
「今は、感染経路の特定と、病気の封じ込めが最重要です。急いで発表して記者に彷徨(うろつ)かれるよりも、二週間後に『馬インフルエンザが発生していたが、沈静化した』と発表するほうがよいでしょう。情報漏洩(ろうえい)防止にご協力ください。以上です」
 中園が頭を下げたのを合図に、一同も立ち上がって礼をした。
 ざわつく会場から、人が減っていく。
(私は、山梨に残って診療しなくてもよさそうね。駒子と話してから、いったん、東京に戻ろう)
 駿美は鞄を整理し始めた。
「一ノ瀬先生」
 振り返ると、先ほど、遊佐に資料を渡していたライトグレーのスーツの男が立っている。
「急いでいますので、今は名刺だけ。いずれ、先生のご助言をいただきに、感染研まで出向くかもしれません」
 微笑む相手に、駿美も思わずネームタグの裏から名刺を取り出した。男は、嬉しそうに受け取り、すぐに立ち去った。
(初対面のはずだけど……。学会で会ったかしら)
 駿美は名刺を見た。
 所属は、NRA総研(NRA競走馬総合研究所)の分子生物研究室。馬のウイルス性疾患の診断、治療、予防をする最前線の施設だ。
 男の名前は、新山(にいやま)(とおる)だった。



(つづく)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み