『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!① 【もしかして、馬インフルエンザ?】
文字数 3,384文字
第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『馬 疫 () 』。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第1回です。
*
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。

第一章常歩 () -Walk-
一
隔離馬房 () の五頭の馬が、激しい咳 () をしながら、一斉に前搔 () きする。前搔きは、馬が何かを強く要求する合図だ。示し合わせたように、五頭の蹄 () がカツカツと不満のリズムを刻 () む。
一ノ瀬 () 駿美 () は、手近な馬の首筋をポンポンと叩 () いて宥 () めた。馬体は熱っぽい。首には、白く泡 () 立った汗が浮かんでいる。
(もしかして、馬インフルエンザ?)
馬インフルエンザは、二〇〇七年に大流行して以来、日本では発生していない。だが、今日は複 数の馬が同時に、激しい咳と、発熱、発汗を見せている。単なる風邪 () とは思えない。
「……クイック・チェイサーは持ってきていませんか? 手持ちになくても、北杜 () 市の保健所なら持っているはずです」
駿美がインフルエンザ診断キットの取り寄せを主張すると、目の前の一頭が、同意するようにブフフーンと鼻を鳴らした。
ティーカップを満たせるくらいの多量の洟水 () が飛び散る。駿美と、居合わせた利根 () 豊 () と三宅 () 俊次 () は、マスクを手で押さえて反射的に後退 () った。
二〇二四年一月。山梨県北杜市小淵沢町 () にある馬術競技場では、オリンピックの近代五種競技に提供する候補馬の、最終審査が実施されていた。
駿美たち三人は、日馬連 () (日本馬術連盟 () )の登録獣医師だ。馬術大会に呼ばれて、試合の前後で馬の健康チェックをしたり、ドーピング検査用の検体を採取したりする。トラブルがあれば診療もする。
今日は、オリンピックでの獣医師の作業の予行演習も兼ねている。大会で顔を合わせる機会が多い三人だが、普段の生活は三者三様だ。
駿美は、八年前に都 () 大学で獣医師免許を取得後、感染研 () (国立感染症研究所 () )で馬のウイルス病の研究をしている。実家が乗馬クラブで、馬場馬術競技の元全日本チャンピオン。オリンピック出場も夢ではない成績を上げていた。
獣医師仲間や乗馬関係者からは、馬の品種に擬 () えて「サラブレッド () 先生」と渾名 () を付けられている。輝かしい経歴が由来だと思いたい。だが、実際のところは、筋トレが趣味で百六十七㎝・五十五㎏の細マッチョな体型をしていることを、揶揄 () されているようだ。
利根は、競馬好きが高じて馬の獣医師になったらしい。だが、馬の特質を勉強しても、馬券では勝てないとボヤいている。駿美と同い年だが、乗馬はできない。全国に十五ヶ所ある最大手の乗馬施設『エクセレント乗馬クラブ』に、最近、転職したばかりだ。小柄な身体 () つきなので、仲間内では名字と当歳馬 () をもじって「とねっこ先生」と呼ばれている。
三宅は家畜の獣医師を多く抱える農業共済組合の出身で、十年前に四十歳で独立した。馬だけでなく、牛や豚も治療する現場叩き上げの大動物 () 獣医師だ。「馬のまち」を標榜 () する小淵沢に住み、近辺を往診している。大柄でむっちりした体型なので、関係者からは「肉用馬のようだ」と囁 () かれている。
利根が、ボソリと何かを呟 () いた。だが、マスク越しで聞こえづらい。二〇二〇年のコロナ禍以来、マスク着用が常識とはいえ、診療方針をテキパキと話したい時には煩 () わしい。
「とねっこ先生、何か言った? マスク越しで聞こえなかったから、もう一度、お願い」
駿美が促 () すと、代わりに三宅が大声で応 () えた。
「『今年は東京オリンピックだから、検査して、馬インフルエンザが出てきたらマズい』って言ったんだ」
利根がマスクをはずして補足する。
「コロナが収まらないパリの代わりに、東京で二回続けてオリンピックをやるんだよ。『日本の馬に感染症発生』なんて、聞こえが悪すぎるよ」
(聞こえが悪いからって、病気を隠していいわけがないでしょ!)
納得がいかない気持ちを込めて、利根と三宅を睨 () む。だが、二人は無言で目を逸 () らすだけだった。
オリンピックでは、馬を使う競技が二つある。馬術競技と近代五種競技だ。
馬術競技には、馬場、障害、総合の三種目がある。選手は一つの種目に出場し、自分の持ち馬で競技を行う。勝負は、人間よりも馬の能力が決め手となりやすい。
一方、近代五種競技は、フェンシング・ランキングラウンド、水泳、フェンシング・ボーナスラウンド、馬術、レーザーラン(ピストル競技)の五種目を一人で行って、総合点を競う。馬術は障害のみを行い、「百二十㎝の障害を飛べる貸与馬」で競技を行う。騎乗する馬は抽選で決まる。なるべく馬の能力の差をなくし、人間の能力のみを評価したいからだ。
近代五種の国際大会では、貸与馬は開催国が用意する規則になっている。二〇二四年の東京オリンピックでは、乗馬クラブなどから約四十頭が選ばれる計画になっていた。二〇二一年の東京オリンピックの時と同じだ。
持ち馬がオリンピックに参加すれば、乗馬クラブは、この上もない名誉と宣伝効果が得られる。
二〇二一年の後も、「オリンピックに出場した馬で競技会に出られる」と乗馬会員に触れ回って荒稼ぎしたクラブが、ずいぶんとあったようだ。
二〇二四年の近代五種の貸与馬も、提供したい乗馬クラブが全国から名乗りを上げた。だが、オリンピック直前に、山梨県馬術競技場で一ヶ月間、調教合宿を行う事情を理由に、「小淵沢近辺で馬を集める」と地元の乗馬クラブが押し切った。
「馬インフルエンザが発生したら、東京オリンピック馬防疫 () 委員会が調教場所を変更するかもしれない。『うちの馬を選べ』って、全国のクラブが、また大騒ぎするよ」
利根は、さっきよりも強く、インフルエンザ検査に反対した。
利根が勤めるエクセレント乗馬クラブの社長は、乗馬俱楽部振興協会の会長で、日馬連の獣医委員長でもある遊佐 () 大騎 () だ。遊佐の面子 () を潰 () しかねない行為は断じて拒否したいらしい。
(人の都合で隠すことばっかり考えて。どうやったら説得できる?)
三宅は苛 () ついた様子で言い放つ。
「だいたい、馬インフルは、一週間もすればケロッと治るし、人には感染 () らない。最近は、鳥インフルエンザやCOVID ―19が話題になったせいで、市民は動物由来の感染症に必要以上に敏感だろ? 日本の馬が世界に批判されたら、一ノ瀬先生は責任を取れるの?」
駿美は一瞬、言葉に詰 () まった。だが、気合いを入れ直して、言い返す。
「馬インフルエンザは届出伝染病です。家畜保健衛生所 () に届け出る義務があります。何より、凄 () まじい感染力だから、早く馬の移動を制限しないと、日本中の馬が罹患 () しますよ」
二〇〇七年に競走馬を中心に大流行した時は、数百頭が発症したそうだ。その影響で、北京オリンピックの予選会も中止になったはずだ。
三宅は、わざとらしく首を振った。
「大袈裟 () な。感染研の学者先生は、暗記している教科書どおりに物事を考える」
駿美は憤慨 () して反論しようとした。
その時、隔離馬房の入口から、足音が近づいてきた。
(つづく)
茜灯里さんによるミステリー長編『
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第1回です。
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2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。

第一章
一
(もしかして、馬インフルエンザ?)
馬インフルエンザは、二〇〇七年に大流行して以来、日本では発生していない。だが、今日は複 数の馬が同時に、激しい咳と、発熱、発汗を見せている。単なる
「……クイック・チェイサーは持ってきていませんか? 手持ちになくても、
駿美がインフルエンザ診断キットの取り寄せを主張すると、目の前の一頭が、同意するようにブフフーンと鼻を鳴らした。
ティーカップを満たせるくらいの多量の
二〇二四年一月。山梨県北杜市
駿美たち三人は、
今日は、オリンピックでの獣医師の作業の予行演習も兼ねている。大会で顔を合わせる機会が多い三人だが、普段の生活は三者三様だ。
駿美は、八年前に
獣医師仲間や乗馬関係者からは、馬の品種に
利根は、競馬好きが高じて馬の獣医師になったらしい。だが、馬の特質を勉強しても、馬券では勝てないとボヤいている。駿美と同い年だが、乗馬はできない。全国に十五ヶ所ある最大手の乗馬施設『エクセレント乗馬クラブ』に、最近、転職したばかりだ。小柄な
三宅は家畜の獣医師を多く抱える農業共済組合の出身で、十年前に四十歳で独立した。馬だけでなく、牛や豚も治療する現場叩き上げの
利根が、ボソリと何かを
「とねっこ先生、何か言った? マスク越しで聞こえなかったから、もう一度、お願い」
駿美が
「『今年は東京オリンピックだから、検査して、馬インフルエンザが出てきたらマズい』って言ったんだ」
利根がマスクをはずして補足する。
「コロナが収まらないパリの代わりに、東京で二回続けてオリンピックをやるんだよ。『日本の馬に感染症発生』なんて、聞こえが悪すぎるよ」
(聞こえが悪いからって、病気を隠していいわけがないでしょ!)
納得がいかない気持ちを込めて、利根と三宅を
オリンピックでは、馬を使う競技が二つある。馬術競技と近代五種競技だ。
馬術競技には、馬場、障害、総合の三種目がある。選手は一つの種目に出場し、自分の持ち馬で競技を行う。勝負は、人間よりも馬の能力が決め手となりやすい。
一方、近代五種競技は、フェンシング・ランキングラウンド、水泳、フェンシング・ボーナスラウンド、馬術、レーザーラン(ピストル競技)の五種目を一人で行って、総合点を競う。馬術は障害のみを行い、「百二十㎝の障害を飛べる貸与馬」で競技を行う。騎乗する馬は抽選で決まる。なるべく馬の能力の差をなくし、人間の能力のみを評価したいからだ。
近代五種の国際大会では、貸与馬は開催国が用意する規則になっている。二〇二四年の東京オリンピックでは、乗馬クラブなどから約四十頭が選ばれる計画になっていた。二〇二一年の東京オリンピックの時と同じだ。
持ち馬がオリンピックに参加すれば、乗馬クラブは、この上もない名誉と宣伝効果が得られる。
二〇二一年の後も、「オリンピックに出場した馬で競技会に出られる」と乗馬会員に触れ回って荒稼ぎしたクラブが、ずいぶんとあったようだ。
二〇二四年の近代五種の貸与馬も、提供したい乗馬クラブが全国から名乗りを上げた。だが、オリンピック直前に、山梨県馬術競技場で一ヶ月間、調教合宿を行う事情を理由に、「小淵沢近辺で馬を集める」と地元の乗馬クラブが押し切った。
「馬インフルエンザが発生したら、東京オリンピック
利根は、さっきよりも強く、インフルエンザ検査に反対した。
利根が勤めるエクセレント乗馬クラブの社長は、乗馬俱楽部振興協会の会長で、日馬連の獣医委員長でもある
(人の都合で隠すことばっかり考えて。どうやったら説得できる?)
三宅は
「だいたい、馬インフルは、一週間もすればケロッと治るし、人には
駿美は一瞬、言葉に
「馬インフルエンザは届出伝染病です。
二〇〇七年に競走馬を中心に大流行した時は、数百頭が発症したそうだ。その影響で、北京オリンピックの予選会も中止になったはずだ。
三宅は、わざとらしく首を振った。
「
駿美は
その時、隔離馬房の入口から、足音が近づいてきた。
(つづく)