【講談社文芸文庫】『行ったり来たり——藤枝静男の「白柘榴」』

文字数 2,135文字

【2021年1月開催「2000字書評コンテスト:講談社文芸文庫」受賞作】


行ったり来たり——藤枝静男の「白柘榴」(『志賀直哉・天皇・中野重治』所収)


著・ふじみみのり

 ここで取り上げるのは、批評的関心から『志賀直哉・天皇・中野重治』を手に取る多くの人が目当てとするだろう表題作ではない。その「師匠」である志賀の死の前後、藤枝がある果物をめぐって「志賀さん」に対して抱いた想いが綴られている、わずか数ページだが著者の魅力が結晶している作品、「白柘榴」である。

 かくいう私も批評的関心から本作を開いたのだが、目次に並んだ「白柘榴」の三文字に目を奪われてしまった。柘榴とは普通、割ったらルビー色の粒々がぎっしり詰まっていて、食べると口やら手やらが赤く滴る果物と決め込んでいた私は、白い柘榴を見たことがない。「白柘榴」とは一体どんなものなのだろう。思いに取り憑かれて頁に飛べば、冒頭一行、こう書いてある。


「白と云っても実際は薄クリーム色で、実も黄色っぽい色をしている。」


 「十年ほど前」、珍しいからと植木屋が志賀氏にくれたという白柘榴の木になった実を二個もらい受けて浜松に持ち帰った藤枝は、一つを友人にやって、もう一つを自身で「食いつくしたのち」種から育て、その苗木の二つを「志賀さん」家に持って行く。しかし、志賀はこれを人にあげてしまう。

 「昨年」になって藤枝の家に植られた二本は沢山の実を結び、藤枝はこれを「志賀さん」に持って行きたいと願う。会いに行けた日に、立派な白柘榴の実を持参するも、食事を拒み点滴で栄養を摂る師の寝顔を前に、声をかけることはしない。医者である藤枝は、志賀の白蠟色ではあるが赤身のさす頬、乾いていない皮膚を見て、これならまだ恢復するのに! と、点滴以外を受け付けない志賀に対して癇癪を起こしたいような気にさせられる。

 ——志賀の死はこの文章には出てこない——

 告別式以来七ヶ月ぶりに上京したという「今年の五月」、志賀宅の変わりない様子と、つつましく夫人の部屋に置かれているという骨壺の話から、藤枝は「本当に自然でふさわしいことだ」と思う。志賀宅の庭には、おそらく最初に藤枝がそこから実をもらっただろう柘榴の木が花を咲かせていた。

 

 冒頭の柘榴の説明に続くあらすじは以上、これだけだ。柘榴を浜松に持ち帰り、食べて育てて苗木を東京に持って行き、実を病院に持って行き、最後には柘榴の木を志賀の家で見る。志賀から柘榴の実をもらった藤枝がその「お返し」のようにする試みは二回とも頓挫してしまうが、最初に出てきた一本の木から与えられた二つの実が食べたりや種を介してで増えたり減ったりしている様子は、簡潔な叙述の中でなんだか忙しなくて、その背後にある志賀の死とは裏腹に愉快ですらある。

 さて、藤枝の持ち帰った実の二個のうち、一つは藤枝に食べられたが、もう一つはといえば、藤枝の友人に渡っている。その友人はあんまり綺麗だからと柘榴を食べずに飾ってカラカラに乾かしたあと、桐箱にしまったらしいと書かれてある。こっちは増えも減りもせず、ただ静かに保存される。——志賀の死顔はカラカラに乾いていたのだろうか。夫人の部屋にあって骨壺に入れられたそれを、藤枝はどうやら見に行こうとはしていない。そのかわり藤枝が見たのは、十年の時を経て根づき続けている志賀の柘榴の木だった。この木から始まって、この木に終わるこの話は、ロマンでもなんでもないが、途中多くの展開と分岐を豊かに含む。彼らの友人関係の中で白柘榴は様々な場所に運ばれ、色々と人を喜ばせたのではないかと想像できる。


 浜松と東京の間をせっせせっせと動き回る藤枝に対して、この文章のなかで志賀は動かず、まるでずっと同じところにいるような印象がある。最後に報告される庭にそのまま健在していた柘榴の木は、藤枝にどんな印象を与えたのだろうか。

 古くは豊穣の象徴ともされる柘榴の実が、桐箱に入れられて静かになったように、志賀もまた小さな骨壺に入れられる。それでも、柘榴の木はまだ生きていて、藤枝がそこに志賀の面影を見たかどうかはわからないものの、こちらはなにか安心させられるような気持ちになる。

 これを読んで勝手に、志賀が「まだ生きている」ような気がする、とはおそれおおくも言えないが、セザンヌの静物画(still life)に描かれた果物がそこにあるような気はしないがよく描かれていて見るものにそれを飲み込ませる力があるように、なんとなく窺い知れる「果物」がこの随筆には書かれてような気がした(ちなみに、藤枝はセザンヌが好きだったらしく、美術展に行った感想を書いたりもしている)。

 私はこれを読んで数年、白柘榴にお目にかかれたことがない。そもそも柘榴を最後に食べたのはとうに昔のような気がする。白柘榴、いつかどこかでその肉感を知ることができるのだろうか、特段知りたいと願うわけではないが、足を動かしているうちに出会うかもしれないと思うと、なんだか少し恐縮するのだった。

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