「雨を待つ」⑪ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ
文字数 1,518文字
あの夏の終わりの喪失 感を嫌でも思い出した。やる気のない、おざなりな仕事で、もし足を怪我する選手が出てしまったら。グラウンドが原因で、俺と同じ絶望を味わう人間が生まれてしまったら……。
「それは、嫌です!」思わずそう答えていた。あわてて「いや、その……、覚悟がないわけやなくて」と、前のめりで島さんに訴えた。頰が熱くなった。
「わかっとる」
そこで、はじめて島さんは温和な笑みを浮かべた。
「これも失礼な話やけど、君の年で、あれだけの挫折 () を味わう人間なんてそうそうおらんで。だからこそや。だからこそ、長谷君なら選手の気持ちや要望に、しっかりよりそえると思う。頼りにしてるで」
それ以来、自分を見失いそうになると、島さんの言葉を思い出した。
才藤に会いたくないなどと、子どもみたいな駄々をこねている場合ではない。もう、俺と才藤の立場は遠く離れている。才藤たちプロの選手が怪我に泣くことのないように、全力でサポートすることが、今の俺の仕事なのだと言い聞かせた。
翌朝、寮を出て、自転車に乗った。
ふだんとは反対方向へ進んでいく。海が近くなってくると、潮のにおいが濃くなった。住宅街から、埋め立て地の工業地帯へと徐々に風景がかわっていく。大型のトラックやダンプカーが広い道路を盛んに行き交う。
二軍戦が行われる鳴尾浜球場に到着し、現場のリーダーに挨拶をすませた。グラウンドに出てまず戸惑ったのは、甲子園球場と違って選手との距離がかなり近い点だ。
一軍では、練習に必要なケージやネット、道具類も、阪神園芸が出し入れをする。そんなの、プロなんだから当たり前だと思っていた。しかし、この二軍球場では若手選手も率先して、道具の用意や片づけ、球拾いを行っている。当然、ルーキーの才藤の姿もあった。
卒業式以来だった。連絡はいっさいとっていない。才藤は今、球場に隣接している独身寮で生活しているはずだ。
才藤の顔には、ほどよい緊張感がみなぎっている。選手との距離が近いのは、ファンも同じだ。鳴尾浜で行われる二軍の試合は無料で観戦できるから、熱狂的なファンがこぞってつめかける。鳴り物の応援が禁止ということもあって、痛烈な野次もよく通る。おまけに、寮はとなりだから、出待ちでサインや握手を求めるファンも多いらしい。高校時代とはくらべものにならないほど多くの視線につねにさらされ、野球漬けの毎日を送っているはずだ。
俺はグラウンドの端に待機しながら、バッティング練習を眺めていた。巨大なケージが二つならんで、二人のバッターが同時に打てるようになっている。一軍になかなか定着できない選手も、バッティングピッチャー相手なら、本当によく飛ばす。甲子園と遜色 () ない広さの鳴尾浜球場の青空に、白球のアーチがかかり、無人の外野スタンドに消えていった。
二人のバッターが交互に放つ打球が、晴れた空に舞い上がる。バックスクリーンの向こうに、厚い雲のかたまりが浮かんでいた。
仮に俺が肘を手術したとしても、去年の夏までのような、満足いく投球はできないだろう。変化球を織り交ぜ、緩急を駆使したとしても、目の前のプロのバッターを抑えられる自信はあまりなかった。
次に打席に入ったのは、才藤だった。
律儀にヘルメットを取って、頭を下げる。いまだに気合いの入ったボウズ頭だった。短く刈った毛が、汗で濡 () れて光っている。
バッティングピッチャーが投げはじめる。しかし初球でいきなり、どん詰まりのボテボテのゴロを転がし、才藤はさっそく野次られていた。
「おい、期待の大型新人! しっかりせぇ!」
→⑫に続く
「それは、嫌です!」思わずそう答えていた。あわてて「いや、その……、覚悟がないわけやなくて」と、前のめりで島さんに訴えた。頰が熱くなった。
「わかっとる」
そこで、はじめて島さんは温和な笑みを浮かべた。
「これも失礼な話やけど、君の年で、あれだけの
それ以来、自分を見失いそうになると、島さんの言葉を思い出した。
才藤に会いたくないなどと、子どもみたいな駄々をこねている場合ではない。もう、俺と才藤の立場は遠く離れている。才藤たちプロの選手が怪我に泣くことのないように、全力でサポートすることが、今の俺の仕事なのだと言い聞かせた。
翌朝、寮を出て、自転車に乗った。
ふだんとは反対方向へ進んでいく。海が近くなってくると、潮のにおいが濃くなった。住宅街から、埋め立て地の工業地帯へと徐々に風景がかわっていく。大型のトラックやダンプカーが広い道路を盛んに行き交う。
二軍戦が行われる鳴尾浜球場に到着し、現場のリーダーに挨拶をすませた。グラウンドに出てまず戸惑ったのは、甲子園球場と違って選手との距離がかなり近い点だ。
一軍では、練習に必要なケージやネット、道具類も、阪神園芸が出し入れをする。そんなの、プロなんだから当たり前だと思っていた。しかし、この二軍球場では若手選手も率先して、道具の用意や片づけ、球拾いを行っている。当然、ルーキーの才藤の姿もあった。
卒業式以来だった。連絡はいっさいとっていない。才藤は今、球場に隣接している独身寮で生活しているはずだ。
才藤の顔には、ほどよい緊張感がみなぎっている。選手との距離が近いのは、ファンも同じだ。鳴尾浜で行われる二軍の試合は無料で観戦できるから、熱狂的なファンがこぞってつめかける。鳴り物の応援が禁止ということもあって、痛烈な野次もよく通る。おまけに、寮はとなりだから、出待ちでサインや握手を求めるファンも多いらしい。高校時代とはくらべものにならないほど多くの視線につねにさらされ、野球漬けの毎日を送っているはずだ。
俺はグラウンドの端に待機しながら、バッティング練習を眺めていた。巨大なケージが二つならんで、二人のバッターが同時に打てるようになっている。一軍になかなか定着できない選手も、バッティングピッチャー相手なら、本当によく飛ばす。甲子園と
二人のバッターが交互に放つ打球が、晴れた空に舞い上がる。バックスクリーンの向こうに、厚い雲のかたまりが浮かんでいた。
仮に俺が肘を手術したとしても、去年の夏までのような、満足いく投球はできないだろう。変化球を織り交ぜ、緩急を駆使したとしても、目の前のプロのバッターを抑えられる自信はあまりなかった。
次に打席に入ったのは、才藤だった。
律儀にヘルメットを取って、頭を下げる。いまだに気合いの入ったボウズ頭だった。短く刈った毛が、汗で
バッティングピッチャーが投げはじめる。しかし初球でいきなり、どん詰まりのボテボテのゴロを転がし、才藤はさっそく野次られていた。
「おい、期待の大型新人! しっかりせぇ!」
→⑫に続く