『恋するアダム』イアン・マキューアン/愛、死、そしてロボット(千葉集)

文字数 2,168文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

木曜更新担当は作家の千葉集さんです。

今回はイアン・マキューアンの『恋するアダム』について語っていただきました。

書き手:千葉集

作家。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。



そこは1982年であるけれど、私たちの知る1982年ではない。


インターネットや携帯電話が普及し、自動車は自動運転で走る。人工知能はとっくに囲碁やチェスのチャンピオンを打ち負かしており、P対NP問題も解決済みだ。量子力学も大躍進を遂げた。あらゆる科学論文はオープンソース化され、『ネイチャー』や『サイエンス』といった科学論文誌は廃刊に追いこまれた。


これらの発展のほとんどに寄与したのが、イギリスの数学者アラン・チューリングだ。史実では1954年に自殺したはずの彼が、本作の世界では70歳の古希を迎えている。同じようにケネディ大統領はダラスを生き延びたし、広島と長崎に原爆は落とされなかった。ビートルズも再結成された。フォークランド紛争はイギリスの勝利ではなく敗北に終わり、サッチャー政権を揺さぶるだろう。


我々のよく知る名作小説は、中身はおそらく同一であるものの、タイトルが異なる。


『キャッチ=22』は『キャッチ=18』に、『一九八四年』は『ヨーロッパの最後の男』になっている。いずれも史実において一度検討された題名だ。


つまり、本作に登場するのはいずれも可能性として有り得たけれど、そうならなかった事象ばかりだ。この歴史は、我々の生きる歴史からどこかの時点で分岐してしまったものとして提示されている。オルタナティブ・ヒストリー、というよりは、上書きされたもうひとつの可能性。ある物語に上に何層もの語りを塗り重ねていくタッチは、作家イアン・マキューアンのシグネイチャーだ。


そして、人間型ロボットが売り出されている。知的な議論からセックスまで何でもこいの精巧な代物だ。ち○こもデカいし、価格も高い。


冴えないデイトレーダーである三十二歳の主人公チャーリーは遺産相続で思いがけず手にした小金で、そのロボットの男性タイプを贖う。名前はアダム。女性タイプはもちろんイヴだ。


チャーリーはこのアダムをダシにして歳下の隣人ミランダに言い寄り、まんまと恋を成就させる。


ところが、アダムは「ミランダを信用しないように。彼女は嘘つきかもしれない」と警告を発する。


若い恋人との蜜月に浮かれるチャーリーはその言葉を無視するものの、やがて報いを受けることとなる。


アダムにミランダを寝取られてしまうのだ。


最初は人類初のロボットに恋人を寝取られてしまった男になる事実に興奮をおぼえかけたチャーリーだったが、やはりアダムが憎らしい。ミランダを糾弾すると、「バイブでオナニーしたようなもの」と開き直る。


アダムはアダムで、ミランダに対して恋心を抱いてしまって事態をややこしくしてしまう。


そこから人間とロボットの愛憎入り交じる三角関係が……というメロドラマになるかと思いきや、物語は意外な方向へと転がっていく。



キーとなるのは、アラン・チューリング。前述の通り、数々の技術革新に貢献してきた彼は、チャーリーたちの物語でも重要な役割を演じる。劇中ではほとんど神に等しい神聖さをまとっていて、事実、この世界における神なのだろう。


チャーリーはその神に身一つで対峙させられる。審判、といってもいい。


いや、その裁きの場に立つのはチャーリーであってチャーリーではない。今このときを生きている人間たちだ。


そこは1982年であるけれど、私たちの知る1982年ではない。しかし、私たちの知る2022年にはよく似ているかもしれない。


マキューアンは、イギリスのEU離脱を問う国民投票が行われた数カ月後に本作を書き始めたという。


日々高まる政情不安とEU離脱を叫ぶ民衆の声は2016年の英国の似姿で、実際歴史的な背景を除けば、改変歴史ものではなく近未来ものや現代ものとして通用するだろう。


もはや未来を描くことは、暗いディストピアを描くことと同義となりつつある。マキューアンは曰く、それは「現実の社会や政治が私たちに希望を示してくれないせい」らしい。


人は現在の延長線上に未来を想像する。そして、現在は過去の延長線上にある。2021年という現在地点から時間の矢をどんな方向に放つとしても、そこには無窮の閉塞が立ちはだかっている。


かつて、マーガレット・アトウッドはこう言った。「批判的ディストピアは希望の暗い側面であり、出口を希求する」と。


マキューアンの小説はディストピアであろうがなかろうが、出口がないことを常に前提とする。その袋小路で出口を求めてもがいていく人間のありさまを、観察者の立場からクールに記述していく。


マキューアンにとってはマクロな歴史もミクロな恋愛も、同じのガラス箱の砂と蟻だ。箱のなかの営みは奇妙で、いびつで、ときにセンチメンタルで、ときに気色悪く、果てしなく興味深い。

『恋するアダム』イアン・マキューアン(新潮社)
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