主婦になるには、理由が必要な時代?

文字数 2,875文字

6月に講談社文庫から刊行された朱野帰子さん『対岸の家事』。

家事って果てしないもの。しかも上手くできたからって、誰も褒めてくれません。私、乳飲み子抱えているんだけど! それでもおかずを3品も作ったんだけど! 自分のお化粧を後回しにして洗濯したんだけど! そんなことを大声で言ったって、「ふーん」で終わりそう。いや、そもそも大声で言えない。だって、できて当たり前だから。

本書は、名も終わりもない家事に向き合う、専業・兼業主婦&主夫たちの物語です。今回、刊行を記念して、文庫版あとがきを特別に公開! ようこそ、終わりなき「家事」の世界へ――。


朱野帰子

1979年生まれ。2009年『マタタビ潔子の猫魂』(MF文庫ダ・ヴィンチ)で第4回ダ・ヴィンチ文学賞を受賞しデビュー。既刊に、『わたし、定時で帰ります。』(新潮社)、『賢者の石、売ります』(文藝春秋)、『海に降る』(幻冬舍文庫)、『超聴覚者 七川小春 真実への潜入』『駅物語』(講談社文庫)などがある。

「文庫版に寄せて」


 文庫版『対岸の家事』をお読みいただき、ありがとうございます。

 ここを読んでいるということは、物語の最後まで読んでくださったのでしょうか。

 この小説は書くことを決めてから、書き終わるまで五年くらいかかりました。


 専業主婦を主役にした小説を書くきっかけを作ってくれたのは、大学の後輩です。元書店員だった彼女は、私が作家デビューしたことをとても喜んでくれました。

「あのね、あんまり自分の本が置かれた棚の前をウロウロしないほうがいいですよ。朝礼でたまにあるんです。『あの棚の前を何度も行き来している不審な人物は、著者さんですので、気にしないように』というお達しが」

 そんなことも教えてくれました。

 彼女は「毎号届くあれこれを集めるとなんと凄いものができる!」というシリーズの本の棚の担当でした。予約しておいて取りに来ないお客さんがいる、とにかく「毎号届く」のでバックヤードに溜まりまくって困っている、などと面白おかしく仕事の話をしてくれた彼女は、その職場が二社目でした。


 妊娠と同時に書店をやめた彼女は専業主婦になり、私が久しぶりに会った時には生まれたばかりの赤ん坊の世話をしていました。夫婦でどんな話し合いをしてそういう決断に至ったのかはわかりません。ただ、すでに同年代は共働きが普通になっていたので驚いたことはたしかです。


 そんな私の心中を見透かすように、彼女は淡々と言いました。

「この子を連れて児童館に行ったとき、育休中の人に訊かれたんです。お仕事は何してるの? って。家事と子育てですけど、と言ったら、それは仕事じゃないって返されました」


 彼女と別れて、少ししてから、何度咀嚼しても飲みこめない、なんとも言えない気持ちが生まれてきました。


 子供の頃、女性は結婚したら主婦になるのが当たり前でした。世の中すべてが「女は主婦になるもの」と大合唱しているように感じられて、キャリアウーマン(というほど輝かしいキャリアはないですが)になった後も、主婦にならない理由を世間に説明するのに必死でした。

 でも、そうか、主婦ってもうマジョリティではないんだ。なぜ主婦になったのか、その理由を説明しなければいけない時代になったんだ。


 大きい風が吹いたんだ、と思いました。


 だけど、じゃあ、誰が家事をやるんだろう?


 大学の後輩が「仕事じゃない」と言われたこの労働は今もなくなってはいません。家電の発達で炊事掃除洗濯はだいぶ楽になりましたが、育児はむしろ昔より大変になったとも言われています。介護からだって逃れることはできません。ロボットがやってくれる未来はだいぶ先になりそうです。


 私は意地悪な人間です。専業主婦が絶滅しかかっている世界を書いてみたくなりました。彼女たちに頼れないその世界で私たちはどうやって家事をやりくりしたらいいんだろう? 家事をやったことがなさそうな人たちが作っている、この日本という国で。

 そして、マイノリティとなりつつある専業主婦の人たちの労働は、これからどう変化していくのだろう。


 なんだかんだ言って、私は労働について考えるのが好きなのです。

 お仕事小説を書いていると紹介されるより、労働小説を書いていると言われるほうが体に馴染む感じがします。

 ともあれ、子供の頃から身近だったからこそ、家事を書くことは、本当に難しかったです。とても長い時間がかかってしまいました。


 改稿を重ねているうちに、このテーマに取り組むことを応援してくれた編集者さんは担当を外れてしまいました。『駅物語』のときと同じく、イラストレーターの北極まぐさんとロケハンをして、詩穂の住む街を緻密に描いたイラストを作って待っていてくれたのに、刊行まで関わっていただくことができませんでした。


 でも、新しい編集者さんがその後を引き継いでくれました。我が子を保育園に送り迎えしながら、原稿の追いこみにつきあってくれました。家事をする男性の立場から意見をもらえたことで、ようやくラストが見えてきました。ちなみに彼は子供にとても優しくて、中谷があまり好きじゃなさそうです(笑)。


 近所に住む専業主婦の友人にも原稿を読んでもらいました。なかなかに厳しい読者でした。彼女が好きなのは、天井に映って揺れる光を見るシーンだそうです。「今日は鶏の胸肉を焼こう」と立ち上がったその友人が、「夕飯の献立が決まると楽になるな」と言い置いて去ったのが忘れられません。


 考えるのが遅くて、書くのも遅い私が、たくさんの方の助けを借りて、ようやく文庫版刊行までたどりつきました。


 文庫の担当編集者さんは中谷が嫌いじゃないそうです。文庫のために新たな装画を作ってくださいました。あわいさんが描いてくれた紫陽花の前に立つ詩穂がすごく愛おしくて、公園に行くなら虫除けスプレーを足にかけてって! 刺され跡ばかりになるよ! と、ついおせっかいを焼きたくなります。


 また、文庫には虎朗目線のアナザーサイドストーリーを収録していただきました。初代担当さんの依頼で「IN☆POCKET」という雑誌に書いた短編です。専業主婦とともに、奥さんが主婦の男性も少なくなっていくかもしれない。そんなことを考えながら書きました。

 最後に、この本の読者になってくださったあなたに感謝します。貴重な時間を私の書いた小説のために遣ってくださってありがとう。

 

ちなみに、詩穂が作っていたゴボウ入りのカレー、あれは会社員時代の職場の主婦パートさんが教えてくれたレシピです。歯ざわりがいいし、食物繊維もたっぷりとれて意外とカレーになじむんですよね。今日の

夕飯はそんなところでどうでしょう?


内容紹介:家族の為に「家事をすること」を仕事に選んだ詩穂。娘と二人だけの、繰り返される毎日。幸せなはずなのに自分の選択が正しかったのか迷う彼女の街には、性別や立場が違っても様々な現実に苦しむ人たちがいた。誰にも頼れず、限界を迎える彼らに、詩穂は優しく寄り添い、自分にできることを考え始める――。

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