「雨を待つ」⑤ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,727文字

 チームの良い雰囲気に水を差すわけにもいかず、誰にも言わなかった。痛みに耐えるような表情は、意識的につくらないようにしていたのだが、さすがに監督は俺の異変に気づいていたらしい。それでなくても連続の延長戦による疲労の蓄積は、いくら体力や体格に恵まれているとはいえ、高校生のキャパシティーを大きくこえていた。
 休養日をはさんで翌々日の決勝戦は、控えの二年生が先発することになった。ところが、初回から相手校に打ちこまれたのだ。
 空気、というものの存在を、野球をしていて、はじめて意識した。
 チームメートたちの、ナイトがマウンドに立ったらなんとかなるはず、という厚い信頼。監督の、一刻も早く長谷をマウンドに送りたい、という焦燥(しょうそう)葛藤(かっとう)
 そして何より、甲子園の満員の観客、四万七千人の、ナイトはまだか、という期待が目に見えない圧力になって迫ってくるようだった。実際、投球練習のため、ベンチを出てブルペンに立っただけで、試合そっちのけで大歓声がわきあがった。
 その声援で、監督も踏ん切りがついたのかもしれない。野球部創立以来、初の日本一がかかっていた。
「長谷、行けるか?」
 そう問われ、無意識のうちに、右腕をさすっていた。
 あと一試合なら、耐えられるやろ。
 いや、俺の野球人生はまだまだつづくんや。ここで無理をして、どないすんねん。
 決断を迫られた。相反する二つの気持ちは、ほぼ同じ重さで、俺の肩にのしかかってくる。だからこそ、天秤(てんびん)は揺れに揺れた。
 狭いベンチ内で、チームメートと監督の視線がいっせいに突き刺さった。選べない。ここで、逃げる選択肢は選べなかった。じりじりと登板の方向へ、気持ちがかたよっていった。
 腹をくくるしかない。自分自身を鼓舞するため──そして仲間たちを安心させるため、必要以上に大声を出した。
「行きます! 投げさせてください!」ベンチを出て、マウンドに走った。これでいいのか、ホンマに大丈夫なのか──そんな不安を打ち消すように、周囲を見まわした。
 揺れていた。メガホン、うちわ、タオル。観客それぞれが持っている物を打ち鳴らし、振りまわし、口々に俺の名前を叫ぶ。
 一つ大きく息を吐いた。
「先輩、すいません」うなだれる後輩ピッチャーの尻を軽くたたいて、早くも三回からマウンドにのぼった。
 すでに、投球練習の肩ならしだけで、腕がずきずきとうずき、痛んでいた。しかし、バッター相手に投げはじめると、何も感じなくなった。
 容赦(ようしゃ)なく降りそそぐ強烈な太陽光線が、体力を奪っていく。(あご)の先から汗がしたたり、甲子園の黒土に吸いこまれていく。右腕の感覚がなくなっていった。今まで何万球も投げてきた。体が覚えているその記憶にしたがって、キャッチャーミットめがけ、ただただ無心で腕を振り下ろした。
 七回。大阪創誠舎(そうせいしゃ)高校──味方チームのヒット数が、相手チームのそれを上回った。
 そして、九回表に逆転した。ほとんど悲鳴に近いような歓声が、球場中を席巻していた。それなのに、自分がこのゲームに関わっているという実感が、右腕の感覚とともにどんどん薄れていった。
 九回裏に、最後のマウンドに立った。ツーアウト、ツーストライクで相手打者のバットが空を切ると、真っ先にサードを守っていた才藤が駆けより、抱きついてきた。次にキャッチャーの小田(おだ)がマスクを放り投げて、飛びついてくる。外野からも、ベンチからも、次々とチームメートが自分のまわりに押しよせて、ようやく試合が終わったことをさとった。
 その瞬間だった。右肘のなかにまるで心臓がうめこまれているかのように、関節の部分がどくどくと熱く脈打った。激痛が走った。脳内で分泌(ぶんぴつ)されていた麻薬物質が、今、切れたのだと冷静にさとった。
 優勝したのは、もちろんうれしかった。努力が報われた。でも、泣かなかった。腕が痛くて、それどころではなかったのだ。
 閉会式のあと、大阪に戻って病院に直行した。右肘の剝離(はくり)骨折と診断された。このときも、涙はいっさい出なかった。


→⑥に続く

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み