『流星の絆』東野圭吾 冒頭無料公開! 4

文字数 5,340文字



 こんなところに旅館なんてあったんだな――奇麗に仕上げられた庭園を見つめながら功一は思った。様々な樹木が植えられ、小さな灯篭まで立っている。大きな石がところどころに配置されていて、それらには(こけ)が生えていた。
「いろいろと考えたんだけどね、火事ってことでどうかな」野口(のぐち)教諭がいった。
 功一は担任教師に目を戻した。「火事……ですか」
「うん。君たちの家が火事に遭ったってことにするんだよ。それで、御両親は病院に運ばれ、君たちはここに連れてこられた。とりあえずそういう説明でどうかな」野口は柔らかい口調で訊いてくる。ふだんは甲高(かんだか)い声が特徴なのだが、今日は低く抑えていた。いつもこんなふうにしゃべればホイッスルなんていう渾名(あだな)もつかないのに、と()せた顔を見ながら功一は思った。
 二人は旅館の一階にあるロビーにいた。ほかに客の姿はない。
 どうかな、と野口はもう一度尋ねてくる。
「妹には嘘をつくんですか」
「今だけだよ。とりあえず今だけ。妹さんはまだ小さいし、本当のことを知ったら、どんなショックを受けるかわからないだろう?」
「でも、いつかはわかっちゃうことだし……」
「そりゃあ、いつかは本当のことを話さなきゃいけないだろう。だけどね、今はまず、そういうことにしておいたほうがいいと思う。どうしてこんなところにいるのかということを納得させる必要があるだろ。お父さんとお母さんがいないことも説明しなきゃならない。そうして妹さんの気持ちが落ち着いた頃、折を見て話せばいいんじゃないのかな」
 功一は俯き、両手の指を組んだりほどいたりした。
 野口のいっていることはわかる。たしかに静奈に本当のことを話すのは(つら)い。悲しい事実を教えるのは、もう少し後回しにしたい気持ちはある。だが何かが釈然としなかった。それは、どうせ話すならいつでも同じ、というような単純なものではない。
「今、津島(つしま)先生が妹さんのそばにいるから、目を覚ましたらそのように話してもらおうと思っている。それでいいかい?」
 津島というのは静奈の担任教師だ。丸顔の女性だった。
「泰輔はどうするんですか。あいつ、嘘なんてつけないですよ。あんなふうになっちゃってるし」
 両親の死体を目撃した時から、泰輔の様子がおかしい。人に促されなければ、自分から動こうとは全くしないのだ。警察が来るのを待つ間も、(ひざ)を抱えてじっとうずくまっていた。この旅館に連れてこられた時も、表情のない顔で、ただ歩かされているという感じだった。今も部屋の隅で丸くなっているに違いなかった。彼が声を発するのを、功一は昨夜以来聞いていない。
「もうすぐ担任の岡田(おかだ)先生が来てくれるはずだから、弟さんのことはそれから考えよう。とにかく今は、妹さんにどう説明するかを決めとかないと」
 功一は曖昧(あいまい)な気持ちのまま頷いた。考えるべきことは山のようにある。明日からどうやって、いや今日からどうやって生きていくのか、というのもその一つだった。だが答えなどなかった。頭の中は嵐が過ぎ去った後のように混乱している。誰かが自分に代わって何かを考えてくれるなら、もうどうでもいいという気持ちもあった。
「じゃあ、そういうことでいいね?」
 はい、と功一は答えた。
「おっ、ちょうどよかった」野口教諭の視線が功一の背後に向けられた。
 功一が振り返ると、静奈が津島教諭に手を引かれ、彼等のところへ向かってくるところだった。Tシャツに短パンという格好だ。どちらも家を出る時に、功一が適当にバッグに詰め込んだものだ。
 津島教諭は野口と功一を交互に見た。
「目を覚ましたので連れてきました。それで、あの、どういうことに?」
「有明君も了解してくれました。だから、さっきの話で」野口は津島教諭に目配せした。
 わかりました、と女性教師は頷いた。
「津島先生、泰輔は?」功一は訊いた。
「婦警さんがついてくださってるから大丈夫よ」
「兄ちゃん、ここどこ? どうしてこんなとこにいるの? 父さんと母さんは?」静奈が訊いてきた。
 功一は困惑した。実際にどう順序立てて話せばいいのかわからなかった。
「有明さん、あのね、あなたたちの家がね、ゆうべ火事になったのよ」
 津島教諭の言葉に、静奈は少し眠そうだった目を大きく見開いた。あまりに驚きが大きいせいか、咄嗟(とっさ)に声が出ない様子だ。
「あなたたち、流星を見に行ってたんでしょ? 流れ星。それで助かったんだけどね、お父さんとお母さんは怪我をしてしまったのよ」
「えー」静奈は途端に泣きだしそうな顔になって功一を見た。「うそお」
「ほんとなんだ」功一はいった。「火事になったんだ」
「うち、燃えちゃったの? もうあそこに住めないの?」静奈の目は真っ赤になっていた。
「全部燃えたわけじゃない。だから……大丈夫だ」
「そうよ。家はまだ残ってるから安心して。でも今すぐは住めないから、しばらくはここにいることになったのよ」
「父さんと母さんはどこ?」静奈はあたりを見回した。
「今もいったように怪我をされたから、病院に運ばれたの」
「えー」静奈は(ゆが)めた顔を功一に向けた。「兄ちゃん、どうしよう……」
 功一は妹を励ましたいと思った。しかしいくら考えても、今ここで発すべき言葉が思いつかなかった。不安になっているのは彼自身も同じなのだ。自分たちはどうしたらいいのだろうと途方に暮れているのだ。
 その時、また一人、彼に近づいてくる人物がいた。
「ちょっといいですか」
 功一は顔を上げた。柏原だった。彼は二人の教諭にいった。
「功一君をお借りしたいんですが。これから現場の見分をするので、立ち会ってもらいたいんです」
「これからですか」野口が甲高い声を出した。「でも彼は殆ど眠ってないんですよ」
 それを聞き、柏原は功一を見下ろした。「無理かい?」
 功一はかぶりを振った。
「平気です。俺、行きます」それから津島教諭のほうを向いた。「妹のこと、よろしくお願いします」
「うん、任せて」
「兄ちゃん、どこ行くの?」静奈が訊いてきた。
「家に行ってくる。なんか、調べなきゃいけないことがあるみたいだから」
「シーも行く」
「おまえはここにいろ。兄ちゃんが先に見てくる」
「えー」
 お兄さんの邪魔をしちゃだめよ、と津島教諭が(たしな)めた。それで静奈も(あきら)めたようだが、別のことをいいだした。「先生、病院はどこ? 母さんたちのところへは行かないの?」
 それはもう少し後で、と津島教諭がごまかすのを聞きながら、功一はその場を離れた。
 旅館の前から柏原と共にパトカーに乗った。これで二度目だ。以前から、一度は乗ってみたいと思っていたのだが、こんな形で実現するとは夢にも思っていなかった。
「眠れたか?」柏原が訊いてきた。
 功一は黙って首を傾げた。だろうな、と刑事は(つぶや)いた。
 洋食屋『アリアケ』の前にはパトカーが何台も止まっていた。周囲にロープが張られたままだ。昨夜はいなかった野次馬が取り囲んでいる。大きなカメラを担いだ男とマイクを持った女性が、少し離れたところで向き合っていた。それを見て功一は、当分の間、ニュース番組は静奈に見せられないと思った。
 パトカーを降りると、警官たちに取り囲まれるようにして移動し、店内に足を踏み入れた。大勢の警官や刑事の姿があった。
 例の白髪頭の刑事が近づいてきた。「何度もすまないね」
 功一は無言で頷いた。
「早速だけど、家の中を見て回ってもらえるかな。何かいつもと違うところがあったりしたら、どんな小さなことでもいいから教えてほしいんだがね」
 はい、と功一は答えた。
 その作業は店の入り口から始められた。テーブルの間をゆっくりと奥に向かって進んだ。
 正直なところ功一は、何か違った点があったとしても、それを見つけられる自信がなかった。店内にしても家の中にしても、それほど注意深く観察したことがなかったからだ。父の幸博は気紛(きまぐ)れで時折テーブルの配置を変えたりしたが、功一が全く気づかなかったことさえある。
「カウンターの中はどうかな」白髪頭が尋ねてきた。
 功一はカウンターの内側に回り、調理器具や調味料などを眺めた。しかし特に気になるところはない。
「おたくじゃ、手提(てさ)げ金庫か何かは置いてなかったの?」
「金庫?」
「売上金を入れておくものだよ」
 ああ、と功一は頷いた。
「売上金はそこです」カウンターの内側を指差した。三十センチぐらいの大きさの四角いアルミ缶が置いてあり、マジックで『カレー粉』と記してある。
「えっ、その缶かい?」
「はい」
 白髪頭の刑事は缶を引き寄せ、手袋をした手で(ふた)を開けた。中には何枚かの札と小銭が入っていた。
「こんなところにねえ……」
「金庫なんか意味ないって、父さんが」功一はいった。「泥棒に、ここに金があるって教えるようなもんだって」
 白髪頭の刑事は、ほかの刑事と顔を見合わせた後、缶の蓋を閉じた。
 カウンターの横の扉を開け、奥に進んだ。功一にとって忌まわしい場所となった両親の寝室の戸が見える。あそこに入らねばならないのかと思うと気が重くなった。
「家に上がる前に、裏口のほうを見てもらえるかな」白髪頭がいった。
 功一は頷き、隅のドアを開けた。細い通路があり、その先が裏口だ。そこにも木のドアがついていて、当然施錠できるようになっている。
 裏口の手前にバケツが置いてある。その中に透明のビニール傘が一本、無造作に入れてあった。功一はそれに目を留めた。
「どうかしたかい?」刑事が訊いてきた。
「その傘、うちのじゃないです」功一はいった。
「えっ」刑事はバケツに近づいた。だが傘に触れようとはしない。「どうしてわかる?」
「だってそんなの誰も持ってないし、そこに傘を入れたらバケツを使う時に邪魔だって叱られるから、絶対にそんなことしないし」
 白髪頭の刑事はバケツから離れながら頷いた。それから別の刑事を手招きして呼び、耳元で何か(ささや)いた。
 その後、家の中も見て回ったが、ほかには大した発見はなかった。子供部屋は昨夜功一たちが抜け出した時のままに見えたし、両親たちの部屋に関しては、じっくりと観察する余裕がなかった。畳に付着した血の(あと)が、彼の網膜に焼き付いただけだ。
 功一が旅館に戻った時には昼近くになっていた。部屋に行くと静奈は大きな座卓の上で折り紙をしていた。その横に津島教諭もいた。泰輔は(ふすま)で仕切られた隣の間にいるらしい。
「あっ、兄ちゃん。どうだった? 家、残ってた?」静奈が訊いてきた。
「大丈夫だよ。そういってるだろ」功一は彼女のそばに腰を下ろした。
「有明君、ちょっといいかしら。電話をかけてきたいんだけど」津島教諭がいった。
 はい、と彼は答えた。
 津島教諭が出ていった後、彼は座卓の上を見た。「何やってるんだ」
「鶴。千羽鶴を作ってんの。母さんたちにあげるんだ」静奈は歌うようにいい、実際そのまま鼻唄を始めた。
 小さな手で丁寧に作られていく折り鶴を見つめるうち、悲しい思いが再び功一に襲いかかってきた。それはあっという間に彼の胸の中で膨張し、ついには心の壁を壊した。
 功一は静奈の手を掴んだ。彼女の手の中にあった折り鶴がつぶれた。
 静奈は(おび)えと驚きの混じった目で彼を見た。「兄ちゃん……」
「無駄なんだ、そんなの作ったって」
「えっ……」
 功一は立ち上がり、奥の襖を開けた。
「あっ、だめだよ。タイ兄ちゃんが病気で寝てるよ」
 たしかに泰輔は布団にもぐりこんでいた。功一はその布団をはがした。泰輔は驚きの表情を浮かべ、亀のように手足を丸めた。
 功一は静奈の手を掴むと泰輔の横まで引っ張っていった。痛いよ、と彼女はべそをかいた。そんな妹の頬を兄は両手で包んだ。
「シー、よく聞け。父さんも母さんも、もういないんだ。死んじゃったんだよ」
 静奈の大きな黒目がくるくると動いた。その直後、彼女の顔はみるみる紅潮した。
「うそだよおっ」
「嘘じゃない。火事なんかじゃないんだ。本当は殺されたんだ。悪いやつに殺されたんだ」
「うそだ。違うもん。兄ちゃんなんてきらいだ」
 静奈は功一の手をふりほどき、顔を歪ませ、手足を振り回した。泣きわめき、暴れた。
 そんな彼女を功一は上から包むように抱きしめた。いやあいやあ、と幼い妹はなおも暴れようとする。
「もう俺たちだけなんだ……」功一は絞り出すようにいった。
 その時、それまで固まっていた泰輔が、突然悲鳴のような声をあげた。今まで溜まっていたものを吐き出すように激しく号泣し始めた。


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