『香君』上下巻 評・瀧井朝世
文字数 1,018文字
『香君』上下巻 上橋菜穂子(文藝春秋)
毎回緻密に構築されたファンタジー世界で読者を魅了する上橋菜穂子。本屋大賞を受賞した『鹿の王』ではウィルスや医療といった題材が扱われたように、実社会の生活に繋がるような要素が盛り込まれるのが作品の特徴だ。新作『香君』で重要なモチーフとなるのは植物、そして農業。
奇跡の稲と呼ばれる、丈夫で育てやすいオアレ稲の栽培で発展を遂げてきたウマール帝国。人々の心の拠り所となっているのは、香りで万象を知るとされる〈香君〉の存在だ。ある時、藩王国を訪れた視察官の青年マシュウの目に留まったのは、特殊な嗅覚を持つ少女、アイシャ。命の危険にさらされている彼女を救ったマシュウは、そのまま帝都へと連れていく。実は彼にはアイシャの能力を必要とする秘密がある。
その頃、一部の地域でオアレ稲に害虫が見つかる。帝国の穀物生産はこの稲に依存しているため、もし収穫に影響があった場合、国は食糧危機を迎え、対外的にも大打撃を受けてしまう。アイシャは嗅覚を駆使して植物の声に耳を傾け、害虫の拡散を阻止しようと奔走する。しかし壁となるのは謎に次ぐ謎、陰謀と思惑、そして揺れ動く民衆心理。この、人々の心理がリアルに描かれるのが上橋作品の醍醐味のひとつ。たとえば突然、害虫がやってくるから今すぐオアレ稲を焼けと命令されても、現在何の被害もない農地の人々が素直に従うわけがない。その時にどう説得するのか。
自然の生態系の合理性と不可思議さを同時に味わえるのも魅力。その一部にすぎない人間がすべてをコントロールできるわけはない。そのなかで、いかに生きるか。今回もまた圧倒的な力強さで、読む側にも活力を与えてくれる長篇だ。
『コスメの王様』高殿 円(小学館)