(3/4)『水無月家の許嫁』冒頭試し読み
文字数 4,368文字
天女──
そう聞いてイメージできるのは、羽衣を纏い宙にふわふわと浮いた女神のような、伝承や昔話の中の存在、というくらいのもの。
にわかには信じられないが、水無月家とはその天女の末裔だという。
私と文也さんは、もっと詳しい話をするため明かりの付いた隣の部屋に移動した。
そこではスーツ姿の大人の男性が煙草を吸っていたけれど、私たちが来たとわかると「おっ」と声を上げ、煙草を灰皿に押し付け、立ち上がる。
ああ、この人は、セレモニーホールで文也さんの後ろにいた人だ。
ダークブラウンの髪をワックスで整えていて、見た目こそスマートで大人っぽいのだが、その人は私に向かって、思い切りよくニコッと笑った。
「六花さん、手の石のアレ、ちゃんと取れたんですねえ。良かった良かった」
どう返事をしていいのかわからず、控えめに頭を下げた。
そして私と文也さんは、お互いに用意されていた座布団に座って、向き合う。
私は浴衣姿で小さくなって緊張している。というか、いつ浴衣に着がえたんだろう。
さっきと違って明るい場所だし、畏まった感じがするし、私、きっと寝起きでボロボロだと思う。
「改めまして、僕は水無月家五十五代目当主、水無月文也と申します。そして、こちらは水無月皐太郎と申す者です」
「当主のご紹介に預かりましたとおり、俺は名を水無月皐太郎といいます。分家の人間です。ま、今回はボンの付き人って感じですかね」
文也さんの後ろに控えていた皐太郎さんは、私に向かって深く頭を下げながら、気持ちよく挨拶をした。本家とか分家とかよくわからないけど、同じ名字だし、普通に親戚ということでいいのかな。
「我々水無月の一族とは、先ほど申しましたとおり、天女の末裔に当たる一族です。六花さんは、天女の羽衣伝説をご存じでしょうか?」
文也さんが私に問いかける。
それは誰だって、一度は、絵本か何かで見聞きしたことがある昔話ではないだろうか。
「えっと、水浴びをしていた天女が、羽衣を盗まれて天界に帰れなくなったという……あの御伽噺ですか?」
「ええ。もう少し詳しくお話ししますと、天女が帰れなくなったのは月の世界です。我々は〝月界〟と呼んでいますが。天女はその後、自分の羽衣を奪った男に嫁ぎ、子を生し、人として生きたといいます。物語によっては、天女は羽衣を見つけて天に帰ったとも言われていますが……実際はそうではない。天女は月に帰れなかったし、最後は月に恋い焦がれながら死んだのです」
なんだか、予期しない方向に話が向かっている気がする。
「六蔵さんやあなたが発症した病は、我々の始祖である天女が、最後にかかった病と同じ〝月帰病〟といいます。天女の血を引く水無月の一族を、千年もの間、苦しめ続けている病です」
「……月帰病」
そう言えば、出会った時にも、その病の名を教えてもらった。
「原因は、天女の血を継ぐ我々の体に宿る、小さな〝種〟だと言われています。それが発芽し、体に青緑色の石を生やす。やがて妄執に囚われ、心も体も枯れ果てて、抜け殻のようになり、死に至る……」
「…………」
「あの石は、我々地球人にはただの鉱物に思えますが、月界における植物です。水無月の者であれば、その種を誰もが体内に宿しているのです。一生発芽しない者もいますが、一度発芽すると再発の恐れがあります。ゆえに、それを抑える薬を飲み続けなければなりません」
私は口を半開きにして、黙って聞いている。
それでも私が何とか話を飲み込めたのは、先ほどの、文也さんの治療を見ていたからだろう。あの石には確かに根のようなものがあったし、月の光に照らされて、ぼんやり光っていた。あれを見ていなかったら、きっと、何一つ信じられなかった。
「意味不明なお話を聞かせてしまい申し訳ありません。ですがご心配なく。あなたのことは僕が必ずお守りします。先ほどもお話ししましたが、僕とあなたは許嫁同士なのです」
許嫁、というワードが出て私はドキッとした。
色んなことがあって忘れかけていたけれど、そうだ。
この人は私と許嫁の関係にあると、出会った時にも言っていた。
「わ、わかりません。どうして許嫁なんですか? そもそも誰が勝手に……っ」
「あなたの父、六蔵さんと、僕とで決めたことです」
「え? お父さん……が?」
でもお父さんは親戚との関係を絶っていたはず。なのに、どうして。
「約一年前、六蔵さんが、本家を訪れたことがありました」
文也さんが、私の疑問を表情から読み取ったかのように、答えをくれる。
「六蔵さんはその頃より月帰病に侵されており、すでに治療困難な状態でした。もとより、六蔵さんにそれを治すつもりはなかったようですが」
文也さんは少しばかり私の顔色をうかがい、間をおいて、続けた。
「ただ、六蔵さんが気がかりだったのは、六花さん、あなたのことでした。水無月家の血を引き継ぐ以上、たとえその家と関係を絶ったとしても、血の因縁から逃れることはできない。六蔵さんは六花さんにいつか降りかかるかもしれない、水無月の呪いを憂いていたのです」
水無月の呪い……それはこの、病のこと?
「六蔵さんは僕に、あなたのことを託したいと言いました。そこで僕は、結婚という形であれば六花さんを一生守ることができると告げた。そうやって僕らは取り引きしたのです」
「どう……して?」
意味がわからなかった。どうして、お父さんが?
「どうして、あなたが私と? 私なんかと……」
正直言って、文也さんがそこまでする意味がわからない。この人なら、もっと条件のいい婚約者なんて山ほどいると思うのに。私なんて、何も持っていないのに。
「実のところ六蔵さんは、本家の長子……正統な本家の後継者だったのです」
文也さんは、また私の疑問を読み取ったかのように、淡々と語り続ける。
「六蔵さんが家を出たことで、本家は跡取り問題に直面しました。色々あって、分家の人間だった僕の父が本家の養子となり、今は僕が当主の座にいます。ゆえに、僕は正統な本家の血を継いでいない。水無月家にとって本家の長子とは、その血にとてつもなく大きな力と、意味を持っているのです」
それって、父が家を出て行ってしまったから、文也さんは本家を正統な血筋に戻すため、私と結婚しなくてはならない……ということ?
本家の長子の血が持つ、力と、意味というのがよくわからない。
ただ文也さんは、いたく切実な面持ちだった。なんだかまるで、こんな婚姻は申し訳ないとでも思っているかのように。
「僕のことを、すぐに信用することはできないと思います。しかし、生きるため、どうか僕と共に本家へと来てほしい。僕との婚約を受け入れてほしい。酷なことを言いますが、それ以外に、あなたが生き延びる方法はないのです」
「…………」
文也さんは、あえて逃げの言葉を使わなかったように思う。
「もし受け入れてくださったら、あなたの今後の生活については本家が全面的に保証いたします。正式な結婚は、それぞれが成人してからで構いません。今はただ、許嫁として、僕とともに本家へ」
何も言えない私が、血の気のない怯えた表情でもしていたのか。
彼の視線が、どこか自信なさげに逸らされる。
「やはり、嫌、ですよね」
……嫌?
私は頭が真っ白だったが、それゆえに、純粋に、彼との婚約が嫌かどうか考えてみた。
嫌だという感情は全くなかった。というか、無だ。
文也さんのことをほとんど何も知らないし、何の実感もなかった。
だけど、この先のことを考えると、選択肢なんて他にない。
この先を、たった一人で生きてはいけないとわかっていたし、特殊な病を患っているのなら、水無月家の力を借りて治さなければならない。でも……
私は頭を垂れて、顔を両手で覆う。
悲しいわけではない。ただ、自分がこれからどうすべきなのか、目を覆って必死に頭で考えていた。
私は、この人と結婚してまで、生き延びたいの?
生きるって、どういうこと?
「……嫌では、ありません」
私はゆっくりと顔から手を離し、父の選んだ男の子を見る。
「むしろ、ありがたいお話だと思っています。恵まれ過ぎていると。私なんて、何も持っていないのに……」
言いながら、声も体も震えていた。
どうして震える。本心では、この婚約話をとても嫌がっているみたいじゃないか。
私はただ、この話をありがたいと思ってしまう自分が、無性に情けなくなったのだ。
もっと自分に自信があって、生きる力がある強い女の子だったなら、きっとこの婚約話を突っぱねるに違いない。自分の未来は自分で決めると言い切り、自分の足で歩き、運命の人だって自分で見つけるに違いない。
だけど私は、用意されたものを受け取るばかりで、それをありがたがっている。
なんて魅力のない、面白みのない、流されやすくて意志の弱い女だろう。
こんな私と結婚しなければならないこの人が……文也さんが、かわいそうだ。
「すみません。こんな……外堀を埋めるような、形になってしまって……」
文也さんもまた、悔やむような表情を見せ、膝の上で拳を静かに握る。
「きっと、普通に恋をして、好きになった相手と結婚したかったと思います。六蔵さんがそうだったように」
「いいえ」
ただ私は、この時ばかりは、はっきりと否定した。
「いいえ。私は、父と母がどうなったかを、知っていますから」
かつて父は──
親が決めた結婚相手を拒否し、恋をした女性と結ばれるため、水無月の家を出た。
周囲の全てを敵に回してまで、愛を貫き、情熱的な結婚を果たしたのだ。
しかし父と母は離婚した。母は娘の私を愛することができなかったし、父は一族特有の病を克服することができなかった。要するに、幸せになることはできなかった。
幸せになれず、子どもすら愛せず、家族もバラバラになってしまったのなら、その結婚に意味などあったのだろうか。
だから私は、燃え上がるような〝恋愛結婚〟は、はなから求めていない。
そこに憧れは微塵もない。嫌悪すらある。
それでも一人は怖い。家族が欲しい。ゆっくり眠れる居場所が欲しい。
心のどこかで……静かな愛情を注ぎ合い、ずっと側にいてくれる人が、この世に一人でも居てくれたらいいのにと願っている。
「そのお話を、お受けしても、いいでしょうか……」
受けてしまったら、きっともう引き返せない。
だが、私の答えはとっくに出ていた。
たとえそれが自分で見つけた運命の相手などではなく、他人に用意された〝許嫁〟だったとしても、私は、この人に縋ってしまいたかった。
「勿論です。受け入れてくださり、ありがとうございます」
文也さんは、今一度畳に手をつき、私に深く頭を下げる。
「あなたを、一生守り続けると誓います。今日この日より、死が二人を分かつまで」