はじめての春②

文字数 1,535文字

 初回、巨人の選手が大きい打球を放つと、画面は高々と舞い上がる白球をとらえた。そのまま、ボールはスタンドインした。幸先(さいさき)のいいツーランホームランだ。
「っしゃあ!」
 大の巨人ファンだった子どものころからの(くせ)が抜けきらず、つい反射的に反応してしまったわけだが……。
 ガッツポーズを小さく決めた瞬間、部屋の温度がたちまちすぅーっと冷めていくのを感じた。先輩方の冷たい視線が肌に突き刺さる。ここにいるのは、ほとんど全員が関西人なのだ。
 ヤバい。やっちまった……。
 ぞわっと鳥肌が立った。握りしめた(こぶし)を、なんとなく頭のほうにもっていって、前髪を意味もなくととのえる。が、到底ごまかしきれるわけがない。
「あの……、えぇーと、あの……」
 っしゃあ! と、(さけ)んだ直後の口をぱくぱくさせて、言い訳の言葉を必死に考えるが、まったく何も出てこない。
「雨宮、お前、まさか巨人ファンちゃうやろな?」入社五年目の先輩・甲斐(かい)さんが、目を細めて聞いてきた。
 静かな関西弁というのは、かなりこわい。怒鳴られたときよりも、なぜかものすごい圧力を感じるのだ。
「いや、まさか!」両手を体の前でぶんぶん振った。「ありえないっすよ、嫌だなぁ、あははは!」
「ホンマか?」
「本当です!」
(うそ)ちゃうやろな?」
「噓じゃないです!」
 完全なる噓だった。
 俺は生まれも育ちも東京だ。旅行以外、関東近郊から出たことがなかった。
 高校を卒業し、あわただしく入社の準備を整え、実家から兵庫県にある阪神園芸の寮に引っ越すとき、旅立つ息子を心配してか、母さんは俺にこうきつく言いふくめたのだった。
「いい、大地(だいち)。何があっても、向こうで巨人ファンであることを知られてはダメだからね。絶対に隠しとおすって、ここで(ちか)ってちょうだい」
「えっ、なんで……?」
「なんでじゃないでしょ!」母さんは、あきれ顔を浮かべた。「大阪とか兵庫で、もし巨人ファンであることがバレたら……、いったいどんな目に遭うか想像するだけでこわいんだから」
「えっ、テレビの中継で観たことあるけど、甲子園にも巨人ファンだって大勢来てるよね」
「みんな電車のなかでは、巨人の帽子やユニフォームを隠してるに決まってるじゃない。それで、球場に着いて、まわりに仲間がいる状況ではじめて、グッズを身につけられるの。もし、オレンジ色の人間が一人でうろうろしてたら、阪神ファンに囲まれて、何をされるかわかったものじゃないんだから」
 母さんいわく、甲子園球場には虎の刺繡(ししゅう)が入った特攻服や、(すそ)の広がったボンタンを着こんだファンがつめかけ、過激なヤジが飛び交うらしい。
「だいたいね、阪神グループの社員が、ライバルの巨人ファンだなんて知られてみなさい。あんた、即、クビ。絶対、クビ」
 つばをのみこみ、かたくうなずいた。
 阪神園芸株式会社は、阪神電気鉄道が百パーセント出資をしている子会社だ。そして、阪神電鉄はもちろん阪神タイガースの親会社でもある。たしかに、甲子園で働く以上、口が裂けてもジャイアンツファンなどと言えるわけがないと思った。
 母さんの助言を(きも)(めい)じ、俺は実家を出た。何がなんでもグラウンド整備のプロになると誓い、東京をたったのだ。
 が、暖かくなってきた五月の気候もてつだって気が緩み、ボロが出てしまった。母さん、ごめんなさい──母の忠告を守れなかったことを、心のなかで懺悔(ざんげ)した。雨宮大地、十八歳、たった一ヵ月で社会人生活を終えてしまうことになるかもしれません……。


→はじめての春③に続く

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