『コーチ！ はげまし屋・立花ことりのクライアントファイル』無料試し読み！②
文字数 2,130文字
ことりが初めて持ったクライアントは、美術系の大学への入学を希望している十八歳の女性だった。
ことりには美術のことなどまるでわからないので、大学受験用の赤本やあちこちのサイトを見て勉強した。受験生のふりをして美術予備校の見学までした。私なんて無理というクライアントと毎日ＬＩＮＥのやりとりをし、なだめたりすかしたりして予備校に通わせ、ノルマを決めて絵を描かせて、合格させたのである。
励まし期間は約一年、無事大学生になり、学校になじんだところまで続行した。終了時には両親からていねいな手紙と菓子折が届き、一回会ってお礼を言いたいと言われたが断った。
当事務所の励ましは電話が基本。ＬＩＮＥやＺｏｏｍは使うが、直接会うことはない。それがルールである。
ことりは自分のノートパソコンを立ち上げて、おなじみのサイトにアクセスする。
「はげまし屋」
楠木はげまし事務所──あなたの人生、励まします！──
キャッチコピーのすぐ下には、おだやかに微笑んだバストアップの写真が三つ並んでいる。
楠木海人──所長。医師、臨床心理士、産業カウンセラー上級資格保持。二児の父親として子育てに奮闘中。毛は薄いが心は熱い、世の中を明るく照らしたい四十六歳。まずはご相談を！
時村仁政──三十四歳。株式会社電光、七つ丸商事マーケティング研究室に勤務ののち、フリーのコーチに。趣味はバイクと旅行。愛車はＣＢ７５０Ｆとフォルツァ。独身。コーチ歴六年。起業相談、ビジネスの悩みならお任せを。
立花ことり──二十七歳。コーチ歴一年半。新米ですが、心をこめて指導します。深夜のご相談、メッセージアプリでのやりとり可。一緒に目標を叶えましょう！
写真のことりはベビーピンクのスーツを着て笑っている。修整を加えてあるので美人で、どこもかしこもつやつやしていて、賢そうだ。スーツは楠木所長が入所祝いに贈ってくれたものだが、着たのは後にも先にも写真を撮ったときだけである。
会わないのだから写真はなくてもいいと思うのだが、指導してくれる人の顔がわからないと不安でしょ、というのが楠木の主張で、事務所の方針でもある。
コーチは上司じゃないの。クライアントと一緒に悩んで育つ仲間なの。仲間になるにはまず、自分がどんな人間だか知ってもらわなきゃならないでしょ。
それなら相手の顔や氏素性も明らかにしたらどうかと思うのだが、そちらはあやふやのままだ。客の個人情報は自己申告であり、確認をとるわけではないので、本当かどうかもわからない。やりとりするときはクライアントネームでいいことになっている。
楠木は妙なこだわりがあるかわりに、肝心な部分はいいかげんである。それはことりを雇ったことでわかる。
事務員を含めてもたった四人、おんぼろビルの一室でやっているような事務所に客がいるのかと最初はいぶかしんだが、いいかげんだからこそ頼む人がいるということを仕事を始めてから知った。田園調布の一軒家に暮らす裕福な主婦が、「きちんとした暮らしをしたい」などという目標を達成するために励ましてもらうのは、自分よりも格下の相手、電話口にいるだけの幻でなくてはならない。
つまり、わたしは幻。クライアントに霞を食べさせるためにこの事務所にいる。頑張れ頑張れ、あなたならできる、という言葉の霞を。
そしてその霞を食べて、人生を変える人がいるのもまた事実。
「女性派遣社員のデータ送ってください。名前は？」
「ポリアンナちゃん。わりとネガティブ。よかった探ししてあげて」
サイトとメールの管理は事務員の羽菜子が行っているのだが、仁政は暇なので事務所あてのメールのチェックをしていたらしい。羽菜子は今日は子どもが熱を出したとかで早退している。
ことりはのど飴をなめながら、仁政が送ってきたクライアントのデータを見る。
名前はポリアンナこと益田安奈。二十四歳。大手の派遣会社に登録して、受付の仕事をしているが、最近仕事が楽しくない。正社員として大きい会社に勤めたほうがいいような気がする。大学を卒業するときに、もっとちゃんと考えればよかった。このままでは夢も希望もありません。どうしようという気持ちでいっぱいです。どうしたらいいんでしょう。
二十四歳、派遣社員。混乱中。
こういうクライアントは珍しくない。変化を望んでいるが具体的な目標が定まっておらず、従って何をしたらいいかわからず、焦りだけがあるタイプである。
ことりはデスクの引き出しを開けた。数秒迷ってパンダのぬいぐるみを選び出し、デスクの視線の位置に置く。データをスマホに転送し、ポリアンナにメールを書く。
まず一回電話、それで納得したら専属コーチの契約をして、仕事が始まるのはそれからである。
青木祐子（あおき・ゆうこ）
『ぼくのズーマー』が集英社主催2002年度ノベル大賞を受賞し作家デビュー。「これは経費で落ちません！ 経理部の森若さん」シリーズがドラマ化、コミック化され人気を博す。『派遣社員あすみの家計簿』も好調！
ことりには美術のことなどまるでわからないので、大学受験用の赤本やあちこちのサイトを見て勉強した。受験生のふりをして美術予備校の見学までした。私なんて無理というクライアントと毎日ＬＩＮＥのやりとりをし、なだめたりすかしたりして予備校に通わせ、ノルマを決めて絵を描かせて、合格させたのである。
励まし期間は約一年、無事大学生になり、学校になじんだところまで続行した。終了時には両親からていねいな手紙と菓子折が届き、一回会ってお礼を言いたいと言われたが断った。
当事務所の励ましは電話が基本。ＬＩＮＥやＺｏｏｍは使うが、直接会うことはない。それがルールである。
ことりは自分のノートパソコンを立ち上げて、おなじみのサイトにアクセスする。
「はげまし屋」
楠木はげまし事務所──あなたの人生、励まします！──
キャッチコピーのすぐ下には、おだやかに微笑んだバストアップの写真が三つ並んでいる。
楠木海人──所長。医師、臨床心理士、産業カウンセラー上級資格保持。二児の父親として子育てに奮闘中。毛は薄いが心は熱い、世の中を明るく照らしたい四十六歳。まずはご相談を！
時村仁政──三十四歳。株式会社電光、七つ丸商事マーケティング研究室に勤務ののち、フリーのコーチに。趣味はバイクと旅行。愛車はＣＢ７５０Ｆとフォルツァ。独身。コーチ歴六年。起業相談、ビジネスの悩みならお任せを。
立花ことり──二十七歳。コーチ歴一年半。新米ですが、心をこめて指導します。深夜のご相談、メッセージアプリでのやりとり可。一緒に目標を叶えましょう！
写真のことりはベビーピンクのスーツを着て笑っている。修整を加えてあるので美人で、どこもかしこもつやつやしていて、賢そうだ。スーツは楠木所長が入所祝いに贈ってくれたものだが、着たのは後にも先にも写真を撮ったときだけである。
会わないのだから写真はなくてもいいと思うのだが、指導してくれる人の顔がわからないと不安でしょ、というのが楠木の主張で、事務所の方針でもある。
コーチは上司じゃないの。クライアントと一緒に悩んで育つ仲間なの。仲間になるにはまず、自分がどんな人間だか知ってもらわなきゃならないでしょ。
それなら相手の顔や氏素性も明らかにしたらどうかと思うのだが、そちらはあやふやのままだ。客の個人情報は自己申告であり、確認をとるわけではないので、本当かどうかもわからない。やりとりするときはクライアントネームでいいことになっている。
楠木は妙なこだわりがあるかわりに、肝心な部分はいいかげんである。それはことりを雇ったことでわかる。
事務員を含めてもたった四人、おんぼろビルの一室でやっているような事務所に客がいるのかと最初はいぶかしんだが、いいかげんだからこそ頼む人がいるということを仕事を始めてから知った。田園調布の一軒家に暮らす裕福な主婦が、「きちんとした暮らしをしたい」などという目標を達成するために励ましてもらうのは、自分よりも格下の相手、電話口にいるだけの幻でなくてはならない。
つまり、わたしは幻。クライアントに霞を食べさせるためにこの事務所にいる。頑張れ頑張れ、あなたならできる、という言葉の霞を。
そしてその霞を食べて、人生を変える人がいるのもまた事実。
「女性派遣社員のデータ送ってください。名前は？」
「ポリアンナちゃん。わりとネガティブ。よかった探ししてあげて」
サイトとメールの管理は事務員の羽菜子が行っているのだが、仁政は暇なので事務所あてのメールのチェックをしていたらしい。羽菜子は今日は子どもが熱を出したとかで早退している。
ことりはのど飴をなめながら、仁政が送ってきたクライアントのデータを見る。
名前はポリアンナこと益田安奈。二十四歳。大手の派遣会社に登録して、受付の仕事をしているが、最近仕事が楽しくない。正社員として大きい会社に勤めたほうがいいような気がする。大学を卒業するときに、もっとちゃんと考えればよかった。このままでは夢も希望もありません。どうしようという気持ちでいっぱいです。どうしたらいいんでしょう。
二十四歳、派遣社員。混乱中。
こういうクライアントは珍しくない。変化を望んでいるが具体的な目標が定まっておらず、従って何をしたらいいかわからず、焦りだけがあるタイプである。
ことりはデスクの引き出しを開けた。数秒迷ってパンダのぬいぐるみを選び出し、デスクの視線の位置に置く。データをスマホに転送し、ポリアンナにメールを書く。
まず一回電話、それで納得したら専属コーチの契約をして、仕事が始まるのはそれからである。
青木祐子（あおき・ゆうこ）
『ぼくのズーマー』が集英社主催2002年度ノベル大賞を受賞し作家デビュー。「これは経費で落ちません！ 経理部の森若さん」シリーズがドラマ化、コミック化され人気を博す。『派遣社員あすみの家計簿』も好調！
