『コーチ!  はげまし屋・立花ことりのクライアントファイル』無料試し読み!➂

文字数 2,111文字

 転職か……。
 二年前──自分がくじけずに転職活動していれば、あるいは大学のときに本腰を入れて就職活動をしていれば。あのときに励ましてくれる人がひとりでもいれば、今ここで、この仕事をしていることもなかったんだろうか。
 就活失敗というほどの経験もなく、流されるままに生きてきた自分が転職のコーチになるというのもうしろめたいものである。ポリアンナと話すときは、自分の経験は隠し通さねばならない。
 わたしは人の力になりたかったんです。自分の言葉で人を変えたかった。もともとは出版業界で仕事をしていましたが、もっとダイレクトに、ひとりひとりに言葉を届けたいと思っていた矢先に、楠木所長と出会いました。
 ことりはこれまでに何回も繰り返してきた自分の経歴を心の中で繰り返す。
 コーチに自己開示は必須だ。噓をついてはいけないが、噓をつかずにそれらしいことを言うことはできる。
 楠木が言っていたことは本当だった。客はことりにどうしてコーチなどという仕事をしているのか聞きたがる。自分のことばかり話していると、自分も相手に質問したくなるのかもしれない。何回も話してきたから、自分でもこの仕事が求めてきた天職だと思うくらいである。
 実際は成り行きだった。コーチという仕事が何なのかすら知らなかったわけだが、そんなことはクライアントには言ってはならない。
 わたしは手っ取り早い答えを教える人ではありません。一緒に悩み、問いかけ、励ます人です。努力するのはあなたです。
 未来は勝ち取るもの。悩みの答えは自分の中にある。今の場所がスタート地点。適切な目標へ向かって正しい行動をすれば、誰でもゴールへ向かうことができる。
 ことりは目を細め、二年前──あなたならできる、という言葉につられて、この事務所を訪れたときのことを思い出す。
*       *
「だからぶっちゃけ、やる気スイッチを押してやる仕事ですね」
 事務所の奥にある所長室で、楠木海人はもったいぶった口調で言った。
 二年前の春、ことりがすがる思いで事務所を訪れたときのことである。

 楠木はげまし事務所 女性コーチ募集。
 あなたは言葉を信じていますか?
 信じているのなら、できます。

 サイトに載っていたのはそれだけだった。今思うと、なぜこんな文句に揺すぶられたのかわからない。もしかしたら励ましてもらいたかったのかもしれない。
 ことりはそれまで勤めていた編集プロダクションの契約社員を辞めたところだった。周囲には出版業界で働きながら大手出版社への就職を目指している──ということにしていたのだが、自分にそれほどの情熱がないということにはうすうす気づいていた。
 生活のためには働かねばならないが、誰かに使われて働くのは性に合わない。出世欲も野心もない。趣味もない。恋愛や結婚への興味もない。これは妙齢の女性としては詰みではないかなどと思いながらサイトをさまよっていたら、楠木はげまし事務所のページを見つけたのだ。
 北向きのビルの一室、事務所の奥まった所長室で、ことりは楠木所長と対面した。黒のリクルートスーツは二十五歳の身には似合わなかったが、それ以外にスーツを持っていないので仕方がない。
「お客さんはやる気のない人たち、ということですか?」
 ことりが尋ねると、楠木は見せつけるように長い足を組んだ。
「やりたいことがあって、やる気に満ちた人ばかりですよ。さもなきゃ専属コーチをつけようとは思わないでしょう。ただ面倒くさいんですよ。フルマラソンを走りきりたいけど、トレーニングをするずくがない」
「ずく?」
「方言です。そこにある横に置いてあるものを、縦に置き直すパワーのことです」
 楠木はもったいぶったしぐさで、テーブルの上に置いてあった、黒光りするティッシュケースを縦に置き直した。
「やる気があるのに面倒くさくてできない人を、ずくなし、といいます」
「なるほど……」
「そんなときに電話をして、トレーニングの時間ですよ、と言ってあげるのです。あるいは毎日、メールで今日の走った距離を報告してもらうのでもいい。声をかける、報告する、ということをなめちゃいけません。ダイエットだったら体重、受験勉強だったら今日すすんだページ数。禁酒、禁煙、会社に行くのが辛いので、朝に頑張れという電話をくださいと言う人もいる。家族や恋人だったら甘えや反発が出ますが、他人の言うことなら聞かなければと思う。それだけで毎日続けられるのです」
「朝に頑張れと電話をかけてもらう。そのためにお金を払う人がいるんですか?」
「そうです。コーチ契約のオプションで、平日の朝一回、三分以内なら月一万円です。安いでしょう」
 楠木は胸を張った。

青木祐子(あおき・ゆうこ)
『ぼくのズーマー』が集英社主催2002年度ノベル大賞を受賞し作家デビュー。「これは経費で落ちません! 経理部の森若さん」シリーズがドラマ化、コミック化され人気を博す。『派遣社員あすみの家計簿』も好調!


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